何やってんですか、管理人さん!
なんとなく 日々
つれづれ がさごそ ずるずる
と、暮らす 管理人です。
みなさん!こんにちは!
本書いた
本書いた
いい響きだなぁ
それに三つ仕事もした
残りは、あと四つ
あらん、なんで増えてるのよ。
シラバス作って、授業の準備しなきゃ。。。
って、思ったけど
読もうと思って読めてない本を
ぱらぱら見ていたら
止まりません。
頼富本宏『空海』にはまりつつ
『大智度論』をお終いから
逆に読むとどうかな
と思って
おしまいから読んでみる。
『理趣経』と『梵網経』を見ながら
『倶舎論』を開いたところを
当てずっぽうに読む。
そうこうするうちに
『仏教文学集』という本を本棚から見つけて
なか見てたら
お!空海
『三教指帰(さんごうしいき)』があるじゃないですか。
へぇ、こんなん、あったのか
『華厳経』の入法界品
『金光明経』も
岩本裕氏の訳で飛ばしながら読んでみました。
はぁ、気分は大乗~~
『倶舎論』が入ってるのが、ちょっとなんですね。。。
まぁ、いいか(笑)
で、
さて、フィーリング・ブッダ、って言葉も
あったよね
って、思いながら
もういい頃かな
と思って
原始仏典『サンユッタ・ニカーヤ』の和訳
『神々との対話』
『悪魔との対話』
これらを開いてみる!
おお!新鮮!
今までとちがう原始仏典が見える。
こ、こんなに、原始仏典て、大乗っぽかったんだ。。
って、ことはないですが、
今まで読んでも気づかなかった
隅々に光りがあたって、ちがう経典のようです。
ウム!阿含は、原点ですね。。。
あらゆるものが入っている
それにしても、大乗仏教は、こうしてみると
めちゃ、むずかしい。。。
新しい経典の読み方を試してみました。
みなさんも、やってみ。。。
。。。
。。
ない方がいいかも(ははは)。
| 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/58200/13820507
この記事へのトラックバック一覧です: 何やってんですか、管理人さん!:
» エッ!「空即是色」は間違い? [南華のブログ]
『中陰の花』で第125回芥川賞を受賞された作家で、臨済宗僧侶でもある玄侑宗久さんの『仏弟子の世間話』という本を読みました。
この本は、玄侑宗久さんとアルボムッレ・スマナサーラ氏(スリランカ初期仏教長老)との対談本という形式をとって、仏教について論じています。
なかなか面白い本なのですが、なかでも驚いたのが、「空即是色は間違い」という項目です。
少し引用してみましょう。
(55頁〜) ... [続きを読む]
受信: 2007/02/10 15:24


コメント
>わたしは、わかるのですが、三人とも正しいのです。
>ブッダは、すべての人に語っているな、と思います。
私が言っているのは、
『涅槃では空が色にならないから寂静になる。』
ということなのですが。
>テーラワーダという立場を背負って立っているということを忘れないで意見を聞く人は、長老さまの真意を知るでしょう。
その「立場」にも配慮して後半の文章(涅槃では空即是色は成り立たない)を書いたんですけどね。
テーラワーダの立場からすれば、「涅槃では空即是色はない」ならば「つまり空即是色はない」ということになるはずです。私は「迷いの世界では空即是色はある」と言っていることになりますからね(笑)。
>みみっくさまは、「縁起」を見ているので、そうおっしゃるのだと思います。
仏教的に言うと確かにそうなるでしょうね。私は違う文脈で考えていますけど。
> 間違っているのはこれです。
> こういう『分析(!)』をするから「論理的な間違い」になってしまうのです。
この文章は結構本気です。もっとましな『分析』はできないのかとずっと考えていたのです。
一応代案は考えてあるんですけどね(笑)。
>四句分別は、いろいろな学者が、いろいろ検討しています。
>わたしは、ずうううっと、それを見てきました。
>そして、ぜんぶまちがっているのじゃないかと思いました。
>というか、みんな、何だかよくわかってないと思いました。
まあとりあえず納得しづらいのは確かですね。
>わたしは、龍樹を解釈して、また、自分で解釈してそういうのです。四句分別がなんだか、わかったのです。
>うむ!わたしの龍樹本が出たら、読んでみてください。
龍樹本に四句分別の解説が含まれているのなら、出版されるまでお預けですね(笑)。
なんか半端ですが、ここで終わりにします。では。
投稿 みみっく | 2007/02/12 02:52
春間さま
> ブッダの理は、みずからを拠り所として語るという事を教えます
自分の言葉で語るときだけ、ブッダの法になる。
たくさんの人達が、自信をもって、というか、確信して、法を語りますね。
仏教というのは、いいものだっ、と思います。
「語る自由」を教える仏教はすばらしいと思います。
それと同時に、他の人の語る「法」もよくよく聞かねばならないと思います。
とても多様に語られているからです。
どんなに多様に語られても、自分がそれをわかるとき、仏法にいると確かめられるからです。
宿明通というのが何か、ちょっとヒントをもらったような気がします。
投稿 管理人エム | 2007/02/11 14:55
みみっくさま
いいところ、突いてますね。
うむ!わたしの龍樹本が出たら、読んでみてください。
これは、4つの形式をもつ文からなっているので、「四句分別」といわれます。
四句分別は、いろいろな学者が、いろいろ検討しています。
わたしは、ずうううっと、それを見てきました。
そして、ぜんぶまちがっているのじゃないかと思いました。
というか、みんな、何だかよくわかってないと思いました。
ある見方をすれば、みみっくさま、おっしゃるとおりです。
スマナサーラ長老さまは、この言い方をブッダはしていないと言っています。(ブログの引用によれば)
わたしは、この言い方をブッダはしている、と言います。
わたしは、わかるのですが、三人とも正しいのです。
ブッダは、すべての人に語っているな、と思います。
みみっくさまは、「縁起」を見ているので、そうおっしゃるのだと思います。いいと思います。
スマナサーラ長老さまは、ちょっとむずかしいです。運が悪いと、多くの人に誤解されるかもしれないと思います。一般の人に向けた言い方をして説明しながら、一方では、テーラワーダ(上座部)の立場も説明しているからです。
テーラワーダという立場を背負って立っているということを忘れないで意見を聞く人は、長老さまの真意を知るでしょう。がんばってるなと思います。
わたしは、龍樹を解釈して、また、自分で解釈してそういうのです。四句分別がなんだか、わかったのです。
四句分別というこの言い方を、ブッダのような文脈で用いるのは、ブッダが初めてなのです。その意味で、四句分別は、ブッダオリジナルなのです。
みみっくさま、仏教はふかいですよ。。おもしろいから、ほんと。
投稿 管理人エム | 2007/02/11 13:16
>? エッ!「空即是色」は間違い?
「空即是色」は間違っていないと思いますね。
>「①ある」、「②ない」、「③あると同時にない」、「④あるでもない、ないでもない」。
間違っているのはこれです。
こういう『分析(!)』をするから「論理的な間違い」になってしまうのです。
欠けているのは「時間」(ベクトル)です。
上の『分析(!)』では時間が停止してしまっています。
「時の流れが停止した世界(!)」では、「空即是色」は成り立たないかもしれませんが、「時の流れる世界(!)」では「空即是色」は成り立っているのです。
では「涅槃」では時が流れているでしょうか?
涅槃に至れば「空即是色」は成り立たなくなるでしょう。
色が空になることはあっても空が色になることはない。
これが「寂静」ではないでしょうか?
以上です。
投稿 みみっく | 2007/02/11 12:26
ここで、 “ みずからの言葉で語る “ ということが
クローズアップされるところですね
ゴータマ・ブッダの友たちとの、会話の中で語られた、
(祖)の言葉は、弟子達によって、彼らの(みずからの)
実践の範囲で受け取られます(言葉は生き方の表明です)
ブッダの理は、みずからを拠り所として語るという事を教えます
ブッダの生き様と、違いはしても、
友たちは、 その理を守ろうと腐心して、
みずからの行い(生き様)を拠り所にして
そこから生まれる
言葉 を、語る限りにおいて、それは
“ ブッダの理 ”の中にある 言葉 となり
それを聞く(彼に触れる)人たちは、
“ ブッダの理 ”を聞いている(生きている)のです
同じ文字で書き表される言葉だからといって、
いつも、誰が、言っても、同じ意味とはなりません
ブッダ(ゴータマ)は、“僧伽の友”に信をおいたのです
友が、ゴータマ(ブッダ)に信をおいたように
自ら語る言葉が、ブッダ(ゴータマ)の言葉であるように、、、、
法に基づく言葉であるように、、、、
みずからの日々がそのようにあるかどうか、
(常に)見つめていたい(いない)私を見つめます
投稿 春間 則廣 | 2007/02/11 10:18
春間さま
> でも、気をつけないと、混じりっけもあるみたい
> (自らの言葉で書いてなかったりするから)
ええ、そんなところも、見えてきますね。
増谷先生が、『長部(ディーガ・ニカーヤ)』『中部(マッジマ・ニカーヤ)』より『相応部(サンユッタ・ニカーヤ)』を重視して、弟子たちとブッダとの素朴なやりとりを多く含んでいるといっています。
基本的に、『相応部』などをもとにして、『長部』『中部』は編纂されたという風に見ているのですね。
また、サーリプッタが教えを説く経典は、部派っぽいとして、ブッダの教えとは見ていないようです。
でも、そうでもないと思うんです。『相応部』も、それなりに編纂されています。そんなに、素朴でもないし。
また、『ディーガ・ニカーヤ』は、編纂されても、ブッダのことばを多く含んでいます。
サーリプッタの説く教えについても、ブッダは「よし、わたしと同じだ」といったりもしています。
『相応部』だからブッダ説で、『長部』だからちょっとあやしい、というような分け方ではなく、全体とおして見たとき、どことなく、教団のにおいみたいのを感じるときがあります。
けっきょく、阿含は、仏弟子たちが記録したものです。
でも、こういうあり方(仏弟子の伝承)を認めたのは、ブッダなのだから、これでいいのだと思います。
ダメだと思ったら、自分で書いたものを残したり、この通りにいいなさいと、文章や文句を決めたりするでしょうから。
あるがままを受けとめて、そのまま理解しようというところから始まると思って、そうしています。
投稿 管理人エム | 2007/02/08 14:13
>ウム!阿含は、原点
本当に、私もそう感じます
ブッダの言葉を、自らの言葉で、
受け取ることができるから
でも、気をつけないと、混じりっけもあるみたい
(自らの言葉で書いてなかったりするから)
阿含を読み解かない(仏)道の人など居はしません
>今までとちがう原始仏典が見える
いつでも、そうあると良いですね
そこに、全てがあるのだから、、、、
いつも通る道でも、
素敵な(!)欧州の風景であっても、
全て備わっているという観点では、
素敵と見慣れたは、執着の差でしか無いのだから
突き詰めれば、執着と解脱も、
その差を作るところに行き着くのだから
投稿 春間 則廣 | 2007/02/07 21:31