« 2006年11月19日 - 2006年11月25日 | トップページ | 2006年12月3日 - 2006年12月9日 »

2006年11月26日 - 2006年12月2日

2006/12/02

龍樹、「天上天下唯我独尊」を語る

天上天下唯我独尊」にかんしては、
いろいろコメントいただきまして
ありがとうございました。

天下御免の管理人です…つおいぞ…

ではなくて
文字通り読んでいただいてけっこうでございます。

天下にゴメンしてる管理人です…

だいぶ、イメージ変わりましたね。

まぁ、いろいろあります、このように…
解釈は、ね。

しかし、さすが、みなさま、ふかい!です。
やっぱり、「仏教はこわいなぁ」というのが本音です。
やっぱり、「こわいけどたのし」というのも本音です。
やっぱり、「たのしいのでやろっ!」というのが、もっとも本音です。

では、「やろっ」と号令かけて、
最後の解釈を出してみたいと思います。

それはっ、真打ち龍樹先生の解釈であります。
では
龍樹せんせっ!よろしくお願いしますっ!

ブッダは、生まれたとき、7歩歩んで、
自ら「天上天下唯我独尊」と発しました。
その後、ぴったり何も言わず、他の嬰児のように
歩まなかったし、何も語らなかったのです。

他の赤ちゃんと同じように、
おっぱいのんでねんねして
おんぶしてだっこして
またあした

ってかんじで、育っていきました。
まるで凡人そっくりでした。

どうして、すぐに生まれて語れたのに、
その後、語れなくなったりしたのでしょうか。

それは、方便の力なのです。
まるで「ふつうの人ふう」というやり方を
方便力で現出したので、
みなさんは、ブッダがふつうの人のように見えたのです。

もし、菩薩(ブッダのことね)が、
生まれた直後からずっと、
「歩いてしゃべって」というのを
やっていたら、みなさんはどう思うでしょうか?

「こんな人はいまだかつていたことはない。
こりゃ、天龍鬼神にちがいない。
きっとこのような人(?)の学んだ深い教えなど
常人の及ぶところではない。
我らの肉身は、業の法則に従い、
自在にできるものではないのだから」

このように考えてしまっては、
賢人聖者となることのできる人でも
最初からあきらめてしまうことになります。

そのため、ブッダは大衆路線を歩んだのであります。

だから、みなさんは知らなければなりません。
「仏身は無数であって、諸々の世間を超えたものである」
ということをね。

(『大智度論』p.59a.…注:龍樹が書いた本という解釈をとってます)

やはり決まりますね…というか、より混沌へといいますか…(たらっ)
ま、とにかく、せんせっ!ありがとうございました。

「ブッダの身体」については、
生身(生まれて死んだなまみの肉体)
法身(法が身体のかたちになったもの)

このような区別をつける必要があるということでしょうか。

「法身」という考えから行きますと
目的論的な解釈になりますね。
龍樹せんせっ。

よけいわからなくなりました。
仕方ないので、がんばって
龍樹せんせの解釈を、さらに解釈してみます。

「法身」については、以下のようなところから理解できるかな。

「法(此縁性)は、如来が出ても出なくても、決まってる、確定してる」
って、ブッダみずから言ってます。

また

「法を見る者は、ブッダを見るのだし、ブッダを見る者は法を見る」
とも言ってます。(ちょっと正確でないかも)

この二つの文を混ぜると、こうなる。

如来が世に出てないとき、
ブッダを見るとすれば、法を見るのですが、
法は、なかなか見えないので、
法を見る者はやっぱりブッダを見ることになります。

この場合、法を見る者がみるブッダが、「法身(のブッダ)」なのです。
でも、法を見る者なら、法身は見えるかもしれないけど、
ふつうの人にはやっぱり見えないので
ブッダは、方便力で、法身をあたかも「生身のように」現出して
人々に示した

と、

こういうので、いかがでしょうか。

「如来が世に出てないとき」

案外、ここがポインドですかしら…はずれてます?

龍樹っ!むずかしいよぉ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/11/29

本棚だって太るわ

机のわきの狭い本棚、すごく悲惨でした。

本棚の後ろの背板が一部とれちゃったので、
両脇の板が、たわんできて、
カーブになってました。

そこにむりやり本詰め込んでぎゅうぎゅうにしたら
本棚のくせに
なんか太ってきました。

机の前に座って横見るたびに
この本棚太ってきたなと
思ってました。
触るとゆれるし。

太りすぎで
棚板が落ちてしまったので
本やノートやコピーの資料をつんで
その上に棚板を置いて
本載せてました。

出したり入れたりがたいへんだった。
ゆらゆらゆれるので
地震が来たらわたしの上に崩れるかも…
と、心配しながら。

しか~し、崩れる前に
とうとう本棚を替えたのです。
40㎝の幅しかないけど天井まである。
奥行き15㎝。

いいわぁ、ゆれない、きれい。
しかし、いいことばかりじゃない。

あらっ、こんなにノートやコピーが…
段ボール一個分は、はみ出ちゃった。

こうしてみると
太る本棚ってのも、なかなかよかったわねぇ…。

| | コメント (8) | トラックバック (1)

2006/11/26

天上天下唯我独尊って?なに?

龍樹本です。
方針を少々切り替えました。
今までは

「好き放題に書く」

という方針でした。

で、切り替えた方針は?

「もっと」好き放題に書く

です。
かわってんでスカ?

もち!変わってるわよ。
でも、ちょっと好き放題もすぎたかしら、って思うので
その部分をここに載せてしまおう。

なんか、無意識に書いたんだけど
考察が甘いのと、それと、でも、ちょっと突いてるところも
あるので
お待たせしているみなさまに
お暇つぶし に、読んでください。

       ********

 ブッダにかんする誤解されやすい表現として、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」がある。ブッダは生まれるやいなや、七歩歩いて右手をあげこの詩句を述べたと伝えられている。この詩句の意味するところは、「天の上にも下にもわたしが最勝である」ということである。生まれた瞬間から、自分は最高であると述べるとは、なんたる傲慢なことだろうと解釈されてしまうため、仏教徒泣かせの表現なのである。そして、「唯我独尊」は高慢な態度を形容する言葉になってしまっている。

 この言葉をどのように受け取るかで、ブッダ論理学と西洋論理学の立場のちがいをいくらかでも示すことができるのではないだろうか。(ここがあまいよな!)

 すぐ「なんて傲慢なんだ」と思ってしまった人は、「どんな人にも最高などということはありえない」と考える人である。人間は不完全なものであって、「自分が一番」などと言えるだけの根拠をもつことはできないと思うのである。そして、「人間は不完全」というこの考えは絶対なので、「わたしが一番だ」という人に対しては、即「傲慢」とするのである。そう言っても、自分は間違うことはないと確信できるからである。この世において完全であるということはありえない。これがこの人の思想である。
(ここに、一つ問題見つけた!「人間は不完全」と思う人は、自分の「人間は不完全」という意見を不完全とは思わず、絶対的に主張する、という点。ある意味、矛盾してる。)

 もう一方には、このように考える人もいる。「わたしが最高だ」というこの人は何者なのだろうと思い、本当にそうなのか確かめてみようと思う人である。「人間は不完全だ」という思想をもたない人である。「彼が何か最高のことを知ったのかどうか自分自身で確かめよう。わたしは、彼が一番かどうか確かめることができる」と思うのである。その意味では、自分の能力も不完全とは思っていないわけである。

 さて、傲慢だと思ってそのままずっとそう思っている人は、基本的に西洋論理学の思考法によっていると考えた方がよいだろう。不完全なのは人間である。世界のあらゆることを知ることは難しく、わたしたちはこのすぐれた現代科学によってさえ帰納的に真理に近づいていくのみなのである。
(こう言えるんですか?自分でちょっと疑問。神をもつ人々の思想から来るのもあるかもね。神は絶対で、人間は不完全という思想です。)

 一方、ブッダの「一切智者である」という言葉にも、それほど抵抗を覚えない人は、ブッダ論理学を含むインド論理学の思考法が向いている。「一切」を知るということも、ありうるだろう。物事を演繹的に見るとき、根本の原理から出発すれば、広がる世界もその原理のもとに制御されるはずである。真理は、がんばれば手にすることができるかもしれない。
(こっちは、まぁ、これでもいいかもね。)

         *********

以上の意見
当たってないわけでもないと思うのですが、
もう少しピタッと決め球をなげたいすよね。

で、これはボツにしました。

でも、びっくりしたことが一つある。
「天上天下唯我独尊」の解釈。

辞典などいろいろ見ましたら、

「この言葉の真意は、つまるところ、
だれであろうと『私という存在』はこの宇宙の中でかけがえのない唯一の存在のだということ。
一人ひとりの命の尊さを示す仏教の教えがこめられていることばなのである」

とありました。

ひぇー!こりゃないですよ。
かなり苦しいいぃぃぃ。
どの人にも「天上天下唯我独尊」があてはまるなら、
みんな「オレが、オレが」の世界になってしまうのじゃないでしょうか?
つまり「私の命が一番大事」という思想ですよね。
ここを起点に、このまま思想展開すると、すごいことになりそうです。

なので

私の書いた文章の中で、一つ真実を突いていたことが判明しました。

「生まれた瞬間から、自分は最高であると述べるとは、なんたる傲慢なことだろうと解釈されてしまうため、仏教徒泣かせの表現なのである。」

うーん、ほんとにこれまで仏教徒泣かせだったのですねぇ…

| | コメント (14) | トラックバック (0)

« 2006年11月19日 - 2006年11月25日 | トップページ | 2006年12月3日 - 2006年12月9日 »