「悟り」考
えび天サンバさま、春間さまのコメントに触発されて
「悟り」について、少々考えてみました。
「悟り」というのは、「煩悩を滅すること」と
簡単に言ってしまえるけど
このとおりにするのは、並大抵のことではない。
だから、なかなか悟れる人がいないのだ。
で、
むずかしい「悟り」に近づくための方法は
いろいろある。
1 瞑想などによって、心の鍛錬をつむ。
2 いろんな身体を使った修行をして、自分の煩悩をなくすようにがんばる。
3 理屈で見取り図をこしらえて、実行してみる。
どんなやり方でも、悟れると思う。
たぶん決まったやり方はないのだろう。
で、羅什訳『中論』の、僧叡の序を見ていたら
こんなことが書いてあった。
中論は、五百偈である。:龍樹菩薩が、造ったものである。
「中」をもって名前とするのは、その真実を照らすからである。
「論」と称するのは、その言葉を尽くすからである。
真実は、名づけられなければ、悟れない。
だから、「中」という言葉によって、これを述べるのである。
言葉は、註釈なしには尽くすことができない。
だから、論をかりて、これを明らかにするのである。
注目したいのは
「真実は、名づけられなければ、悟れない」
というところ。
1でも、2でも、なにも言葉で言わないのではなくて
やはり、「心を無にしなさい」とか「お布施をしなさい」とか
何か言葉で言われる。
つまり、名づけられる。
あるいは、
龍樹のように
「中」ということによって、悟りを説明する。
この「中」というのは、「中道」のことね。
「悟り」は、言葉で言い表せないのかもしれませんが
じっさい
「悟り」ということについては、みなさん能弁なのです。
なんとか説明しないと
どんなものかわからないからですよね。
ほんとに悟っていたら、
それをあらわす表現や行為やが
その人なりにできるはずです。
それは、悟ってないわたしたちが見ても
すぐ わかる! と思います。
その表現や行為や作品の中に
「一切智」という観点が含まれているかどうかで
見つけることができる
と思います。
「一切智」といわないときは
「完成されたもの」と言います。
「完璧」でも「完全」でも
いいかもしれません。
生まれてきた人間の「完成」は何でしょう。
それは、誤解されそうでちょっと言いにくいですが、
かくじつに「死ぬこと」です。
「コイツハかくじつにイキのねを止めたゾ」って、
言ってもらえるようなとき
「完成」しているのです。
たとえば、お釈迦さんみたいにです。
それが「涅槃」ということであり
「滅」ということであり
「出離」ということであり
「離欲」ということであり
「解脱」ということであり
「不死(甘露)」ということであり
「常住」ということである。
未完成の人間は
死ねないので、
ずるずる生を引きずって輪廻しちゃう。
完成した人は、生と死の体系の中で
完全に「閉じている」。
他の影響を受けない
不変そのものです。
永遠と言ってもいいのです。
だけど「有」じゃない。
なぜなら
閉じているからです。
なので
「無」なのです。
へぇ~、そうだったのかぁ。。
と、自分で言ってるなんて
問題かもね。
変かもしれないけど
アップしちゃお。
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» 十二縁起ー空と疎外−「悟り」へ [南華のブログ]
仏教の開祖、お釈迦様は「一切はみな苦である」と説き、その原因を「十二縁起」というコンテンツ(項目、目次)で示しました。
「縁起」とは「空」のことであり、「空」とは「関係」(の認識)ということですが、「同時的相互関係」と「前後的因果関係」のなかでは、主に「前後的因果関係」に属するもので、次の十二の段階に分けて表します。
無明→行→識→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老死
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コメント
みみく 様
道場に移って、そこへかきこみます
投稿 春間 則廣 | 2007/03/02 09:13
>私達は、永遠の概念など知りもしないのです
いつから悟りは「知ること」になったのでしょう。
>>悟りを観ずることは出来ないと言い得るのです
>>私達は、一度でも見たもの、感じたものは忘れません
>>ただ、(意識)選択によって、取り上げるかどうかです
> こういう意識状態は悟りではありません。
「見たもの、感じたものは忘れません」とはどのような意味でしょうか。
>わかるのは、「全ての人に仏性がある」からです。
引用しておきます。
投稿 みみっく | 2007/03/02 01:05
顛倒夢想でした
投稿 春間 則廣 | 2007/03/01 23:32
みみっく 様
>こういう意識状態は悟りではありません。
悟りは永遠ですから。
このような見解を持つことを、”顛倒無想”と呼ぶのです
永遠とは、不常のものです、
それを永遠として存在するが如く言うことが”常住”のおもいです
私達は、永遠の概念など知りもしないのです
投稿 春間 則廣 | 2007/03/01 23:30
>悟りを観ずることは出来ないと言い得るのです
>私達は、一度でも見たもの、感じたものは忘れません
>ただ、(意識)選択によって、取り上げるかどうかです
こういう意識状態は悟りではありません。
悟りは永遠ですから。
投稿 みみっく | 2007/03/01 12:56
>それは、悟ってないわたしたちが見ても
私達の、範囲でしょうね
>すぐ わかる
わかるという言葉の、限定された側面ですね
>悟りが悟っていない人にわかるわけない
悟りは、厳密には、悟っている状態です
しかし、 “ 願 ” (向かうところ)
をもつ人には、その方向が分かります
というより、(法)方向を設定しているのです
つまり、類似性がわかるということです
>悟りを観ずるならそれは悟りです。
たとえ一瞬で消え去ったとしても。
このように、言葉ではよく言い表されますが、
重大な、顛倒を孕んでいるのです
悟りを観ずることは出来ないと言い得るのです
私達は、一度でも見たもの、感じたものは忘れません
ただ、(意識)選択によって、取り上げるかどうかです
悟りとは、アルがママの姿です
(その意味では、すべての人は、その状態にあるといえます)
その状態(あるがまま)を、
「 一切の顛倒無想を遠離してみる 」“事”を、
“ 悟り ” というのです
ただ、(法藏)菩薩だけが、「正覚を取らじ」と
そこから、退出するのです
人は、菩薩であるとき(その状態を選んでいるとき)だけ
悟りに“親しみ”を感じます
投稿 春間 則廣 | 2007/03/01 08:01
>それは、悟ってないわたしたちが見ても
>すぐ わかる! と思います。
これ間違いだと思います。
わかるのは、「全ての人に仏性がある」からです。
わからないのは「仏性で観じているのではない」からです。
悟りが悟っていない人にわかるわけないでしょうに。
悟りを観ずるならそれは悟りです。
たとえ一瞬で消え去ったとしても。
以上です。
投稿 みみっく | 2007/03/01 02:14
南華のブログさま
> 本はどのような形で出されるのでしょうか。
それが、どうなるか、まだわからないのです。
原稿を書いたところまで進んでいるのです。
トラックバックありがとうございます。
たいへんな力作を毎回載せておられて、感心しております。
読む方の力量も試されてるなぁ、と思って小さくなってしまったりしています(笑)。
投稿 管理人エム | 2007/02/28 13:02
本はどのような形で出されるのでしょうか。
私のブログでも、悟りについて考えてみましたので、TBさせていただきました。
お出かけくださいませ。
投稿 南華のブログ | 2007/02/28 10:57
えび天サンバさま
わ、すばやいご感想ありがとうございました。
龍樹本、こんなに期待していただくと、あとで現実を見たときの失望が、どれほどかと思って、こわい!でございます。
たいしたことない、たいしたことない、たいしたことない、たいしたことない、、、(もう暗示にかかったかしら)(笑)。
投稿 管理人エム | 2007/02/28 10:54
エム先生
龍樹は偉大な芸術家だったんですね。先生の龍樹本、早く読みたいなァ。。
投稿 えび天サンバ | 2007/02/27 14:37