もういいかい?まあだだよ
って、かんじですね。
何が?
龍樹本です。。。待ちくたびれてきました。
みなさまには、お騒がせしたあげく
音沙汰なしで申し訳なく思っておりますが
出版社の方から、何もないので
どうしようもありません。
4月頭には、何か言っていただけるということでした。
今は、4月
そして、
頭。。です。。よ。。。。。ね。。。うちのこよみじゃ
メールすると、
うるさいヤツだと思われるかもしれないので
ここに書いて、出版社に、「気」を送ろうかな~~
げ・ん・き・だ・まぁ~、とぉ~りゃあぁ~
ドラゴンボールの読み過ぎ、管理人!
元気玉、送ってどうするのよ。
おねがい!なんか言って!出版社どの!
こうなったら、なんでもいいからさ (え?)。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
本の内容にかかわると思って、
龍樹の話も書きにくいのよ。
パユットー師の『仏法』についても
龍樹がらみで書きたいこともあるけど
本が出ないとダメかなぁ、って
思って、がまんしてるのだ。。
もの言わぬは、腹ふくるるおもい って、
昔の人は言ったけど、ほんとね。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
龍樹本を、
今、ようやく読み返してみてるんですが、
なんか酸欠になりそうです。
書いてるときの、息苦しさがまた甦る。
砂嵐のタクラマカン砂漠を進む法顕のように
呼吸困難になりそうです。
脳みそがまわりきらないんですね。
「一切智」を必要とするのに
「部分智」しかないので
フル回転で脳みそ使いまわしてるかんじですわい。
推敲しようと、前は思ってたけど
もう ちゃんと読み直すことができずに そのままでした。
わたしの書き方としては、ありえないのです。
推敲しているうちに形になってくるのに、
今回は、書いたら書きっぱなしでした。
限界超えてたので、
もう自分のものを読むことができなかったんです。
だから、今 読むと、ほとんど他人の書いたものだ。。
へぇ~、こんなことも言えるのか
って、自分で言っててどうするの、って感じです。
パユットー師の『仏法』を読んで
観点、似たところがあると思いました。
でも、読んでいくと
わたしの説って、やっぱり、わたしなんだなぁ
と、他人事のように自分で思うのでした。
ふつーのこと書いてるつもりで、
ものすごく変わってるのかも。。
それとも
やっぱり、ふつーなんだろうか。。
龍樹は、ほんとはすごく純ないいやつさ
ということは、書きました。
どうも、その点を書いてある本がないような気がする。
ということは、
もう、そこからして ふつーじゃないのかしら。。。ね
出版社どの、ブログ読んでないと思うけど、
インターネットで「気」をおくります。。
ザワッぁぁぁぁぁ
としたら、わたし だかんね。。
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コメント
>わたしは、みみっくさまに、たくさん語りました。
>本に書こうかなという内容まで、けっこうしゃべってしまいました(笑)。
>まぁ、いいや、出し惜しんでどうする、みたいな感じです。
ありがとうございます。
>でも、本に書いちゃったものは、出版社などとの約束上ちょっとしゃべってはいけないかなと思いますので、ここまでにします。
龍樹本は楽しみにしています。
龍樹本が出版されたらまた少し話ができますね。
本に書く予定なのでしゃべれないという理由は納得していますので、今後もそういう事情の時はおっしゃって下さい。
それに、とりあえずは未発表の研究成果は抜きで反論することを考えるべきだと思いますけどね。
論文として公表するまでは、その研究成果は存在していないとみなしてくれないと(笑)。
どうせ学問なんて終わりのない議論なんですから、新しい研究成果でいつ結論がひっくりかえるかわかりません。
結論は常に「現時点では」だと思います。
とりあえずエムさんには、「未公表の研究成果」を反論に使うのは卑怯だと非難しておきます(笑)。
議論としては歓迎ですが、討論として考えると反則ですよ(笑)。
ちゃんと論文として公表してから反論して下さいませ。
時間差攻撃(後から研究成果を公表して反論する)は学問の常ですので、お気になさらずに。
>みみっくさまは、ときどき仏陀論理学徒になります。しかし、多くは、それ以外の論理にいます。
ブッダ論理学は認めているということです(笑)。間違いで使っているわけではありません。
それにブッダ論理学の主張が世間に認められると私にとっても都合が良いということでもあります。
道場#2369でmuさんの言っていることは重要だと思います。
なんらかの解決を必要としているのは間違いありません。
>しかし、仏教以外の論理学は、一つの論理ではありません。二つの論理が混在しています。ブッダ論理学と他の論理学です。
ブッダ論理学が一つの論理で貫かれているのは、語らないことがあるからだというのが私の意見なんですよ(笑)。
道場#2395のsamadhiさんの投稿に二重論理構造の話が出ていますね。
基本的には同じ事情を指して言っているという解釈でいいでしょうか。
心的世界を扱うには西洋論理学では不都合が多いのは確かだと思います。
だから二重論理構造ということになってくるのでしょう。
西洋哲学(論理学)の人の意見が聞きたいところなんですけどね。
投稿 みみっく | 2007/04/10 13:12
みみっくさま
マールンクヤプッタですね、みみっくさまも。
わたしも、もち、そうですよ(笑)。
わたしは、みみっくさまに、たくさん語りました。
本に書こうかなという内容まで、けっこうしゃべってしまいました(笑)。
まぁ、いいや、出し惜しんでどうする、みたいな感じです。
でも、本に書いちゃったものは、出版社などとの約束上ちょっとしゃべってはいけないかなと思いますので、ここまでにします。
話せることは、みな語りました。
わたしがブッダから教えてもらったことは、みな、経典にあることです。経典にないことは語りません。あることで自分の理解できたものを語りました。
みみっくさまは、ときどき仏陀論理学徒になります。しかし、多くは、それ以外の論理にいます。
わたしは、経典・論書の中では、ブッダ論理学徒です。実社会に復帰しても、ブッダ論理学徒を引きずっています。なりきれてませんが。。
仏教は、とても論理的だと思います。一つの論理に貫かれているからです。
しかし、仏教以外の論理学は、一つの論理ではありません。二つの論理が混在しています。ブッダ論理学と他の論理学です。
投稿 管理人エム@マールンクヤ | 2007/04/10 08:00
>あ、そうなのね。そうなんですね。。。こちらも、答えづらくなってきましたね。煮え切らない返事です。
私は最初から「答えられない」と予想しています。
仏教はこの問題を解決していないというのが私の見解なのですから。
私の発言を引用
> 私は、何故それを質問するべきではないのかについて明確な解答を与えるべきだという考えです。
> 仏教の回答では満足できないので。(「毒矢のたとえ」のことです)
仏教に回答があるのであれば、私が代わりを用意する必要はないのです。
だから聞きたかったのですよ。危険地帯への登山になってしまうので。
止める理由ができるまでは、続けざるを得ないかな。
適切な回答を見つけたらいつでも構いませんので教えて下さいませ。
私も危険を冒す必要がなくなりますので。
投稿 みみっく | 2007/04/10 02:31
>ドラゴンボールから聖闘士星矢、幽遊白書にスラムダンクと、初歩はいちおう学んでおります(笑)。
ジャンプ黄金時代ですね。このころは一週間で、600万部も売れていたとか。『聖闘士星矢』に「シャカ」というキャラクターがいました。必殺技は「六道輪廻」(笑)。人間や神様になっちゃったら、効き目がないような。『聖闘士星矢』では時々ギリシア語が出てきましたが、最近見たところ、どういうわけか現代ギリシア語でした。
>サーリプッタのおはなしは、煩悩とはちょっとちがっていて、ブッダが優れていることを知るのに、過去世を見る宿明通などによって知るのではなく、城砦のただ一つの門を見張って出入りする人々を知る門番のように、法門を数え上げてブッダが全知者であることを知る、ということだったように思います。
完全に間違っておりました(汗)。素人のうろ覚えは危ないですね(大汗)。ありがとうございました。勝手に難攻不落のブッダを想像しておりました。
>「はじめに言葉ありき」
これが問題の『ヨハネの福音書』のロゴスです。このあと、「み言葉はこの世にあった。この世はみ言葉によってできたが、この世はみ言葉を認めなかった。み言葉は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。(フランシスコ会訳)(1.10-11)」ともあります。手じかな新約聖書の辞書をひきますと、ロゴスには「神の語りかけとしての人格キリスト」の意味もある、『ヨハネの福音書』をみよ、と書いてあります(織田昭編『新約聖書ギリシア語小辞典』(教文館 2002年))。
>パトスは、パッションのことで、そこからパッシブの意味をもつと、どこかで読んだような気がします。
パトスはそのままローマナイズされて、pathos,ペーソスの意味で使われています。passionとpassiveはラテン語のpatior(経験する、苦しむ)から派生した言葉ですが、ギリシア語のパスコーやパトスと直接的な関係があるかは微妙です。戦前からの辞書には関係があるように書いてありますが、最近の辞書には書いてありません。通説が変わったのかもしれません。インド=ヨーロッパ語族的には関係があると思いますが・・・。
投稿 カラスノエンドウ | 2007/04/09 22:59
>> 語っていないといえば語っていないかもしれませんが、問題にしているといえば問題にしているのではないでしょうか。
> これが私の見解なんですけど・・・。
あ、そうなのね。そうなんですね。。。こちらも、答えづらくなってきましたね。煮え切らない返事です。
> 語ることはできないが、返事しないわけにもいかなかったんでしょ(笑)。
ううむ、ますます、答えづらい。
龍樹本をご覧くださいと、逃げよう(笑)。
いつも、この手になってきましたな。
> ブッダと理想的な討論をした人は全員悟ってしまったのではないでしょうか。
大いにありえます。
ブッダに反発し論争を持ちかけた人ほど、悟るとなったら、一気にいったと思いますね。
投稿 管理人エム | 2007/04/09 20:21
>> これを説いているかどうかを私は問題にしています。
>それは、みみっくさま、みみっくさまもご自分で考えることが可能です。
私の文章を引用
> 語っていないといえば語っていないかもしれませんが、問題にしているといえば問題にしているのではないでしょうか。
これが私の見解なんですけど・・・。
語ることはできないが、返事しないわけにもいかなかったんでしょ(笑)。
本当は、そんなことを質問する方が悪いんですけどね(笑)。
でも質問する人はいなくならない。どうしましょうかという話です。
私は、何故それを質問するべきではないのかについて明確な解答を与えるべきだという考えです。
仏教の回答では満足できないので。(「毒矢のたとえ」のことです)
>ブッダとの論争において、このような理想的な討論もあったことだろうと思っています。
ブッダと理想的な討論をした人は全員悟ってしまったのではないでしょうか。
私の構想する議論システムというのはそういうものです。人と人が円滑に意見を交わし、対話する。
これをシステムとして支援するということです。
>本気で討論をしながら、なおかつ、このようななんでも言い合えるというのは、ほんとに鍛えられた人々でなければならないかもしれません。
何をすると風通しが悪くなるのかは、ある程度まではマニュアル化できると思うのですよね。それ以上は、管理人の介入を必要とするでしょうが。「自分の心掛け次第」というのは師なしで修行しろと言っているようなもので、無茶だと私は思うのです。
充分に鍛えられていない人のために師というものが存在するのだと思いますから。世界そのものを師として生きるのはそれこそ鍛えられていないとできないですよ。
>マールンクヤプッタは、ブッダに「愚か者よ」とか、ちょっと言われているけど、平気です。
ブッダも言いたいことを言っていますね(笑)。
馬鹿というのは自分が馬鹿だからなんだぞと言う人に教えてあげないといけないようです。
投稿 みみっく | 2007/04/08 18:14
みみっくさま
率直に、だんだん、むずかしいところに入ってきましたね。
> 「心にしみる原始仏典」「箭喩経」『マッジマ・ニカーヤ』第63経(PTS Text,MN.Vol.1,pp.426-432.) より引用
……
……
> これを説いているかどうかを私は問題にしています。
それは、みみっくさま、みみっくさまもご自分で考えることが可能です。
> 仏教は大丈夫ですか?
> 「仏教に対してなんたる失礼な」ってことになってませんかってことですけど
ブッダは、「なんと失礼な」と怒りました、、、っとは、経典に書いてないので、大丈夫です。
マールンクヤプッタは、ブッダに「愚か者よ」とか、ちょっと言われているけど、平気です。
> 風通しが良く、何でも言い合える雰囲気が好ましいですね。でもそのためには何をしても構わないということにはならないのが難しいところです。釈尊はこういうことがわかっていたのだと思います。
これは、ほんとに理想ですよね。わたしも、そういうサイトでありたいと願っています。
本気で討論をしながら、なおかつ、このようななんでも言い合えるというのは、ほんとに鍛えられた人々でなければならないかもしれません。
ブッダとの論争において、このような理想的な討論もあったことだろうと思っています。
投稿 管理人エム | 2007/04/08 17:30
>当時、部派の中でも、空をとりあげて説く者たちもけっこういたのです。大乗でも、「空」をテーマに展開していきます。龍樹だけではないのですよ。
だから、大乗の必然性ということでしょ。
>つまり、「空」は、仏教徒であるなしにかかわらず、認められうるものだからです。「無我」は抵抗を覚える人が多いですが、「空」はそうでもないかもしれません。
これが大乗の必然性ということになるでしょう。
>わたしの知るかぎりでは、部派も大乗も密教においてさえ、もっとも正統的な人々においては、ブッダが説いたもの以外のことは説いていないように見えます。
道場でも言及しましたが、
「心にしみる原始仏典」「箭喩経」『マッジマ・ニカーヤ』第63経(PTS Text,MN.Vol.1,pp.426-432.) より引用
>『永遠であるのは世界である』も
>『永遠でないのは世界である』も
>『有限なるものは世界である』も
>『無限なるものは世界である』も
>『命と身体は同じである』も
>『命と身体は別である』も
>『如来は死後に存在する』も
>『如来は死後に存在しない』も
>『如来は死後に存在しかつ存在しない』も
>『如来は死後に存在するのではなく、存在しないのでもない』も。これらを尊師は、わたしに語らなかった。
これを説いているかどうかを私は問題にしています。
これに対する回答が、「龍樹の空」なのではないかということです。「大日如来」でもいいですけど。
語っていないといえば語っていないかもしれませんが、問題にしているといえば問題にしているのではないでしょうか。
釈尊の上の回答に納得しない人が多いから大乗が登場せざるを得なかった(大乗の必然性)のではないかということです。
>ブッダが、「空」をおもてだって説かなかったのには、わけがあります。理論上のものです。
空をおもてだって説かなかった理由は、それが世界の真の姿を説くことであり、釈尊が無意味であり、語るべきではないとしていたことだからではないのですか?
>仏教徒から見ると、「空」は、その根本では「無我」と同じでなのです。
それは後からわかることであって、普通はこの関連性はわかりませんよ。それに厳密には同じではないでしょう。実質的には同じことを意味してはいても、表現としては異なります。
「空即是[無我]」、「[無我]即是空」が成り立つかどうかです。
つまり無我は心(命)について語っており、空は身体について語っています。これが同じことを言っているということを理解することが、命と身体の関係を理解することです。
無我に抵抗を覚えるのは、それが自分のことだからです。空に抵抗を覚えないのは、自分のことではないからです。「自分のこと」は理論的に考えることはできませんからね。
「実感」あるいは、「実態」に基づいて反応せざるを得ません。
ちなみに無宗ださんの紹介してくれた文章読んだら吐きそうになりました(笑)。
これこそ「実感に基づく反応」というべきものでしょう。
自分と関係ないはずなのに影響してしまうのは、感情移入するからです。元の状態(平常心)に戻せない人は苦しみ続けなければならないでしょうね。
道場#2383よりエムさんの文章を引用
>わたしの知ってるニヤーヤ学派は、ブッダ思想にちょっとだけ変更を加え、アートマンを入れました。それによって、思想は大幅に変更を余儀なくされ、その理論の「枠」は、見る影もなく小さなものになってしまいました。たった一つアートマンを入れただけ、それも、ほんとうに存在論的とは言えない、かなり、認識論的なものなのに、こんなにちっぽけになってしまうんだ、と思いました。ニヤーヤ学派は、良識ある知識人の入るクラブのようです。庶民は、あぶれます。
エムさんの認識はこの体験に基づいているのですね。
道場#2383よりエムさんの文章を引用
>師に対して、けっこうすごいことを直接たずねています。ふつうの宗教(?)なら、「師に対してなんたる失礼な」と言われそうです。
仏教は大丈夫ですか?
「仏教に対してなんたる失礼な」ってことになってませんかってことですけど。
風通しが良く、何でも言い合える雰囲気が好ましいですね。でもそのためには何をしても構わないということにはならないのが難しいところです。釈尊はこういうことがわかっていたのだと思います。
心にしみる原始仏典
『アングッタラ・ニカーヤ』Ⅲ.67(PTS Text,Vol.1,pp.197-8)
http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/mahavagga.html
該当部分が長いので引用は省略しますが、「ともに語るにふさわしい人」こそが「悟りに至れる人」ということではないでしょうかね。というか、悟ってないとできないですよ。
以上です。
投稿 みみっく | 2007/04/08 16:25
無宗ださま
しまった!読んでしまった!
受け入れがたい、と、ご親切に注意つきでしたのに、読んでしまいましたよ(笑)。
うっ!受け入れがたいぃぃ。
みみっくさま
> 私は釈尊の説かなかったことを龍樹は説いてしまっていることが原因で反発が強くなっていると思うのですけれどもね。
当時、部派の中でも、空をとりあげて説く者たちもけっこういたのです。大乗でも、「空」をテーマに展開していきます。龍樹だけではないのですよ。
> 空を説くということはそういうことではないでしょうか。悟りに至る方法ではなく、「世界の真の姿」を説いていることになってはいませんか?
仏教徒から見ると、「空」は、その根本では「無我」と同じでなのです。ブッダが、「空」をおもてだって説かなかったのには、わけがあります。理論上のものです。
「世界の真の姿」というのも、ある意味、あたっているかもしれません。
つまり、「空」は、仏教徒であるなしにかかわらず、認められうるものだからです。「無我」は抵抗を覚える人が多いですが、「空」はそうでもないかもしれません。
ブッダが説かなかったものを、部派、大乗が説くということがあるのかどうか、全部確かめてないのでわかりませんが、わたしの知るかぎりでは、部派も大乗も密教においてさえ、もっとも正統的な人々においては、ブッダが説いたもの以外のことは説いていないように見えます。
投稿 管理人エム | 2007/04/08 09:53
ちゃちゃ入れです(笑)
受け入れるのに抵抗を感じるエピソード。
http://blogs.yahoo.co.jp/ibaranopon/16935454.html
投稿 無宗だ | 2007/04/08 06:30
>う、うん、そのつもりでしたが、龍樹の失敗をくりかえしそうな気がしてならない。。
結局龍樹の失敗とは何で、何が原因かということだと思うのですけどね。
>> 受け入れるのに抵抗を感じる文章は直すべきでしょうが、受け入れまいとすると抵抗を感じる文章ってどうなんでしょうね(笑)。
>
>直さなくてもいいんじゃないでしょうか。
>ずっと考えていけます。
龍樹も基本的には釈尊と同じように「受け入れまいとすると抵抗を感じる文章」を書いているのでしょうが、釈尊との違いはどこにあるのかということではないでしょうか。
私は釈尊の説かなかったことを龍樹は説いてしまっていることが原因で反発が強くなっていると思うのですけれどもね。
空を説くということはそういうことではないでしょうか。悟りに至る方法ではなく、「世界の真の姿」を説いていることになってはいませんか?
何故空を説く必要があるのかということでもあります。「釈尊在世中には強調されなかったのに」ということですね。エムさんはこれを時代の要請と言っていたように記憶しております。
「釈尊が触れなかった領域をどう扱うか」ということだと思うのですけれどもね。
投稿 みみっく | 2007/04/07 01:03
みみっくさま
> 龍樹の失敗を私(エムさん)が正すって言ってなかったっけ。
う、うん、そのつもりでしたが、龍樹の失敗をくりかえしそうな気がしてならない。。
> 受け入れようとしても抵抗がある文章と受け入れまいとすると抵抗がある文章があるということだと思うのです。
後者の文章は、ブッダの説く文章でもありますね。するっと頭に入っていくけど、その後、長くおなかで煮えくりかえります。論理を貫いていくからでしょうね。
王様の喩えを用いたサッチャカとの論争もほんとうにむずかしいおはなしだと思いますよ。
> 受け入れるのに抵抗を感じる文章は直すべきでしょうが、受け入れまいとすると抵抗を感じる文章ってどうなんでしょうね(笑)。
直さなくてもいいんじゃないでしょうか。
ずっと考えていけます。
一方、受け入れようとしても抵抗があるのは、けっきょく受け入れられないでしょうね。
煩悩が入ると、かならず論理的にどこかにひずみがでたり矛盾がでたりしますね。無理があるんですね。
投稿 管理人エム | 2007/04/06 21:05
カラスノエンドウさま
ドラゴンボールから聖闘士星矢、幽遊白書にスラムダンクと、初歩はいちおう学んでおります(笑)。
> 時間をとめてしまうキャラクターもいました(ギニュー特戦隊のひとりだったかな?)。編集者の人はそいつにやられているのではないかと。
そうか。強敵ですね。助けにいかなきゃ。スーパーサイア人に変身できればお茶の子だが。。(なりきるわたし)。
ロゴスとパトス、詳しく調べてくださってありがとうございます。
そうですか。「話す」が先にあって、それから、「理性」の意味がでてくるのですか。「はじめに言葉ありき」なのですね。
西洋では、おっしゃるように、言葉は合理や客観と結びつくのでしょうか。感情や情緒とは、あまり結びつかないのですね。なんとなくわかるような気もします。
ギリシア悲劇は一度だけ見たことがあります。忘れてしまいましたが、コロスは特徴的でしたね。
パトスは、パッションのことで、そこからパッシブの意味をもつと、どこかで読んだような気がします。
外から襲ってくるんですか。なるほど、感じがつかめそうです。パッションは、自分じゃどうにもならない感情なんですね。
カラスノエンドウさま、仏典にも詳しいですね。サーリプッタのおはなしは、煩悩とはちょっとちがっていて、ブッダが優れていることを知るのに、過去世を見る宿明通などによって知るのではなく、城砦のただ一つの門を見張って出入りする人々を知る門番のように、法門を数え上げてブッダが全知者であることを知る、ということだったように思います。
詳しく教えていただいてありがとうございます。西洋の方は、わからないので、とてもありがたいです。
投稿 管理人エム | 2007/04/06 19:19
先生、『ドラゴンボール』を読まれるんですね。
元気玉・・・、「地球のみんな、オラにちょっとづつお金をわけてくれ!」というギャグが連載当時あったような(笑)。「精神と時の部屋」は欲しいときがあります。時間をとめてしまうキャラクターもいました(ギニュー特戦隊のひとりだったかな?)。編集者の人はそいつにやられているのではないかと。
ロゴスとパトスについて調べます、と前に言ったと思いますが、これがなかなか難航しています(汗)。
ロゴスは、もとは「話す(レゴー)」からきた単語で、「言説」を意味します。この用例はすでにホメロスにあるので、話す、の方が先みたいです。これがいつ「理性」になったのかは、ちょっとまだ確定できません。派生語の「ロギスモス」と言ってくれれば、これは理性だけの意味になりますので、訳すときは楽です。「話す」がどうして「理性」になったかと考えてみたのですが、「話す」という行為は、対象を客観化する作用があります。ものすごく深刻に悩んでいることでも、他人に話してみたりすると、なんでもない出来事であることがわかったりします。そのへんの言葉の作用が、理性につながったのかな、と思っています。言葉で感情を表現して、人の共感を買うというのは結構大変で、悲劇のような作品をまずく作るとかえって笑いを誘ったりします。へたな俳優さんが演技すると、シリアスな場面なのに笑ってしまうというのは時々あることです。逆に、喜劇はかなり深刻な話でも、言語化することによって客観視でき、笑い話にできたりします。ギリシア悲劇は「コロス(合唱隊)」という物語の筋に直接必要ない要素を持っていました。これなんかは、映画音楽のように歌によって感情を表現し、言語の理性的な作用を薄めるためのものだったのかもしれません。
パトスの方は、「蒙る(パスコー)」という言葉から来ている単語で、パトスそのものはホメロスにはないみたいです。日本では「情熱」などと訳されて、積極的な感覚のようにされていますが、元来は外から襲ってくる受身のイメージです。英語ではパスコーをsuffer、パトスをsufferingと訳したりします。積極的な場合は、「気概」とも訳される「テューモス」の方を使うと思います。仏教でも、感情を外から襲ってくるイメージでとらえていることはないでしょうか?たしか、サーリプッタがブッダを称えるときに、よく守られた城砦都市に喩えていたと思います。これなどは、煩悩が外から攻めてくるのを完璧に防御している、という印象を受けるのですが、いかがでしょうか。
いずれにしてもまだ暫定的なものです(汗)。ロゴスにはさらにキリスト教も関わってきます(特に『ヨハネによる福音書』でどう扱われているか)。十分に調べが付付きましたら、また書き込んでみたいと思います。失礼しました。
投稿 カラスノエンドウ | 2007/04/06 14:41
>もっと龍樹を学んで、コミュニケーション学を身につけないといかんなぁ。。ブツブツ(もっとひどくなるか)
龍樹の失敗を私(エムさん)が正すって言ってなかったっけ。
>理屈でおすと、どうしても、息苦しくなるんでしょうか。
呼吸困難になるのは文章のリズムの問題もあると思いますけどね。
スラスラ読める文章はよくないので、少しひっかかるような文章を書いて読者の頭に印象が残るようにするのが良い文章とされております。
>わたし、「身体が悲鳴あげる」とまでは言われたことないです。もう、その前に読んでもらえてないかもしれませんね(笑)。
「身体が受け付けない」と「頭に入らない」がセットみたいですね。
読んでも頭に入らない内容を無理やり読む(読ませる)と、身体が悲鳴をあげるようです。
なまじ文章のテクニックを身につけると無理やり読ませるのがうまくなってしまって(笑)。
するっと相手に入るような文章を心掛けて書いていたら苦情が来るようになりました(笑)。
受け入れようとしても抵抗がある文章と受け入れまいとすると抵抗がある文章があるということだと思うのです。
「反論を許さない」文章が、反論しようとすると抵抗がある文章に該当します。エムさんも反論されないように工夫して書いているでしょう(笑)。
こういう文章は、受け入れまいとしても周到な対策がしてあってなかなか離してくれません。それでも跳ね除けようとすると身体が悲鳴をあげるということになるようです。
受け入れるのに抵抗を感じる文章というのもありますよね。煩悩まみれの文章のことですけど(笑)。
受け入れるのに抵抗を感じる文章は直すべきでしょうが、受け入れまいとすると抵抗を感じる文章ってどうなんでしょうね(笑)。
投稿 みみっく | 2007/04/06 13:08
えび天サンバさま
それって、ほんとうですか?!大喜びしちゃいますよ。
わかる人にはわかるんですね。。すばらしい!
ほんとにありがとうございます。
りゅうじゅぅ、よかったね。永遠にトンデモ本であり続けるかと思ってたけど、ブッダ論理学元年になるかな。
この本は、おっしゃるように、いくらでもコミュニケーション学として役立てることができると思います(急に元気になるわたし)。ほんとに人に優しい、地球に優しい(短いので紙がわずかですむ)テキストです。哲学、論理学、仏教思想、全部これでいけます。うれぴい!
値段が高くてすみません。でも、専門書としては、破格に安くしていただけているので、山喜房佛書林さまには感謝しています。
みみっくさま
> 私の文章も呼吸困難になるとか、身体が悲鳴をあげるとか言われますが、「読者を選ぶ」文章ですね。覚悟を持たないと途中で挫折するという。
わたし、「身体が悲鳴あげる」とまでは言われたことないです。もう、その前に読んでもらえてないかもしれませんね(笑)。
理屈でおすと、どうしても、息苦しくなるんでしょうか。
もっと龍樹を学んで、コミュニケーション学を身につけないといかんなぁ。。ブツブツ(もっとひどくなるか)
投稿 管理人エム | 2007/04/06 09:20
エム先生の著作を紐解くのは私の喜びでもあります。
実をいいますと、エム先生の龍樹本を読むにつけ、
これは近年まれに見る由緒正しき仏教本である、
という感が日々強くなっています。
特に『龍樹造「方便心論」の研究』は、「ブッダ論理学」と併せて、
人が良く語るには何を知っておかなくてはならないか、ということが
認識できる、たぐいまれなる内容を持っていると思います。
少々値が張りますが(笑)、この本を私は、良く語りたいと願う
すべての人々にお奨めします。
ラブ・レターではなく、マジメな感想でした(笑)。
投稿 えび天サンバ | 2007/04/06 07:47
>読者が呼吸困難にならなければいいんじゃないでしょうか。酸素ボンベと抱き合わせ販売…ってのは、どうかな。
読者はもっと呼吸困難になるんじゃないの?
私の文章も呼吸困難になるとか、身体が悲鳴をあげるとか言われますが、「読者を選ぶ」文章ですね。覚悟を持たないと途中で挫折するという。
>正しいとかまちがっているとかというレベルでははかれないかも。『方便心論』みたいな扱いを受けそうな気がしてきた。。。考えるの止めよ。
千人読んで一人わかる文章が売れる文章だとすると、100人読んで10人わかる文章になっているような感じですね。理解する人は多くても、売れる数は少ないという(笑)。
投稿 みみっく | 2007/04/05 19:45
> 著者が呼吸困難になるようなものを出版していいのか?
読者が呼吸困難にならなければいいんじゃないでしょうか。酸素ボンベと抱き合わせ販売…ってのは、どうかな。
> エムさんの個人的な思惑を超えて、世に出る必然性がある本なのでしょうね。
正しいとかまちがっているとかというレベルでははかれないかも。『方便心論』みたいな扱いを受けそうな気がしてきた。。。考えるの止めよ。
投稿 管理人エム | 2007/04/05 14:33
>砂嵐のタクラマカン砂漠を進む法顕のように
>呼吸困難になりそうです。
著者が呼吸困難になるようなものを出版していいのか?
出版社が何も言ってこない理由って、編集者が酸欠で文章を読めなくて後回しになっているんじゃないの? 編集者が病院行きになっていないか確認した方がいいかも(笑)。
>ドラゴンボールの読み過ぎ、管理人!
>元気玉、送ってどうするのよ。
酸素ボンベを送りなされ(笑)。
>限界超えてたので、
>もう自分のものを読むことができなかったんです。
エムさんの個人的な思惑を超えて、世に出る必然性がある本なのでしょうね。
こういう時は「お任せ」するしかないですな(他人事)。
一番望ましいタイミングで出版されることを祈っております。
投稿 みみっく | 2007/04/05 12:45