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2007/03/20

仏教つれづれ

どうも最近勉強不足だ!
大乗や密教の茫洋とした大地を行くには
基礎体力が欠けてる。

その昔、『ブッダ論理学五つの難問』を書いたとき

龍樹(紀元後150~250)のあと
ぴょんと時代を飛んで
わたしが『方便心論』を世に問うまでの長きを考えると
その間に誰もこれに言及した人がいないのは
間が開きすぎていておかしい

と思ったのだった。

『方便心論』は、仏教の分野では
正統に伝わらなかったことは
はっきりしている。
その中身も、いまだに
仏教内では、よく知られていないようにみえる。

だけど、ほんとに路傍の石のように
『方便心論』は放っておかれたのだろうか。
「ほんとの」仏教徒だったら、
あの本の重要性は、すぐにわかったろうと思う。

『方便心論』の部分をニヤーヤ経由で受けついだ
ディグナーガやダルマキールティもすばらしいが、
龍樹の大きさに比べると
小粒の感は否めない。
かれらは、唯識学派の人である。
ちょっと、論理では足りないところがある。

なんか、大乗仏教の発展を考えると
その進む方向に、いくぶん恣意的なものを感じるのは気のせいだろうか。

なぜ、大乗は、部派の人々を小乗と呼んだのだろうか。
なぜ、もっと部派を大事にしなかったのだろう。
当時の時代背景もあるかもしれない、
が、しかし
部派の教えは、
必ずしも「小さい乗り物」という側面しかないわけではない。
阿羅漢を一人かくじつにゲットできれば
その人のいる地域全体は大きく救われることは必定だ。

でも、でも、理論上の出家主義を否定すると
残るのは、理論上の在家主義しかない。
そうすると、理論上「大きい乗り物」と言わざるをえなくなってくるわけか。

部派を否定することによってしか
大乗は生まれえなかったのだろうか。

もしそうなら、大乗には、その理論の中に
欠けるものがあることにならないか。
小乗と呼んだ部派の教えを、
あえて、いくぶん欠くことになるだろう。

そういう意味でなら
大乗が
龍樹の『方便心論』についても
冷淡だったのは、ある意味、わかるところもある。
『方便心論』は、部派の論理基盤にもなるからだ。

そしてまた、
部派の人々が
『方便心論』に気づかなかったのもわかる。
龍樹は、「大乗」中観派の開祖とされてますもんね。

つまり、
あわれ、『方便心論』は
どちらからもそっぽを向かれるような立場にいたのであった。
しかも、外教徒からはもちろん敵視されるし。
四面楚歌の論書だったわけだ。。。かわいそ

ということは
部派と大乗あわせて、
ブッダの仏教全体が形作られることになる。
両方おさえることができたのは、龍樹のようだ。

龍樹以後を考えますと、
かくじつに龍樹をおさえることができた人、
かれが
仏教界全体をリードする存在となりうるということだ。

で、

その人は、誰だろうかとながめると

どうやら弘法大師空海ではなかろうかと、

このように思えてならない昨今です。

で、
基礎体力つけて確かめてみなくちゃな
と思う管理人なのでした。

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コメント

大小

先にお知らせした「法華玄義」巻二上に、大小についての言及があります
大般涅槃経 大正12 0503b18
辺りを引いて説明しています
(玄義の大経は、寶積經もさしますが、菅野氏は混同しているようです)
大乗起信論は、ーそのものー といっても良いのですが、
真如 = ”絶待(=中)” の概念は
「法華玄義」に依っています
  ー 中論にいわく
「若し法、待の為に成ぜば、是の法還って待を成ず」

投稿 春間 則廣 | 2007/03/26 12:28

>それは、わかりますが、仏教の場合、このような変化は、すでにブッダの説いた思想の範疇にある!ということが、なかなかはなしをややこしくむずかしくしていると思います。
 そもそも大乗仏教は新しい宗教なのかという話ですね。
 上座部と大乗の争いは「本家争い」ですから。

>大乗が、どこまで、その思想を「読んで」動いているのか?
>たんに自然の流れや偶然のできごとに左右されているのではないだろうというのが、わたしの心を占めている疑問です。
「本来、大乗仏教という名前の宗教はないし、上座部仏教という名前の宗教もない。仏教という名前の宗教があるだけだ」と思います。「両方仏教と認めるならば」という条件付きですけどね。
 カトリックとプロテスタントのようなものですね。
  
>「死語」は「現時点」で、ということで。
「不活性な思想」は「現時点」でいいですが、「死語」は死語じゃないですよ。

死語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』  
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E8%AA%9E
>言語学における死語とは自然言語の中で、話者が現在存在しなくなったため実際には使用されていない言語。
>当然の事だが、死語は話者のいないがゆえに時代とともに変化することが無い。そのためにほぼ死語といえるラテン語は、その変化がないという性質のため、学術用語の記述に用いられる。
>一度死語となった言語からネイティヴスピーカーを再生させる事は殆ど不可能に近いが、世界でただ一つ、イスラエルのヘブライ語のみがこれに成功している。

 死語は変化がない(意味が確定している)という性質を持ち、ネイティヴスピーカーを再生させる事は殆ど不可能に近い。(例外あり)

>日常生活における死語とは、かつて使われていた単語で、今は使われなくなったもの。
「死語」という言葉は「日常生活における死語」にはなっていないということですね(笑)。 
「死火山」は「ほぼ死語」ですが、あくまでも「現時点」で、また再生する可能性もあるということかな。

投稿 みみっく | 2007/03/23 03:18

みみっくさま

> 「死火山」という言葉は現在では使われなくなっているようですから、
> 「死語」も「不活性語」とでも言い換えますか。

わたしも、「死火山」という言葉が脳裏をよぎりましたよ(笑)。
書こうかな、と思ったんだけど、煩瑣になるかと思ってやめました。
「死語」は「現時点」で、ということで。

投稿 管理人エム | 2007/03/22 22:16

春間さま

たくさん書いていただいてありがとうございます。
まずは、法華玄義、教えていただきありがとうございました。

> 部派の人たちは、思想を支える(虚仮であっても)
現実に、対処しなくなっていたのです

あるいはまた、みみっくさまの意見

> 「新しい宗教は既存の宗教を否定することによってしか成立しない」だけだと思いますけどね。

新しい動きが、それ以前の思想や宗教の中から、現実に呼応してそれらを否定する形で、生まれてくるだろう、というのは、縁起的にみて、大いに考え得るところです。
それは、思想のごく自然な発展・変化の形式なのだ、ということもできるかと思います。

それは、わかりますが、仏教の場合、このような変化は、すでにブッダの説いた思想の範疇にある!ということが、なかなかはなしをややこしくむずかしくしていると思います。
大乗が、どこまで、その思想を「読んで」動いているのか?
たんに自然の流れや偶然のできごとに左右されているのではないだろうというのが、わたしの心を占めている疑問です。
縁起を知りつくした上での行為になるわけですからね。
で、菩薩行をじっと見つめているのでありました。

法華経により大乗の菩薩がある。。と春間さまはおっしゃるのですね。ふうむ。よく読まなくちゃね。

> こういう書き方、あらわし方をするようになる時には
”不可知” ”永遠” の虚像が忍び寄っています

うーん、わたしもそうとられるかな、とちょっと怖れましたが、たぶん、それはないと思います。人類滅亡のときには、不可知もなければ永遠もないわけですから。

投稿 管理人エム | 2007/03/22 22:10

> あるいは、人が死に絶えても

こういう書き方、あらわし方をするようになる時には
”不可知” ”永遠” の虚像が忍び寄っています

真理への古道を観るのは、人ではなく、我です
我が見つけようと見つけまいと
道はずっと在るのですが、、、、
この意味では、>人が生きていれば は、活きています

人の概念は、存在していません
生物学的な分類を言うなら、理念の世界の自他の規定にはならないからです
釈尊の語る”人”は、我という自我を持つ常住の思いの人です
( かの人は、永遠を語ります )

投稿 春間 則廣 | 2007/03/22 14:22

>主体性にかんする意見の相違かなという気がします。
>客観的(歴史的)に意味が確定するとき、主体的(思想的)には「死語(無意味)」となるということかと思いますが、思想的に研究しているわたしには、歴史的にどうなるかという点は、関心がないですね。

「死語」は「無意味」ではないですよ。
 表舞台から去っただけで、裏舞台には存在し続けています。
 そして歴史に影響を与え続けています。

お気楽掲示板よりおちゃらけさんの発言を引用
>キリスト教にはグノーシスの流出論の伝統&系統が
>ベース・ノートとしてずっと響いていますね。いつも
>鳴っているから気にならないくらいに。 
 こういう感じでね。
 
>というより、「歴史」であっても「死語(意味が確定する)」ことはないと思います。歴史の解釈は、常に変化しますから。そして、歴史というのは、解釈だと思っています。
 歴史的には常に「異なる文脈で再解釈される」可能性があるでしょう。死語となるのは常に「現時点」ですよ。インドの仏教だって再生する可能性はあるし、事実仏教を再評価する動きはあるのですから。IDだって「異なる文脈での再解釈」だしね。
 ルネサンス(古典古代の文化を復興しようとする歴史的・文化的諸運動)ということですね。

>「人間の営みである」という点では、過去のできごとも、現在のものとして人々の関心をひくのではないでしょうか。
「過去を再生することはできない。何故ならそこには現在が含まれてしまっているから。」
 という考えのことでしょうか。
 私の見解と矛盾しないように思います。
「死火山」という言葉は現在では使われなくなっているようですから、「死語」も「不活性語」とでも言い換えますか。
「不活性な語」、「不活性な思想」ということで。では。

投稿 みみっく | 2007/03/22 12:56

>なぜ、大乗は、部派の人々を小乗と呼んだのだろう
 なぜ、もっと部派を大事にしなかったのだろう
 当時の時代背景もあるかもしれない、

大乗の起源は確定されていませんが、
法華経の成立とそれほどずれることはないでしょう
(法華経は成立を異にする経典の集まりですが)

というより、法華経により大乗の菩薩が在るのです

有産階級の物的支援の蓄積と深く関わると思います
(アッタカ・不動産と常住・無常の関係です)

部派の僧伽は、不動産の中の動産をしっかりと抱える
と共に、その思想を純化・孤立化させていったのです
律に縛られず、民衆と共に歩く新しき心の僧伽は
律の囲いの中の諸物質からはじき出されるのです

大小が縁起である事などは、最も初歩のことで、
大乗の人に理解されないわけがありません
その前提で、大小をいうことには大事があります
“争点”が在るのです
追われ、はじき出され、迫害されていると感じる
(虚仮の)現実が在ったのです

部派の人たちは、思想を支える(虚仮であっても)
現実に、対処しなくなっていたのです
その虚仮の世界に踏み出し、虚仮を無常ではなく
常住の世界として歩む菩薩が“本願”を持つのです

この無常の“菩薩”の概念が、大乗の根です
釈尊=法は、部派のなかに観ることはできますが
“ 部派の人には、見えていない ” と
地涌の菩薩は、立ち上がるのです(従地涌出品)

投稿 春間 則廣 | 2007/03/22 10:33

みみっくさま

主体性にかんする意見の相違かなという気がします。
客観的(歴史的)に意味が確定するとき、主体的(思想的)には「死語(無意味)」となるということかと思いますが、思想的に研究しているわたしには、歴史的にどうなるかという点は、関心がないですね。

というより、「歴史」であっても「死語(意味が確定する)」ことはないと思います。歴史の解釈は、常に変化しますから。そして、歴史というのは、解釈だと思っています。
「人間の営みである」という点では、過去のできごとも、現在のものとして人々の関心をひくのではないでしょうか。
何ごとにおいても、「意味が『確定』する」ことは、あり得ないと思いますが。人が生きていれば、あるいは、人が死に絶えても。

投稿 管理人エム | 2007/03/22 08:11

エムさんへ
>歴史的にいえば、そう言うこともあるかもしれませんけど、仏教書は聖書だから、いつも現役だと思うんです。もし「死語」になったら、仏教も消滅してるのでは。
 その通りだと思いますよ。
 仏教の消滅したインドでは、「死語(意味が確定している)」になっていると思いますけどね。

>大乗や密教の茫洋とした大地を行くには
 生きている思想(現役)だから茫洋としているのです。意味が確定していないから茫洋としているという印象を与えるということですね。
 
 意味が確定(輪郭がはっきり)してしまったら思想としての生命力を失って表舞台からは消え去ってしまうことになるでしょう。
 
>部派を否定することによってしか
>大乗は生まれえなかったのだろうか。
「新しい宗教は既存の宗教を否定することによってしか成立しない」だけだと思いますけどね。
 新しい思想が認められれば変革となり、認められなければ新宗教が誕生する。大乗仏教だって同じことでしょう。
 認められていれば仏教内部の変革として扱われたはずです。

 春間さんへ
>空海の、学び取り(?)自らのものとした思想は、途中の変遷の結実たる、直観力と、滴滴と繋がった法への理解です
 途中の変遷が解明できないから謎に包まれているという話をしていたはずですが。
 むしろ龍樹に先祖帰りしているというのが、エムさんの言っていることでしょう。

 コメント欄よりエムさんの発言を引用
>その中では、空海さん、突然変異で龍樹のDNAが体内に入ったかと思うくらい、龍樹に詳しいです。。とわたしは思いますね。

「途中の変遷の結実」と、「突然変異」は両立しないと思うのですが。
 私の文章を引用してあったので、一応返事しておきます。
 
 エムさんへの反対意見ではないということであれば、返答は不要ですよ。では。

投稿 みみっく | 2007/03/22 04:18

空海を理解する階梯の一段に、大智度論、
(釈摩訶衍論)等がありますが、
同様に、天台の緒論、特に法華玄義は重要な一段となっています
論の運び方、記述の分類など、まるで空海の著作かのような一面があるほどです
どなたもそのような読み方をする方はみえませんが、
私にとっては、もっとも重要視されることの一つです
レグルス文庫に菅野博史氏の訳注があります
一読されることをお勧めします

投稿 春間 則廣 | 2007/03/21 21:13

エム先生

いやぁ~、まったく素晴らしいです。
大智度論が先生のところで読めるなんて!!!
ホントありがたいですね(涙ポロポロ)。。

春間さま

やはり春のせいですね。めでたしめでたし(笑)。

投稿 えび天サンバ | 2007/03/21 18:56

えび天サンバさま、春間さま

よかったです。もとにもどって。

バチについては、お二人からよいおはなしをありがとうございます。
よし、自発的に寝転がって読んだことにして、起きれば果報、と、自分に都合のよい解釈にしてしまおう。。

一つ、試しに『大智度論』の和訳のご紹介をメインに作ってみました。トップページの空き地にアップしてみます。

投稿 管理人エム | 2007/03/21 16:50

変換違いでした

同じオンの他人ではなかったのです
龍樹のように、身を隠すような変身の術を持ち合わせていないのでした

>おなじノリなんでした。バチあたるか、やっぱり

 バチは、内から見ればバチで、外から見れば果報です
 空海、龍樹と寝転んで対話することがバチですネ !
  「 それでも、起きれば、すぐ果報 」
 春眠は暁”に”不覚 これもバチでしょう ネ !

投稿 春間 則廣 | 2007/03/21 14:57

エム先生

天ぷらが点心料理になってしまいました(笑)。単なる不注意です。こんなところに性格が現れてそうでコワイです。ところで先生、ばちは当たらないでしょう。私が最近参照した村上保壽という高野山の先生も、「…戒を守ることは、仏との約束(自戒・自律的規則)であって、決して仏の命令や強制ではない。いわば、仏教の戒律は、外からの強制力ではなく、あくまでも自発的な戒の意識にもとづいていると言うべきである。…」と述べておられます。

転がって読める本というのは大変私向きでもあります。いやー、先生が頼りです。さっそくその辺から取り掛かって…、あ、いや、「方便心論」が先でした(汗)。今後ともご指導よろしくお願い申し上げます。

投稿 えび天サンバ | 2007/03/21 14:04

えび点サンバさま(ちょっとお名前が変わった?)

『大智度論』は、わたしには読みやすい本なんです。
「今日からあなたも仏教通!まるわかり仏教事典」という感じで、寝ころんで読んでもバチが当たらない実用書のようです(バチあたりかな、やっぱり)。
けっこう阿含を下敷きにして説明してあるところは、楽しく読めますよ。
そうか、わたし、空海さんもおなじノリなんでした。バチあたるか、やっぱり。

みみっくさま

> 言葉で言えば、意味が確定するのは「死語」になった時だという話です。

歴史的にいえば、そう言うこともあるかもしれませんけど、仏教書は聖書だから、いつも現役だと思うんです。もし「死語」になったら、仏教も消滅してるのでは。

ハルマさま(お名前ちょっと変わった?)

> 我の自我を信じて、たくさん読み込んでおけばよいと思います

そうですよね。ミソや醤油のように、「仕込んで寝かせる」のが大事なのかな。
「果報は寝て待て」そのせいかな、最近眠いです。。。春眠暁をおぼえず。。。


投稿 管理人エム | 2007/03/21 11:55

>謎に包まれているのは思想の変遷であって、
 龍樹の著作から直接空海が学んだのであれば、
 途中の経過は無視できるでしょ

空海の、学び取り(?)自らのものとした思想は、途中の変遷の結実たる、直観力と、滴滴と繋がった法への理解です

(諸行無常 の行は、法の具現の行の変遷を内蔵する)

諸法無我ではあっても、我で執着して理解する法は、
その時点で、行となり、諸行無常の理に入ります

空海が龍樹をどう見たかではなく、
それを観る私(我)の見方が在るという事です
”ここでは” ”表現の問題”ではなく、行為の是非が問われるだけです
”是 法 か、非 法 か、”です

投稿 春間 則廣 | 2007/03/21 09:49

エム 様

>こういうものは、自然とわかってくるまで待つのがコツ
 我の自我を信じて、たくさん読み込んでおけばよいと思います
 WINDOWSでも、ひとりでに関連付ける作業はあるのですから
意識的な作業など、氷山の一角にしか過ぎません

PCソフトは、私たちの認識形態の無意識的コピーにしか過ぎません

「 果報は寝て待て 」 です

投稿 ハルマ | 2007/03/21 09:09

>こういうものは、自然とわかってくるまで待つのがコツかな。
 過去の人の話をしているんですが・・・。
 
 まだ「関係者が生きている」状態だから切り刻むと抗議されるということを言っているんですけどね。
 言葉で言えば、意味が確定するのは「死語」になった時だという話です。

 生きて使われている言葉は意味を確定できないことが多い。「愛」とか「IT」とか、人に関心を持たれている言葉は意味が変化しますから。

 まあ大乗仏教は日本で生きて呼吸している思想だということですね。

投稿 みみっく | 2007/03/21 01:32

空海さんの本は難しいですね。少しだけ持ってはいますが、怖くてなかなか開けられません(苦笑)。空海さんは不空さんの生まれ変わりだと自分で信じていた形跡があるとかないとか、読んだような気がします。不空さんはインド人で同じく金剛智の弟子ですね。空海さんがよく引用する書物に、確か大智度論があったように思います。読んでみたい本ではありますが、いまのところトホホ、ですね。

投稿 えび点サンバ | 2007/03/20 23:42

みみっくさま

ふう、今は何もわからないというのが正直なところです。簡単にはいかないですよ。
結論を急いじゃ、元も子もなくなってしまう。じっくり粘らなきゃね。
こういうものは、自然とわかってくるまで待つのがコツかな。

投稿 管理人エム | 2007/03/20 22:17

>このあたりのところ、いまだ謎に包まれていて、密教とのかかわりも、責任もって何か言ってくれる人がいないみたいなんですよ。
 だから開祖なんでしょ。
 龍樹が真言密教の。

 かかわりが謎に包まれているというのはどういう意味なんでしょうか。

 言いたいことはわかりますけど謎に包まれているのは思想の変遷であって、龍樹の著作から直接空海が学んだのであれば、途中の経過は無視できるでしょ。

>その中では、空海さん、突然変異で龍樹のDNAが体内に入ったかと思うくらい、龍樹に詳しいです。。とわたしは思いますね。
 突然変異でなくたって龍樹には著作があるんだから、それを空海が読んでいれば別に不思議ではないでしょうに。

>龍樹は、有名なわりには、ほんとに知ろうと思って調べると、誰もかれについて満足な仕事をしていないとわかる不思議な人です。案外理解されてないのです。
 理解されていないというより、政治的な問題で歪められているだけだと思いますけどね。
 
>今までわたしが読んだものの中で、こんなに龍樹のにおいのするもの読んだのはじめてです。
 例えばこういう発言が論争を呼ぶんですよ。純粋に教義だけを問題にできない。
 これが政治的な問題でなくてなんでしょうか。

投稿 みみっく | 2007/03/20 19:21

みみっくさま

このあたりのところ、いまだ謎に包まれていて、密教とのかかわりも、責任もって何か言ってくれる人がいないみたいなんですよ。

龍樹は、有名なわりには、ほんとに知ろうと思って調べると、誰もかれについて満足な仕事をしていないとわかる不思議な人です。案外理解されてないのです。

その中では、空海さん、突然変異で龍樹のDNAが体内に入ったかと思うくらい、龍樹に詳しいです。。とわたしは思いますね。
今までわたしが読んだものの中で、こんなに龍樹のにおいのするもの読んだのはじめてです。
なんだろ。つかんだな、って感覚ですかね。
検証する必要があるのかどうかは、わからないな。

投稿 管理人エム | 2007/03/20 17:58

MAGICAL BOARD、過去ログ#240より引用
[240] Re:[237] [235] フュージョン 投稿者:莓矢毒蛙 投稿日:2007/01/28(Sun) 13:01
>龍猛菩薩って、龍樹だったんですか。
>真言密教の開祖とは恐るべし!

 龍樹は真言密教の開祖だって話題がヒマカナ掲示板過去ログにありますよ。
 空海が龍樹をどう評価していたか検証する必要ってあるの?

投稿 みみっく | 2007/03/20 17:22

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