こころ はっけん!
昨日は、ヨガ・スクールのみなさまとお話してきました。
今回は、ちょっとひねってみましたよ。
仏教
かくも合理的で科学的な、
まるで学問のような宗教
こんな宗教は、他にはない。
最近では、このようなイメージをもつ人も多いかもしれません。
これは、仏教の重要な側面だと思います。
合理的であり理性的であり知的であり
人の心をじっくりと観察して得られた
ありのままの姿を語っています。
インド思想も同じです。
ヨガは心を科学的に分析する
と
わたしも
かっこつけて語ってきたのです。
今までは、このような側面を
いやっというほど
語ってきたのです。
で、
昨日は、
これまでとはいささか趣向をかえて
これら「合理」を超えたものについて
ちょびっと、語ってみました。
「心」というものは、
ほんとうに不可思議なものだと思います。
理性だけでは割り切れぬ
ブッダは、
心を
観察(ヴィパッサナーの瞑想)
と
実験(サマタの瞑想)
によって
科学した。
だからといって、
わたしたち現代人が
非科学・擬似科学と思っているような
呪文・迷信・占いの要素を
残りなく捨て去ったわけでもない。
このあたりの説明が微妙でむずかしい。
呪文や迷信を認めたというと
ちょっと嘘になる。
では、
認めなかったかというと
それもそうでもない。
「心」にせまれば
凡夫には
神秘とか迷信とかマジックにしか見えないようなことも
いくらでも出てきてしまう。
梵天が現れたり、マーラ(悪魔)がでてきたり、
神が出現する世界も、また、ブッダのいた世界である!
ブッダは、とう利天にお説教にいったりもする。
授記をあたえる、神通も使ったりする。
って、
こっちの方も、語ってみました。
こちらの話は、
うまく言ってる意味をつかんでもらえないこともあるので
少しおそるおそるでしたが
ヨガの人達は
心と身体のエキスパートなので
スルッとつかんでくれました。
「心」には、ふつうに暮らしている人には
気づかないような
そんな側面もある
らしい。
経典からは、そんな部分も学べる。。
だから
ブッダの教えは
すばらしい。
心 発見の旅
これが、仏教かな、どうかな?
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コメント
春間さま
少し混乱されたでしょうか。
ブッダは、経典を書き残したわけではありません。
弟子たちが、直接聞いたもの、あるいは、伝え聞いたものを、おぼえやすくまとめてもっていたのです。
> 語る人の、その信じ“たい”という思いです
いえ、いえ、そうではないと思います。
語る人の、「その信じ“たい”という思い」という、あいまいなものではなく、「真理という信念・確信」であり、あるいは「真理と知ったという(自分にとっての)事実」です。
仏弟子の中でも、阿羅漢たちが結集しましたから、確信していると思います。ブッダクラスの者たちと言っていいのではないでしょうか。
「真理」と「真理でないもの」を区別するのは、誰でもない、自分しかいないのです。
わたしも、真理を知りたいから、「真理を知った人」と自分で確信できる人のあとをついていくのです。
それは、わたしにとっては、調達ではなく、ブッダなのです。
調達は一切を知ってるわけではない、ということが、わたしには説明できます。かれの思想は、仏教のようにみえるかもしれませんが、わたしには、ブッダの教えとは全くの別ものとみえます。
わたしは、だから、調達を捨て、ブッダをとります。
> それを、目標と捉える傍観者(? 言いすぎかな)が発する言葉です
傍観者の目は、自分の進む道を決めるときに必要です。
やみくもに誰にでもついていくわけに行かないからです。
いつでも、自分のことに責任もつのは自分しかいないのです。消えていく自分であっても、とりあえず、中州にしなくちゃね。
ブッダの後についていくなら安心だ、と思ったことは、ありません。
「真理を得るには、ブッダだ」という自分の「確信」によっているのです。選んだのは自分で、失敗しても、ブッダのせいじゃないのです。
で、失敗したくないので、いつもブッダの言ったことを確かめているのです。いつも「確信」を進む前の手形にして、関所を通ります。
投稿 管理人エム | 2007/02/27 11:15
エムせんせ~っっ!
どうもありがとうございます(謝謝、笑)。。
投稿 えび天サンバ | 2007/02/27 10:42
えび天サンバさま
> この点についての私の考えを申しますと、グローバルということの本当の意味を熟考してみた時、やはり言語の数学的厳密性ということを前提にしなければならないのではないか、と思います。
おそらく、この数学的厳密性というのは、十進法の他にも、まだ必要な要素があるのではないでしょうか。
それは、「形式」です。
でも、現代論理学の思考法では、グローバルなスタンダードは作れないと思っています。現実を見ていないからです。現実とあいません。
もっとも活用できるのは、ブッダ論理学だろうと思っています。それも、龍樹です。「空」の思想は、別名、「形式の学」とも言えると思います。
二進法であれ、十進法であれ、その様式にとらわれずに形式を使える、という汎用性をもつように思います。
えび天サンバさまの智慧でお使いいただきたい、そのようなものです。
はやく龍樹本が出ないかな。
お役に立てるのではないかと、ちょっと思ったりしていますが。。だめだったら、ごめんなさい、ですが。
投稿 管理人エム | 2007/02/27 10:28
自身が知ること (知らないこと ? )
人に語る (自らに語る)
できる - あなたが 、私が ?、、、、、、ブッダが ?
この理を知ることができないだろうと感じたのは、
” 経典 ” をつくった人です (人々は、 自分自身―私―を含みます )
記されたブッダではないのです
だから、語ることが躊躇されるのです
それでも、ブッダ(?)の口から語らせているのは
( ブッダであり )
語る人の、その信じ“たい”という思いです
>でも、ブッダはやり遂げたと思います。ブラボー!
自らのことであれば、日々の行いの一つで、達成ではありません
それを、目標と捉える傍観者(? 言いすぎかな)が発する言葉です
但し、真摯な傍観者は、通常、すぐに実行者へと歩みを進めますが、、、、
よしんば、“語って” 落ちた ところで、 “落ちる” ところが見つめられれば、
それは登るところです
(またもや、微妙?に論点がずれました)
人は、すべて(例外なく)真理、平安を目指す行者なのです
(それを自覚することは、執着に親しみを感じます)
( 要・不要 は遠離されます、、、、、)
投稿 春間 則廣 | 2007/02/27 08:15
エム先生
>現代には、現代のやり方があると思います。
この点についての私の考えを申しますと、グローバルということの本当の意味を熟考してみた時、やはり言語の数学的厳密性ということを前提にしなければならないのではないか、と思います。
具体的にいうと、その数学は数字のゼロ(0)と9によって成立する十進法のことですが、日本語の文法を精錬、確定していく努力の必要性、これは哲学における言語の使用法において、論理学を基礎に据えるということと同義であるべきだと考えています。
その理由は簡単にいえば、市場経済の原理の基礎、根底にこの十進法があると見るからなのですが、このことは、世界的視座に立った研究を志すという限定においてですが、世界的基準値による杓子定規の規格を統一しておくことが、まず日本語によってでも研究を発表しようとする者に求められる第一のハードルとすべきである、といいかえられるのではないかと思います。
>そう思うと、大乗仏教のさまざまな言い方・表現の仕方も、人々の伝えようとする熱意と智慧の結晶のような気がします。
まったく同感です。この点からも私は、エム先生の現代論理学を基礎とする現代大乗的在り方(これはエム先生にしてみれば探求の結果、たまたまそうなったに過ぎない、といわれるかも分りませんが)を、この分野のみならず最もよく評価、支持するものです。
今後ともヨロシクご指導お願い申し上げます。
投稿 えび天サンバ | 2007/02/27 00:10
春間さま
> “ 問題なのは、「悟り」の内容 ” これは、日々の生活のことですね
いいえ、そうではないのです。「日々の生活」と「そうではないもの」のことです。
「日々の生活」だけなら、それだけなら。。。って言ってもたいへんですが、それでも、まだ何とかなる!ような気がします。
「日々の生活」は、自分の生活ということでもありません。他人の生活も含んでいます。「日々の生活」は、「この世のすべて」です。
悟った人は、「この世のすべて」と「それ以外」のものについて、語らなければならない。
「それ以外」というのが、どういうもので、どうやって語るとわかるのか、わからないのです。
なんというか、「語り得ぬものに沈黙する」ということをどうやって如実に語るのか、ということなのです。
> 分かっていないことを説明しようとするから大変なのです
その通りなのです。「分かってないこと」を説明できるということが、「悟り」なのです。。。と言いたかった。
> 人は、自身が知ることのみ、人に語る(知らしめる)ことができます
この「できます」は、可能性をあらわしています。必然性をあらわすわけではないのです。
ブッダ自身、「やめてしまおう」と思ったのです。
「人に語る」と「人に知らしめる」を一致させること、ここが、もう至難のワザだと思います。
でも、ブッダはやり遂げたと思います。ブラボー!なのです。
> “ 語るに落ちる ”ということにならないようにしたいものです
ううん、ここまできたのなら、“ 語るに落ちる ”ということに「なる」ようにした方がいいと思います。
> ややもすると、「 知 」 偏重に陥る “ キケン ” を孕んでいます
いつでも「悟り」は キケン 地帯です。
偏重しぬくことが、大事なことだと思います。
中途半端にすると、“ 語るに落ちない ”ことになります。
投稿 管理人エム | 2007/02/26 13:58
>もちろん、「悟る」ということは、たいへんなことですが、もっと問題なのは、「悟り」の内容である、言い表し得ないようにみえるものを、いかに言い表して他人にわかってもらうか、ここがもうすごくたいへんなのだと思います。
どんな形であれ、どんな言い方であれ、それを「適切に」言語化する、という、ここ!に、もっとも智慧が求められるのではないだろうか
“ 問題なのは、「悟り」の内容 ” これは、日々の生活のことですね
そしてこの後に、記述に少し飛躍があります
智慧として得ることが出来たものだけ、生き方として実践できる
その生き方に裏付けられた言葉(生き方)がある
同じ言葉でも、行き方の違いで、違う意味を指すのです
(青は、藍にして、あおにあらず)
いわゆる「聞いたような事を言う」とは、この範疇です
分かっていないことを説明しようとするから大変なのです
人は、自身が知ることのみ、人に語る(知らしめる)ことができます
“ 語るに落ちる ”ということにならないようにしたいものです
語られた事を、知ることは、語ることに等しくなります
>「適切に」言語化する、という、ここ!に、もっとも智慧が求められる
正しく見、正しく考えるために、智慧はあります
そして怠りなく行(サンスカーラ・カルマ)を積むのでしょう
ややもすると、「 知 」 偏重に陥る “ キケン ” を孕んでいます
投稿 春間 則廣 | 2007/02/26 12:37
えび天サンバさま
> 良い聴衆は音楽家の演奏に力を与える
ほんと!わかります。
よい学生は教師に力をあたえます。
よい聞き手は語り手に力をあたえます。
そういう意味では、あらゆることはハーモニーですよね。一方が働きかける、それに対して、もう一方がまた働きかえす。やりとりが生まれて、和音が生まれる。不協和音も和音のうち、っていうことで。
> 異なる言語間の人間関係において、知恵を伝達、伝承するためには黙って座っていてもあまり効果がないのではないか、ということです。
そう思います。「異なる言語間」だと、どうしても不協和音をおそれてしまいますが、これを乗りこえないと、智慧を共有できません、と思います。
> そして言語化されない知恵というものはそもそも知恵と言い得るのかどうかということ、これが問題ではないかと思います。
ほんと、ほんと!わたしも、そう思います。
問題なのは、自分の中で悟ることではない。
すみません、でかいことを言ってしまいました。もちろん、「悟る」ということは、たいへんなことですが、もっと問題なのは、「悟り」の内容である、言い表し得ないようにみえるものを、いかに言い表して他人にわかってもらうか、ここがもうすごくたいへんなのだと思います。
どんな形であれ、どんな言い方であれ、それを「適切に」言語化する、という、ここ!に、もっとも智慧が求められるのではないだろうか、と思う毎日です。
そう思うと、ブッダはほんとうにうまくやった、とひたすら感心するのです。
> 心=縁起と空、というとたいへん抽象的で、分る人にしかわからないと思いますが
この「空」も、人々にわかりやすく知らせるための手だてだったのだろうと思います。ただ、時代が経って、わかりにくくなってしまったのではないでしょうか。
> 渡りに船、で、言語活動もまた浮世の習いなら、あらゆる時代にはあらゆる時代の言い方が可能になるのではないか。
そうですよね。現代には、現代のやり方があると思います。それを見つけだすのは、やはり、現代に生きるわたしたち以外にはありえないということですよね。
他の時代の借り物の言い方では、通じるものも通じないということになるのかもしれませんね。
そう思うと、大乗仏教の、さまざまな言い方・表現の仕方も、人々の伝えようという熱意と智慧の結晶のような気がします。
投稿 管理人エム | 2007/02/26 11:17
良い聴衆は音楽家の演奏に力を与える、という言い方があります。私はこれを、常日頃からあらゆる関係についてもいえるのではないかと思っています。
「心」発見の旅に関して、最近読んだ経済関係本のなか興味の引く記事を見つけました。少し引用してみます。
「・・これに対して日本企業は理念はあるのだけれど、それが言葉で表現されない知恵のままになっているのです。したがって、なかなかグローバルに共有できない。・・(中谷巌著「プロになるための経済的思考法(2005))」
哲学的には、言表行為を主なテーマにするときになど、理解ということがおざなりになってしまっているのをよく見受けます。理解を主なテーマにすると、言表に対する傾聴行為ということが同時にあり、その関係性の深さから理解が育まれる、ということができると思います。
引用記事のなかでとりわけ私の関心を引き付けるのは、異なる言語間の人間関係において、知恵を伝達、伝承するためには黙って座っていてもあまり効果がないのではないか、ということです。そして言語化されない知恵というものはそもそも知恵と言い得るのかどうかということ、これが問題ではないかと思います。
渡りに船、で、言語活動もまた浮世の習いなら、あらゆる時代にはあらゆる時代の言い方が可能になるのではないか。そして、それを可能にするのは相互的な理解への希求、そしてまた信頼醸成関係へ向けた諸々の努力などでありましょう。
心=縁起と空、というとたいへん抽象的で、分る人にしかわからないと思いますが、人間関係の、相互理解による循環、といいかえると、苦を抜いて楽を与える仏教のすがたが案外、身近なところに発見されうるのではないか。エム先生の、深~い森のような記事から、そんなことを思ってみました。
投稿 えび天サンバ | 2007/02/26 00:16