« 仏教つれづれ | トップページ | 中の中。。 »

2007/03/25

身体と心と無我

バタバタする管理人です。

くるぞくるぞ、という感じで
ぐぐっと忙しくなってきました。

ヤダ!

といっても
やって来るものはやって来る。

仕方ないので
気にしないことにします。

忘れるために話題を変えよっと。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@
先日アップしました
『大智度論』の
「鬼に身体を食われた男のはなし」
いかがでしょうか。

このおはなしに似たのは、
授業で何度か使っているんですよね。
哲学の
身体と心の問題で。

他の人と、たとえば、身体が入れ代わってしまったら
どちらの方を自分だと思うか、みたいな問題です。

自分の身体+他人の心
他人の身体+自分の心

このうちどっちが自分でしょう?
こういう問題は、わりと学生さんも乗ってくれる。

西哲系でも、これはよく問題にされて人気です。

『大智度論』のこのおはなしも、仏教ですが、
かなり現代人向きなテーマで
ちょっとおしゃれ(?)な感じかな。

『大智度論』は、現代感覚で読んでも、
じゅうぶん通用するし
さらに、それよりもっとふかいことがわかる。

西洋哲学の心身の扱いを、
さらに一歩も二歩も超えたところに
問題が設定されているからね。

この「鬼に身体を食べられた男のはなし」もそう。
よく見ていくと、
かなりむずかしいんだわ。

けっきょく、仏教の根本である「無我」と結びつくので
思想的にここまで理解してもらおうと思うと
相当時間をかけて、エネルギーを費やして
考えてもらわなきゃならない。

で、

あげく、ほとんどうまくいかない。

身体と心に分けると、
心のある方が自分だと、という人は多い。
中には、身体が自分と思う人もいる。
ここまでは、スムーズ。

けど

心において自分と思うのは
あるいは
身体において自分と思うのは

それは迷いであって
ほんとうは、「自己ではないもの」を

「自己!」

と誤って思っているんだと
いうふうに考えるのは、
至難のワザなんだよね。

一つめの関所。

これを理屈でわかるためには
まず因果関係を理解しなくちゃならない。
因果関係を理解するにしても
帰納論理学でわかってる程度じゃ
まだ仏教の真髄ではない。

二つめの関所。

とりとめない心の因果をつかむには、
よくよく考えて
よくよく素直でなきゃならない。

すんなり了解する人は、
すぐはいないかもしれないが
「こういうことを考える人もいる」
ということがわかるだけでも、いい。
世界が広がる。

自分が煮つまってきたとき
この「無我」の思想は
とても役に立つ。

苦しいときに
そのときこそ
とても役に立つ。

やっぱり「苦を除く」思想なんだな。
だから、
このおはなしも、ここに載せておくと
みんなの役に立つかもね。

おもしろくおぼえてもらって
困ったときに役に立つ

いいおはなしだにゃ~


|

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/58200/14375746

この記事へのトラックバック一覧です: 身体と心と無我:

コメント

>そもそも、仏教という思想は、みみっくさまの出した問題を解決し得ないと、判断されているわけですね。
 全然違います。

 そもそも私の出した問題は、一般的な問題ではなく、仏教内部の問題を取り出しているということを忘れないで下さい。

「このような状況を仏教ではどのように解決するのか」という問題を出しているのではないのです。

 もしそうであるならば、現在の状況では、エムさんは私の出した問題に正しい解答を与えたと判断せざるを得ません。

 説明が難しいですが、私は以下のことを問題にしていると言えば伝わるでしょうか。

 1.エムさんの説明に納得し、賛成する仏教者はどれだけいるのでしょうか。
 2.エムさんの回答が仏教の解釈として正しいと証明することは可能でしょうか。
 3.エムさんの態度の根拠となるものはなんでしょうか。

 釈尊の「中道」、龍樹の「空」の根拠となるものはなんでしょうか。
 
 エムさんは、これに対して「そんなことはどうでもいい」と言っているように見えます。
 あるいは、「そんなことを問題にする必要はない」
 あるいは、「仕方ない」
 私はこれを解決しなければならない問題だと言っているだけです。

>一切が空だから、四聖諦が成り立ち、八正道があり、また、輪廻転生もするのです。
 当たり前です。私もそう思っていますよ。
 
 以上です。

投稿 みみっく | 2007/04/03 01:41

みみっくさま

そもそも、仏教という思想は、みみっくさまの出した問題を解決し得ないと、判断されているわけですね。

で、わたしが、龍樹の空を持ち出したりして、説明しても、そもそも、なんの説明にもなっていない、と考えておられるわけです。

そうか。。わたしは、みみっくさまの出した問題を、仏教は解決していると思っています。
龍樹の空を出してもダメだといわれるなら、そもそも「空」は仏教の用語ですから、ここからはっきりさせなければならないことになります。では、こう言いましょう。正確に言うと
「法有」に相対して「法空」があるのではないのです。
たとえば「有る」に相対するのは「無い」ですが、これは、仏教外の一般の人も使う言葉です。お互いにこれらの言葉は、相依である、とか、対立する、とか、言っても理解されます。
だから、「法有」に対立するのは「法無」となるはずです。でも、仏教では、そうはいいません。
「空」という言葉を、法無の代わりにぶつけてくるのです。
これは、「無」という代わりに、新味を出すため「空」にしてみるか、というような意味で言われたのではなく、まったく、法の異なる特質を示すために、出てきた言葉です。

先ほども、みみっくさま自身が言っていましたよね。
「空」は「中道」と同じだって。
そうなら、法有と法空は、対立する言葉ではなさそうだと思われませんか。
空とも言い、仮とも言い、中とも言う、と龍樹は説明しました。「概念的に同じ」ということではありません。
それぞれが、ちがうことを述べています。でも、同じものを説明するのです。

「空」という言葉は、仏教だけが知って使える言葉です。仏教は、ブッダ論理学にもとづいて成り立つ教えですから、一般の人が使う西洋論理で考えても、うまく解釈できません。

> これが「一切皆空」に関わる問題でしょう。つまり、「一切皆空」を認めてしまうと究極には法も実在しない(何をやっても構わない)ことになってしまいます

一切が空でも、何をやっても構わない、とはならないのです。
一切が空だから、四聖諦が成り立ち、八正道があり、また、輪廻転生もするのです。

投稿 管理人エム | 2007/04/02 21:54

エムさんへ
>みみっくさまの質問の内容をわたしがとらえていないということですね。
 全然違います。

>マジカナに書いたものは、ピントずれということなのか。。。
 マジカナに書いてある文章は「私の質問」への返事としては適切なものでした。

 私が言っているのは、私の文章は「質問」というよりも「問いかけ」であるということです。

 内容ではなく、その「意義」を問題にしているのです。 
 龍樹や空海の真意を汲み取れば解決するというのでは駄目だということです。

 エムさんの言っていることはそういうことではありませんか?
 仏教という「宗教・学問」はこの問題を解決していない。と私は考えています。
 
 エムさんの回答は、「ヒントは全員に与えられている」というものだと思います。
 それを私は「問題を解決していない」と言っているのです。

投稿 みみっく | 2007/04/02 17:26

春間さま

> 内容への関わり方の問題でした

そこは、大きな問題ですが、議論や討論となりますと、そこには直接ふれずに、議題に転化させるのがよいかと。。

投稿 管理人エム | 2007/04/02 11:37

エム 様

内容への関わり方の問題でした

捉える、方向が在るということを、
理解して、、、、

慎みます

投稿 春間 則廣 | 2007/04/02 10:31

みみっくさま 春間さま

もう、いったい、どうなさったのですか?
どこで、おはなししようと、部屋はいっぱいあるので、かまいません。

みみっくさまの質問の内容をわたしがとらえていないということですね。
マジカナに書いたものは、ピントずれということなのか。。。

春間さま もう少し内容にかかわるおはなしに限定してもらえませんか。

いずれにしましても、名称というのは、それこそ空なんですから。

投稿 管理人エム | 2007/04/02 10:13

>ただ、マジカナ・アーシュラマに投稿しないことは、
>ここに投稿することですから、
>そこは、ふさわしくないとの考えで先にご提案されたのかと考えました
 私は道場に投稿しないだけではなく、このブログにも該当の問題に関する議論を行っていないですよ。返答は保留させて頂いています。

 道場に返答する代わりにここに返答を書いているわけではないのです。

>貴方は、貴重な論客なのだから管理人様は、しかるべき投稿をお待ちだと想像いたします

 この文章も取り下げて頂くようにお願い致します。
「皮肉にしか見えない」というのがその理由です。

 全ての提案には理由が存在します。
 理由を考慮に入れて返事するのが良識かと思います。
 他人からの提案を受け入れた結果であろうと、他人の命令に従った結果であろうと、それは本人の行った行為であることには間違いがないのですから。
 本人の責任とみなされる事については、本人が決定するべきです。
 だから私は自分の行動を自分で決定することにしています。「他人に言われたから」というのは理由にならないと考えていますので。

投稿 みみっく | 2007/04/01 23:16

>庇を貸して、母屋を とはならないでしょうから

この発言に対して、貴方の(自我)執着が起き上がったようです
当然、そこは、私の執着の立つところですから

取り下げましょう
お気に召さないようですから、、、
といって、

御免なさい、すみません
今後はこのように、貴方の気に沿わない表現は、
自粛させていただきます

と言い添えさせていただきます

>私が道場に投稿しないからといって何が困るというのでしょうか

貴方は、貴重な論客なのだから管理人様は、しかるべき投稿をお待ちだと想像いたします

ただ、マジカナ・アーシュラマに投稿しないことは、
ここに投稿することですから、
そこは、ふさわしくないとの考えで先にご提案されたのかと考えました

いくら譲っても、それは、心・信念を譲ることと、
隣りあわせなのですから、、、、、

投稿 春間 則廣 | 2007/04/01 22:21

 春間さんへ

 正直なところ困惑しています。

 これは「私にはそのように見える」ということで理解して頂きたいのですが、
「思い通りにならないのが気に入らないからといって管理人にまで皮肉を言っている」
 というのが正直な感想です。

 私が道場に投稿しないからといって何が困るというのでしょうか。

>庇を貸して、母屋を とはならないでしょうから
 この発言だけでも撤回されることを希望します。
 あまり穏当な発言ではないと私は思いますので。

投稿 みみっく | 2007/04/01 21:46

管理人 様

お引越し先の名前を、みみっく様のお気に召すように
変更して差し上げたらどうでしょうか

命名の一端を担ったかもしれない私からのご提案です

全部、みみっく様の、その時のご提案のように変更するのも、一興ではないでしょうか

庇を貸して、母屋を とはならないでしょうから

(尤も、その判断は、、、、、、、、)

投稿 春間 則廣 | 2007/04/01 21:25

>「 間近な修行の階梯 」は、抵抗がある、 と 、
>自分の気に入るように変更を要求するのは、
>いかがなものでしょうか ?
 私は名称の変更がなければ、道場へは投稿しないと言っているだけです。
 要求しているのは引越しを提案しているエムさんの方です。春間さんの提案も当然お断りします。
 エムさんが名称変更の要求に応じないからと言って腹を立てるようなことはありませんのでご安心下さいませ。
 ましてや、エムさんの意向を無視してこの場所で議論を継続する意思もありません。保留とさせて頂いているはずです。
 相手の意向を無視して強引に事を進めるのは感心できない行為です。
 従う必要などないと私は思いますね。では。

投稿 みみっく | 2007/04/01 20:58

「 カレーな一日 」という名称なら受け入れて、
「 間近な修行の階梯 」は、抵抗がある、 と 、
自分の気に入るように変更を要求するのは、
いかがなものでしょうか ?
その自我の塊を、自我のままでもよいので、
少しほぐして下さって、
マジカナ・アーシュラムのほうへ移行してください

あちこち読むのは、マウスの消耗につながります

投稿 春間 則廣 | 2007/04/01 20:45

エムさんへ
>長くなりましたので、「マジカナ」へお引っ越ししました。
 嫌です(笑)。
 この件については真面目に議論していますので、「マジカナ」というネーミングには抵抗を覚えます。

 名称を変更して頂くことをお願いしたいと思います。
 マニカナに戻して頂いても構わないし、単に「道場」でも良いのではないでしょうか。
 
 ここでは、核心部分だけ返事しておきます。

 エムさんは私が何を問題にしているのかやっぱり理解していません。

 私はこの問題について議論したいと言っているのではないのです。
 私とエムさんが対話するとき、常にこの問題がついてまわっていると言っているのです。

 これは何について話をしてもそうです。それこそ、恋愛について話をしている時でさえ。

 このブログでも恋愛についてのやりとりがあったでしょう。議論を続けるとどうなるかということです。結局「空」や「中道」の話になってしまうんじゃないですか?

 えび天サンバさんへ
>対機説法は無我の人にしかできないわざだと思います。

 対機説法は菩薩の行為であると私は考えています。

菩薩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E8%96%A9
>前提概念
>
>大乗仏教運動が起こった背景にはさまざまな理由が考えられるが、声聞の修行をしていた部派仏教(小乗仏教)の僧侶が誰も成仏できなかったことから起こった運動とも考えられる。
>その大きな要因を二つ考え、欠けた者たちを次のように呼んでいた。
>
> 1. 仏陀の教えを聞いて覚った声聞
> 2. 独力で悟りながら他人に説かない縁覚、辟支仏
> 初期大乗仏教ではこれらの二乗は成仏できないとされた。

 何故、利他行を行わないと成仏できないのか。
 対機説法を行わないと無我でなくなる(成仏できない)と考えれば、これは当然のことです。

「常に無我である」とは、「常に苦を滅し続けている」ということです。
 これが「対機説法という形をとって現れている」のです。

 対機説法とは、「悟りが形になったもの」(初期大乗の解釈に基づく私の見解)ということになります。

 では、悟りを得て対機説法を行わないことはあるのでしょうか。
 
 自分の苦を滅して他人の苦を滅さない理由があるとしたらそれは何でしょうか。

エムさんの文章を引用
>ブッダは、問われなければ、答えないのです。マールンクヤプッタの場合を考えてください。問われるから、相手の問いにあわせ適切に返答するわけです。それによって、常に、相手に対して「無我」が示されると考えるとよいと思います。 

 問われなければ答えず、問われれば答えることにより、無我を示し続ける。
 これが無我であり、対機説法であり、悟りである。
 これは「密教における方便」(悟りにいたる手段であり目的である)の考え方ですね。

方便
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%BE%BF
>密教における方便
>
>密教において方便の意義には大きな転換がある。
>7~8世紀頃成立の後期大乗である密教経典大日経では、方便を究極的に仏の一切智そのものとしている。すなわちそ、もそも仏が一切智を獲得する根は大悲であり、因は菩提心であると説かれ、如来が大悲によって衆生を救済しつづける「方便」に価値が置かれるようになり、方便は手段であるだけでなく同時に目的でもあり、二つは完全に一致したものなのである。 

 対機説法とは、「方便」であり、「悟りの手段」であり、「悟りの目的」であり、「悟りそのもの」 (大悲に基づく一切智により可能となるもの)である。
 と考えております。

 一切智に依らずして対機説法を行うことは不可能でしょうから。

 以上です。

投稿 みみっく | 2007/04/01 17:32

みみっくさま

長くなりましたので、「マジカナ」へお引っ越ししました。
よろしく!

投稿 管理人エム | 2007/04/01 11:33

エムさんへ
>みみっくさまは、何か誤解されているような感じです。うまくつかめません。
 エムさんは、私が何を問いかけているのかを理解していないのだと私は思います。

 エムさんの主張に対応する私のコメントを列挙します。

>すべては相対的で意味がないと考えるのは、我に執着する人同士でしょう。
>いずれにせよ、みみっくさまのいう「相対的」ということは成り立たないのです。
 全ては相対的で意味がないと考えるのは「極論である」と私は書いています。

>苦の滅尽は「行う」のではなく、悟った人にとって、苦は滅尽(まったく滅してなくなる)しているということです。
「自分は苦を滅しているから実践していないが、相手は苦を滅していないから実践を説いている。」と私は書いています。 

>「言葉と行動が一致するか」という問題じたい、「自己(我)」にとらわれた立場での考えと言えるのではないでしょうか。
「言葉と行動を一致させる必要など最初からない」と私は書いています。

 これ全部、私が「肯定している」ということをまず理解して下さい。
 そもそも、エムさんの文章よりも該当する私の文章の方が先に書かれているのですよ。
 
 これらの見解に対して、私からの反論は存在していないはずです。全部賛成しているのだから反論があるはずもないのです。
 

 ちょっと長いですが、以下が私の主張であり、エムさんに問いかけている部分です。
 

> 仏教の無我の思想で納得できないのは、では「盗む」とは何なのかということです。「盗む」を自分という概念抜きで説明することが可能でしょうか。
>「無我」を根拠に盗んでもよいと解釈するのは誤りであるとされていますが、その根拠があいまいです。
> 解決方法は「法有我(法には実体がある)」を認めるか、「本来は、盗むことも自由である」と解釈するかのどちらかでしょう。
> 法(法則)に実体があるのであれば、「盗む」は「法(法則)」に背く行為であると解釈できます。 
> 悟りの境地に至れば、「盗む」を含め、何をしても構わないと解釈することもできます。
>
> これが「一切皆空」に関わる問題でしょう。つまり、「一切皆空」を認めてしまうと究極には法も実在しない(何をやっても構わない)ことになってしまいます。
> こんな無茶なことは認められないと考えるのも無理はないと私は思いますけどね。
> かといって、「法有我」を認めたら認めたで問題があるのも事実です。
> 
> 仏教はこの問題を解決していないというのが私の見解なんですけどね。

 エムさんの書いている文章は、「これに対する返答にはなっていないと私は認識している」ということです。

 おそらく、エムさんがわからないのは、「私が何を問題にしているのか」ということだと思います。

 エムさんにとっては問題だと思わないだろうことでも、私にとっては大問題なのです。

>えび天サンバさまのおっしゃるように、対機説法は無我を究めた人のわざと思います。
 これは本題とは別の話題だと思いますので、コメントは控えさせて頂きます。話がややこしくなってしまうと思いますので。私はこれについては何も意見を述べていないということを確認して下さいませ。

 以上です

投稿 みみっく | 2007/04/01 02:08

みみっくさま

えび天サンバさまのおっしゃるように、対機説法は無我を究めた人のわざと思います。

なんかちょっと違和感のある表現が

>無我を悟った人は苦の滅尽を行う必要があるのか。

です。苦の滅尽は「行う」のではなく、悟った人にとって、苦は滅尽(まったく滅してなくなる)しているということです。

「言葉と行動が一致するか」という問題じたい、「自己(我)」にとらわれた立場での考えと言えるのではないでしょうか。
悟った人は、言葉(口)においても無我であり、行動(身)においても無我と言えると思います。さらには、心(意)においても無我となります。

> 最初から無記にしておけばこんな面倒な議論はしなくて済むと私は思いますけどね。

みみっくさまは、何か誤解されているような感じです。うまくつかめません。
ブッダは、問われなければ、答えないのです。マールンクヤプッタの場合を考えてください。問われるから、相手の問いにあわせ適切に返答するわけです。それによって、常に、相手に対して「無我」が示されると考えるとよいと思います。

すべては相対的で意味がないと考えるのは、我に執着する人同士でしょう。たとえば、ブッダにとっては、何も問題がありません。(二つ意味が考えられますね、どちらでもOK)。
問いには、常に答え続けていけます。相手が根負けするまで続けられる。根負けしないなら永遠に。答えがあるかぎり、無我は示されています。
もし、問いがないなら、ブッダは何も言いません。そのまま無我を示しています。いずれにせよ、みみっくさまのいう「相対的」ということは成り立たないのです。なぜでしょうか。
その答えは、(一般にいう意味での)相対的ではなく、縁起的(因果的)だからです。
「縁起」は、具体的に用いられると、対機説法となるのです。必殺技なのです。

投稿 管理人エム | 2007/03/31 22:10

「苦」の滅尽について語ることができるのは、

「無我」を悟った人だけだと思いますね。

我々のような凡人には無理でしょう。

「無我」を悟った人の実践が「苦」の滅尽を語る、

ということで、対機説法は無我の人にしかできないわざだと思います。

投稿 えび天サンバ | 2007/03/31 16:08

>無我を悟った人は、自らの苦を滅尽させる必要がないので、
>自分以外の人間の「苦」を滅尽する以外に「無我」である方法はない、
>もしくは、それ以外の「無我の悟り」はない、とはいえませんか。

 私の文脈で言えば、

>無我を悟った人は苦の滅尽を行う必要があるのか。
 無我を悟った人は苦の滅尽を行う必要がないということですね。

>真に無我を悟った人は、無我状態にあるので、自己について語りえなくなると思います。
>そうであることは、言葉(?)と行動とが一致している例だと思いますが、どうでしょうか。

 こちらは、
>自分を対象外にする言葉を言行一致として認めるのか。
 自分を対象外にする言葉を言行一致として認めるということですね。

>だから、「自己でない(非我)」と「自己がない(無我)」とは、ちがうものだという議論は、「自己」を認める人には大問題ですが、無我を悟った人には、なんの意味もない。それで、どちらでも同じだと、仏教ではいうわけです。

 この文脈で言えば、言葉と行動が一致しているかどうかは、無我を悟った人には何の意味もない
 ということになるでしょうね。

 だとすれば、「無我を悟った人は言葉と行動が一致している」と考えるのは間違いであると言うべきでしょう。むしろ言葉と行動を一致させる必要など最初からないという結論になるでしょうね。

 最初から無記にしておけばこんな面倒な議論はしなくて済むと私は思いますけどね。

 そしてこの論理を徹底すると、全ては相対的であり、本質的に意味などないのだという極論に至るということもご存知ですよね。

 仏教はこの問題を解決できていないと私は思いますね。

投稿 みみっく | 2007/03/31 12:29

えび天サンバさま みみっくさま
> 無我を悟った人は、自らの苦を滅尽させる必要がないので、
> 自分以外の人間の「苦」を滅尽する以外に「無我」である方法はない、
> もしくは、それ以外の「無我の悟り」はない、とはいえませんか。

わたしもそう思います。まったく、そうだなと思います。
真に無我を悟った人は、無我状態にあるので、自己について語りえなくなると思います。
そうであることは、言葉(?)と行動とが一致している例だと思いますが、どうでしょうか。

えび天サンバさまのおっしゃるように、対機説法の場合、自己自身について語るのではなく、他者に向かっているので、「自己ならざるもの(無我)」と言語化しうるのではないかと思います。なぜなら、他者は、「自己(我)」をもっていると自分では思っているからです。無我を悟った人が、他者の「自己」にあわせて、「自己ならざるもの(無我)である」と語ることは、悟っていても可能です。

だから、「自己でない(非我)」と「自己がない(無我)」とは、ちがうものだという議論は、「自己」を認める人には大問題ですが、無我を悟った人には、なんの意味もない。それで、どちらでも同じだと、仏教ではいうわけです。

となると、悟った者同士の会話というのは、あんまり成り立たなそうですね。でも、無理に会話するとこんな感じかな。

「いいお天気ですね」
「そうですね」
「……」
「……」

普通の会話だ(笑)。

投稿 管理人エム | 2007/03/31 08:37

「無我」を語るということが前提になっていますので、
その脈絡で対機説法ということを持ち出して考えてみました。

無我であるとき、対話する相手の「苦」の滅尽しか語ることができない、
と言い換えた方が適切だと思います。

無我を悟った人は、自らの苦を滅尽させる必要がないので、
自分以外の人間の「苦」を滅尽する以外に「無我」である方法はない、
もしくは、それ以外の「無我の悟り」はない、とはいえませんか。

無我であり続けられるかどうかは問題がまた別だと思いますが。

投稿 えび天サンバ | 2007/03/31 07:19

>無我であるとき、「無我」については語ることができないが、
>対話する相手の「苦」の滅尽については語ることができますね。
>対機説法においては、言葉と行動は一致しているのではないでしょうか?

 苦の滅尽について語るとき、自ら実践しているならば、言葉と行動が一致している。
 と考えられます。

 では、悟っている人は苦の滅尽を自ら実践しているのでしょうか。

 これにイエスと答えてもノーと答えても問題が残ります。

 回答として考えられるのは、
 自分は苦を滅しているから実践していないが、相手は苦を滅していないから実践を説いている。

 というものです。

 この回答を認めるならば、「言葉と行動を一致させる必要はない」と言っていることになるでしょう。

 ポイントを整理すると、
 無我を悟った人は苦の滅尽を行う必要があるのか。
 自分を対象外にする言葉を言行一致として認めるのか。

 ということですね。

投稿 みみっく | 2007/03/31 04:09

>>無我であるとき、「無我」については語ることすらできない。
>問題はこれですね。この部分が核心だと思います。

無我であるとき、「無我」については語ることができないが、
対話する相手の「苦」の滅尽については語ることができますね。
対機説法においては、言葉と行動は一致しているのではないでしょうか?

投稿 えび天サンバ | 2007/03/30 13:00

>「無我」について語っているときは、その人は無我ではない。
>無我であるとき、「無我」については語ることすらできない。
 問題はこれですね。この部分が核心だと思います。

 言葉と行動を一致させることはできない。言葉が無我であるとき、行動は無我ではなく、言葉が無我ではないとき、行動は無我である。
 前に心身問題に言及したことがありますが、何故言葉と行動が究極には一致しないのかということです。

>悟った人の盗みを証明しようとするとき、証明する人自身は、無我ではないので、論には矛盾がでてきます。
>ほんとうに悟っている人の盗みを証明することは不可能だと思います。
>ほんとうにそうしようとすれば、自分自身発狂してしまうのではないでしょうか。
>むりやり証明したことにして一時的に自分をだますことはできると思いますが、あとどうなるか、、こわい。

 無我の悟りは濡れ衣にも有効であると考えているのですね。


 否定す(し続け)ると発狂(行動不全)に至るもの。
 私が「生命の尊厳」と認識しているものです。
 
「生命の尊厳を踏みにじる行為」は危険です。
 では、生命の尊厳を踏みにじる行為とは何でしょうか。

「本当に悟った人」とは、これを理解している人なのではないかと私は思っているのですけどね。では。

投稿 みみっく | 2007/03/30 12:45

無我というのは、やっかいですね。
誰でも、無我を体験したことがある。しかし、ほとんど誰も無我にとどまり得ない。

「無我」について語っているときは、その人は無我ではない。
無我であるとき、「無我」については語ることすらできない。

わたしは、無我であるときもある。それを知るのは、無我でないときだ。
だから、無我に徹しようと思うときは、どうするかというとこうです。
無我かどうかを自分で常にチェックしようとするのではなく(たんなる無我への執着となる我の行為だから)
常に論理的であり整合的であるようにそこに気をつけているとき、そして、それがうまくいっているとき
わたしは、自分で気づくことなく、無我です。

悟った人の盗みを証明しようとするとき、証明する人自身は、無我ではないので、論には矛盾がでてきます。
ほんとうに悟っている人の盗みを証明することは不可能だと思います。
ほんとうにそうしようとすれば、自分自身発狂してしまうのではないでしょうか。
むりやり証明したことにして一時的に自分をだますことはできると思いますが、あとどうなるか、、こわい。


投稿 管理人エム | 2007/03/30 11:42

かがみを立てれば、光は返りますが、
立てるところに執着があります

投稿 春間 則廣 | 2007/03/30 06:38

ログが流れてしまったのでコピーしておきます。
>「無我」を説く人は、無我なので「盗む」行為そのものが成り立たず、「盗み」は存在しないです。「無我」がわかれば、欲もないでしょうから、何も起こりません。
「無我を説くが理解していない人」には「盗む」行為が成り立つということでもあると思いますが・・・。

>「無我」を根拠に「盗み」をしようという人が、なんで「無我」を根拠になんか、できるのよっ!、って、言えばいいと思います。
 現実に問題になるのは、「無我を誤解している人の行動」ということになるでしょうね。
「本人に盗んだ覚えはなくても、周囲には盗みにしか見えない」ということです。

 更に追及していくと、「濡れ衣」が問題になります。
 無我を理解している人には「盗む」という行為自体成り立たないということは、「盗んだ」ことを証明すればその人は理解していないということになってしまいます。
 果たして「無我の悟り」は濡れ衣にも有効なんでしょうか。
 
>悟った人なら、なんにもしないんじゃないでしょうか。梵天に請われて、教えは説くかもしれないけどね。
 これを肯定すると大乗仏教を否定することになるのではないか、というのが私の疑問なんですけどね。

投稿 みみっく | 2007/03/30 02:02

春間さんへ
>何故 ? 貴方が、
>「無我を誤解している人の行動」と判断できるのですか ?
>その正しい理はどこから来て貴方の元に在るのですか ?
 私は判断しません。

「盗むが成立した人は無我を誤解している」という文章(論理)が正しいかどうかをエムさんに問うています。
「盗む」も私は判断しません。
 この場合、私の判断は停止するのが当然です。
 
 そもそも、私が対象の人物を「盗んだ」と決め付けて、だから「無我を理解しても盗むは成立する」と主張するのは意味不明でしょう。

 そもそも私が「そのようには判断できない」と考えているからこその疑問であるということを理解して頂いた方が良いようです。
 私がそのような判断をすることは自分の見解を覆すことであるということですね。

投稿 みみっく | 2007/03/30 01:14

>そもそも私の問題しているのは、
「無我を誤解している人の行動」なのですが

何故 ? 貴方が、
「無我を誤解している人の行動」と判断できるのですか ?
その正しい理はどこから来て貴方の元に在るのですか ?

正理に願を持って生きていない人の言葉は、虚しいのです

投稿 春間 則廣 | 2007/03/29 21:43

かがみを立てれば、光は返りますが、
立てるところに執着がある事を、

私たちは常に確認していなければならないのです

投稿 春間 則廣 | 2007/03/29 21:16

 春間さんへ
>エム様の言葉の意味は、問題ではありません
 この文章の意味がわかりません。
 前言を撤回されるということですか?

投稿 みみっく | 2007/03/29 17:08

私たちはすでに大乗の世界に生きているのです

そこでは、菩薩と、それを拒否する人とが隣り合っています
無量寿経にあるように、菩薩は、悟り(正覚)を得ないのです
菩薩は、仏陀ではありません
仏陀の隣に住む惡魔は常に語りかけます、
仏陀は、惡魔を知り得ますが、菩薩は、正覚をとっていないのです
あなたは、自らの立つ所を知らなければなりません
( 惡魔である自身を - この惡魔は、西洋の言う惡魔ではありません )
( 相應部に現れる惡魔です )

>エム様は無我を理解していないと自覚しつつ、
 そこに思いを馳せて使います

ここに、願が在るのです法蔵菩薩の願です
諸法無願の中に、ただ、法蔵の誓願が在るのです
菩薩だけが誓願を持つことが出来ます
というより、誓願を持つものが菩薩なのです

かの仏国土は、現成しつつ、願の先に在るのです

エム様の言葉の意味は、問題ではありません
ここが理解できないところにあなたの自我があります

かがみを立てれば、光は返りますが、
立てるところに執着がある事を、

私たちは常に確認していなければならないのです

投稿 春間 則廣 | 2007/03/29 15:49

 春間さんへ
 エムさんの返事を待ちましょう。それからですね。では。

投稿 みみっく | 2007/03/29 13:08

“説かれる無我”は、あなたの理解する無我で、
それは通常“自我・執着・常住”と呼ばれるものです

あなたが説くかどうかは問題ではありません
使われる言葉 ”無我 ”がどのような事を指すかです
その”無我”をあなたは使っているのです
意味のない言葉は使われることはありません

使われる背景は、意味(行為)を前にしています
それは、少し進むと、説くことと同じ意味を持ちます

投稿 春間 則廣 | 2007/03/29 12:57

 春間さんへ
>このように、立つ所を変えて変えて話をする事を、
>( その、立つ処から述べられる論を )
>戯論(詭弁)と呼ばなければならないのです
>いいすぎであれば、
>”理解していない” といいなおします
 そもそも私の問題しているのは、「無我を誤解している人の行動」なのですが。

 私が無我を説いていないということを理解されていますか?

>エム様の無我とみみっくさんの無我とは
>言葉は同じでも違うものです
 これはエムさんに確認するべきことでしょうね。

 そもそもこれこそ、私がエムさんに問いかけていることなのですから。

 エムさんへ

 といわけで、私の使っている無我という言葉と、エムさんの使っている無我という言葉と同じ意味かどうか返事をお願い致します。

投稿 みみっく | 2007/03/29 12:33

>「無我」を説く人は、
無我なので「盗む」行為そのものが成り立たず、
「盗み」は存在しないです。
「無我」がわかれば、欲もないでしょうから、
何も起こりません。

>>「無我を説くが理解していない人」には
「盗む」行為が成り立つということでもあると思いますが・・・

エム様の無我とみみっくさんの無我とは
言葉は同じでも違うものです
エム様は無我を理解していないと自覚しつつ、
そこに思いを馳せて使いますが、
みみっくさんは、無我を知っているとして使っています
“説かれる無我”は、あなたの理解する無我で、
それは通常“自我・執着・常住”と呼ばれるものです
”理解する”ということは、
その理に沿って、真理に生きるということです

このように、立つ所を変えて変えて話をする事を、
( その、立つ処から述べられる論を )
戯論(詭弁)と呼ばなければならないのです
いいすぎであれば、
”理解していない” といいなおします

投稿 春間 則廣 | 2007/03/29 11:35

>「片思いしたい」という人、って、そんな人いるんですか?(@_@)(ビックリしてるつもり)
 いますよ(笑)。「アイドルを好きになる心理」ということですね。
「片思いされたい」が「不特定多数にもてたい」であると考えればわかるのではありませんか?

>やむを得ず、片思いになるのだと思ってました。
 世間一般ではこれが普通の解釈だと思います。
 でもこれだと、「相手の心は自分のものだが、自分の心は相手のものではない」(あるいはこの逆)を認めることになるんですよ(笑)。
「自分の心はアイドルのもの」が成り立つのかどうかを考えてみて下さいませ。

>そうだったですね。お返しがたいへんなのよ。
>龍樹にはまったおかげで、10倍返しみたいな感じですから。
 10倍返したつもりでも、まだ10分の1だったとかね(笑)。一生を返済に充てないといけなくなったりします。それは幸せなことでもあるでしょうが。

>「無我」を説く人は、無我なので「盗む」行為そのものが成り立たず、「盗み」は存在しないです。「無我」がわかれば、欲もないでしょうから、何も起こりません。
「無我を説くが理解していない人」には「盗む」行為が成り立つということでもあると思いますが・・・。

>「無我」を根拠に「盗み」をしようという人が、なんで「無我」を根拠になんか、できるのよっ!、って、言えばいいと思います。
 現実に問題になるのは、「無我を誤解している人の行動」ということになるでしょうね。
「本人に盗んだ覚えはなくても、周囲には盗みにしか見えない」ということです。

 更に追及していくと、「濡れ衣」が問題になります。
 無我を理解している人には「盗む」という行為自体成り立たないということは、「盗んだ」ことを証明すればその人は理解していないということになってしまいます。
 果たして「無我の悟り」は濡れ衣にも有効なんでしょうか。
 
>悟った人なら、なんにもしないんじゃないでしょうか。梵天に請われて、教えは説くかもしれないけどね。
 これを肯定すると大乗仏教を否定することになるのではないか、というのが私の疑問なんですけどね。
 
「盗みとは何か」
「説明する必要を認めない」というのが一般的な回答ではあるでしょうね。
 実のところ追及すると色々問題があるのです。
 政治はこの問題を扱わないわけにはいかないんですけどね(笑)。では。

投稿 みみっく | 2007/03/29 05:18

みみっくさま

> 片思いとされているのは、「片思いしたい」という人と、「片思いされたい」という人との両想いだってことなんですけどね。

「片思いしたい」という人、って、そんな人いるんですか?(@_@)(ビックリしてるつもり)
やむを得ず、片思いになるのだと思ってました。

>  ただじゃあないですよ。「贈与」には「返礼」しないといけないんですよ(笑)。

そうだったですね。お返しがたいへんなのよ。
龍樹にはまったおかげで、10倍返しみたいな感じですから。

> 「無我」を根拠に盗んでもよいと解釈するのは誤りであるとされていますが、その根拠があいまいです。

「無我」を根拠にしたら、「盗む」必要も何もないと思いますけど、どうでしょう。
「無我」を説く人は、無我なので「盗む」行為そのものが成り立たず、「盗み」は存在しないです。「無我」がわかれば、欲もないでしょうから、何も起こりません。

「無我」を根拠に「盗み」をしようという人が、なんで「無我」を根拠になんか、できるのよっ!、って、言えばいいと思います。

>  悟りの境地に至れば、「盗む」を含め、何をしても構わないと解釈することもできます

悟った人なら、なんにもしないんじゃないでしょうか。梵天に請われて、教えは説くかもしれないけどね。

凡俗からみれば、ブッダなんて、「全世界を盗んだ男」と言ってもいいですよね。いいわねぇ(おい)。。しかし、発想が凡俗すぎるか。

投稿 管理人エム | 2007/03/28 22:27

>この場合、微妙ですね。同時に「自分の心が他人のものになってる」というケースにもなっちゃいますね(笑)。
「片思いはない」が前提になりますけれどもね(笑)。
 ちなみに私は「片思い」はありえないという見解です。つまり、通常片思いとされているのは、「片思いしたい」という人と、「片思いされたい」という人との両想いだってことなんですけどね。

>こんな宝がただなんてね、信じられない、といつも思うのでした。
 ただじゃあないですよ。「贈与」には「返礼」しないといけないんですよ(笑)。
 ネットにあふれている「無料のコンテンツ」とは違います。あれは無料でも等価交換になっていますから。

>仏教は「知恵」「知識」の大盤振る舞いだなぁといつも思います。ほんとにえらいと思うわ。
「功徳」と等価交換になっていると考えることも可能ですが、「礼を返す必要がある」と考えるべきでしょう。「感謝する」ということですね。形にしろと要求されることもあるのでご用心(笑)。

>そうそう、この選択肢を入れるのを忘れました。「切り離せない」というのも、ありますね。
>学生さんでも、そういう答えの人がいました。「分けたら、もう自分はない、なくなる」という答えです。
 分けることはできない。あるいは、分けても身体には心が、心には身体がそれぞれに形成される。というのが私の考えなんですけどね。紙の表と裏のようなものです。切り離しても表には裏が裏には表がそれぞれ形成されるでしょ。

 仏教の無我の思想で納得できないのは、では「盗む」とは何なのかということです。「盗む」を自分という概念抜きで説明することが可能でしょうか。
「無我」を根拠に盗んでもよいと解釈するのは誤りであるとされていますが、その根拠があいまいです。
 解決方法は「法有我(法には実体がある)」を認めるか、「本来は、盗むことも自由である」と解釈するかのどちらかでしょう。
 法(法則)に実体があるのであれば、「盗む」は「法(法則)」に背く行為であると解釈できます。 
 悟りの境地に至れば、「盗む」を含め、何をしても構わないと解釈することもできます。

 これが「一切皆空」に関わる問題でしょう。つまり、「一切皆空」を認めてしまうと究極には法も実在しない(何をやっても構わない)ことになってしまいます。
 こんな無茶なことは認められないと考えるのも無理はないと私は思いますけどね。
 かといって、「法有我」を認めたら認めたで問題があるのも事実です。
 
 仏教はこの問題を解決していないというのが私の見解なんですけどね。
 もし解決できているのであれば、「根本分裂」は避けられたと私は思います。

根本分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E5%88%86%E8%A3%82

「法有我」(上座部)か「一切皆空」(大乗)かが、「根本の分裂であると私は考えている」
 ということですね。

投稿 みみっく | 2007/03/27 04:29

みみっくさま

> 「自分の身体+自分の心の組み合わせ以外は認めない」というのが私の回答です。
>  身体と心は別個に存在できないからというのが理由です。

そうそう、この選択肢を入れるのを忘れました。「切り離せない」というのも、ありますね。
学生さんでも、そういう答えの人がいました。「分けたら、もう自分はない、なくなる」という答えです。

> まず、「他人の心を自分のものにする」というのは、普通は恋愛の話ですね(笑)。

この場合、微妙ですね。同時に「自分の心が他人のものになってる」というケースにもなっちゃいますね(笑)。
ところで、
「相手の心という財産」は知識や知恵を指す
ということに関連していうなら、仏教は「知恵」「知識」の大盤振る舞いだなぁといつも思います。ほんとにえらいと思うわ。
お釈迦さんなんて、なんでもただで教えてくれるし。仏典にも著作権なんてないし、こんな宝がただなんてね、信じられない、といつも思うのでした。

投稿 管理人エム | 2007/03/26 14:12

 お気楽掲示板にも「鬼に身体を食われた男のはなし」の感想を書きましたが、こちらではちょっと心身問題に突っ込んでみます。

>自分の身体+他人の心
>他人の身体+自分の心
>
>このうちどっちが自分でしょう?
 
「自分の身体+自分の心の組み合わせ以外は認めない」というのが私の回答です。
 身体と心は別個に存在できないからというのが理由です。

「鬼に身体を食われた男のはなし」の例で言えば、あれはもう自分の身体です。
 他人の身体を自分のものにできるのならばそれは自分の身体であり、他人の身体を自分のものにできないのであれば、そもそもこのような問題は発生しません。

 つまり、この問題は「他人のものを自分のものにできるのか」という問題として考えることができます。
 それは「他人の心」でも「他人の身体」でも「他人の財産」でも同じことです。
 
 まず、「他人の心を自分のものにする」というのは、普通は恋愛の話ですね(笑)。
「他人の身体を自分のものにする」というのも、普通は支配とか従属の話になります。
 身体や心を財産と考えた場合に初めて、「奪う」とか「譲り受ける」という話になると考えられます。「相手の身体という財産」を譲り受けることが可能であれば、それは自分のものにできるということになります。移植の問題がこれですね。そして「相手の心という財産」は知識や知恵を指すと考えるべきでしょう。「友情」や「愛情」は奪ったり譲り受けたりできないので対象外です。(ちなみに友人や恋人は奪ったり譲り受けたりすることが一応可能です。)
 
 では、そもそも他人の財産を自分の財産にできるのでしょうか。
「財産を持つとはどのようなことなのか」ということですね。

 仏教の無我の思想からは、「自分の財産などない」という結論になるでしょうから。 
「他人のものを盗んではいけない」を前提とするならば、これでも良いと思うのですけどね。では。

投稿 みみっく | 2007/03/26 06:01

えび天サンバさま

春には、猫語が似合いますにゃ~。
ポケモンにでてくる猫のニャースは、エンディングの歌で
「おいら ひとりで てつがくするのニャー ♪」
としみじみ歌うのです。
猫と哲学、あってるのかにゃっ??
(猫語、くせになりそうです、にゃ)

投稿 管理人エム | 2007/03/25 22:31

>いいおはなしだにゃ~

おや先生、猫語もおできになるんですね。ほんとだにゃ~、春だにゃ~(笑)。

投稿 えび天サンバ | 2007/03/25 21:13

コメントを書く