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2006/12/07

仏教は、男女の味方

ココログ・メンテナンスで
しばらく入室できませんでした。

どれどれ、どんなに便利になったかな?
あれ?ぜんぜん変わってない。

な、なんと、メンテナンス失敗したもようですね。
メンテナンス前にもどします、ですって。
管理人!また、おばかなこと考えてない?

ははは、ばれたか。
メンテナンスをメンテナンスした方が、ええかも、って…。

さて、このココログ・メンテナンス中
管理人も、脳みそメンテナンス中でした。

で、
一挙、3冊いきますっ!

スマナサーラ長老さま『ブッダ─大人になる道』
スマナサーラ長老さま・立松和平氏『ブッダの道の歩き方』
玄侑宗久氏『現代語訳 般若心経』ちくま新書

『ブッダ─大人になる道』は、中高生のための仏教書です。
というより、人生を生き抜くための手引き書です。

ふうむ、効くなぁ。
いつもながら、スマナサーラ長老さまは明快です。

それにとても勉強になる。
お経の展開図の作り方を、学んでるのです。

どのように経典のお話を開いて、現代人の悩みに答えるか…
文字通り、展開していく方法を、だんだん学んできましたよ。

たとえば、スマナサーラ長老さまなら、
経典から素材を選んで
しかし
経典であることを悟られずに
自分の話のようにしてお話ができますね。

なんとなくコツがわかってきた。。。
おもしろい!

昔の仏弟子たち、菩薩たち、みんな、
スマナサーラ長老さまのように
経典を 開いて 砕いて 裂いて 割って 練って
わかりやすく話ができたと思う。

すごい能力だよね。

『ブッダの道の歩き方』は対談本。
わたしの興味が、立松氏の興味と少しずれるけど
でも
おもしろいお話がいっぱいだったわ。

スマナサーラ長老さまの解釈の中で、一つだけ
わたしとちがうところがあるのね。

ゴータミー妃の出家のお話。
ブッダは、女性の出家者を認めなかったけど
最後には、アーナンダの取りなしで
比丘尼を認めることになります。

このとき
ブッダは
「女性の出家を認めたから仏教はながもちしなくなった」と
述べたとあるのですが、
これは、ブッダの「しまった」という気持ちから出た言葉だというのです。
詳しくは、ご本をお読みください。

ゴータミーの出家を認めることになったことを「しまった」と
表現していると、スマナサーラ長老さまはおっしゃるのですが、

わたしは、ちょっとここはちがうような感触があるのです。

ここには、 深い 男女の哲学的考察、
っつうもンが必要な気がするのです。

誰も、今まで、考察したことはありませんが

仏教 というのは、 「男女のあいだの不条理」に踏み込んだ 
画期的な宗教のような気がするのです。

けっして、一部でいわれているような 
男尊女卑の思想をもっているわけではない!
と思います。

わたしの意見だからね、
信じるも信じないもあなたの勝手だけど
ちょっとお耳を拝借。

「女性」なるものは、ブッダのアキレス腱だった と思うのです。
なぜなら、ブッダは女ではないからです。

一切智者にして一切に打ち勝った勝者 ですが、
しかし、彼は男性だったのです。これは事実です。
結婚して子どももいます。

渇愛(愛)、執着(取)、生存(有)、生まれること(生)、死ぬこと(死)

この十二因縁の項目は、どれも 男女 ということにかかわります。
(蜂の単為生殖は、この際、虫、おっとっと無視!だから)

苦しみの生まれる道は、男女の仲なのです。
輪廻の原動力は、男女なのです。
男だけ、女だけなら、ぜんぜん輪廻しなくてすむのです。
最初から、解脱してるのです。

ブッダは男なので、論理的に女性のことはわかりません。
女性は、また、論理的に男性のことはわかりません。

互いに互いをわからない男女が、お互いに、関係をうまく構築して、
一緒に解脱の道へと進まなくてはならないのです。
輪廻に向かう道なら、簡単なんだけど…
これは、もう、至難のワザというべきでしょう。

やっぱり、比丘尼の集団を抱え込むことは、ブッダにとって
大きな負担だったにちがいないと思うのです。

「女性を入れなきゃ1000年もったけど、
女性を入れたので正法は500年ですたれる」
というようなことを言っても

わたしはぜんぜん驚かないのです。
やっぱり!そうか!女性はブッダのアキレス腱…フム

で、500年しかもたなかったら困ると思うあなた。

そんなこと心配することないのです。
500年たったら、別のブッダが出てくるのです。
最初は、出てきにくいけど、1回ブッダが出たら
後は、次々教えを聞いて、出てくる人がいるから
心配ないのです。

それより、ゴータミー妃をしぶしぶ出家させたブッダは
男女関係の謎にふれた勇気ある最初の宗教者かも。

男女は、互いに、相いれぬ、異なる存在でありながら、
しかし、力的には互いに引きあい、平等なのです。

以上により結論です。

平等なるがゆえに

ブッダも女性には勝てないのです…
(しかし、これはここだけの話で、内緒です、
彼、一切に勝った者、って言ってますから…
いや、比丘尼を認めたのだから、やっぱり一切に勝ってるかな)

どうかしら?

冴えてるわね。
わたしって、「男女の哲学」には、強いのよ。ふふ。
熱弁ふるうと疲れるわね。

あ、次の玄侑さんの本は、また明日。

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コメント

>「議論の対象」にすぎないなら、「議論する相手」がいないことになってしまうので、みみっくさまの意見は、ひとりごとのようなものになってしまうのでは?と、思いました。
 「動物」が議論する相手ではないからひとりごとになってしまうと言っているのですか?

 それとも「男女平等」が議論する相手ではないからひとりごとになってしまうと言っているのですか?

 議論する相手は、「仏教と男女平等が相容れるものと考える人」と答えればいいんですかね?

 「議論する相手」というイメージがどこからきているのかわからないので返事しにくいですが、「男女平等を議論相手とする」という意味はわからないですね。

 以上です。

投稿 みみっく | 2006/12/13 12:22

春間さま

> 「前視覚野は見たいものだけ見る」もご覧になってください

ディスプレイの設定変えて、読んでみました。ありがとうございます。(やっぱり、ディスプレイ大きいのにしないとダメかしら。「字さえ書ければいいや」って思って小さいのにしてましたけど…)

「見たいものだけ見る」という、このテーマに添った実験そのものが、見たいものだけ見てるような、そんなところが、おもしろいですね。

「作業が熟練する」とは、見たいものだけをいかにすばやく正確に注視できるか、であるようにも思います。ベルトコンベアで通り過ぎる品物をチェックする作業を思い浮かべました。

> 「書」は、墨で埋めた実線の中に表わされるだけでなく
その線の周辺の空間に、
大きな意味を持たせることも大事な要素なのです

文で言えば、肯定と否定にともに同じ価値をおく、というところでしょうか。
空間が意味をもてばもつほど、わたしたちの思想や心の世界は、広がっていきますね。
空間に意味をもたせなければ、ものが支配する世界にわたしたちは囚われていると感じます。

だから、

> 貴方が存在すると感じる、感じたい、空間は、
理念として、心に浮かべば、それは存在するものです

ということになりますね。
これを

> 存在とは、響く、“揺れ”でもあるのです
> 共振すれば、誰にでもわかります
> 網膜に共振すれば、目に映り形を認識に投影します

いかに強く思うかが、“揺れ”を増幅させる要素ですねぇ。
ブッダのチョー強力な“揺れ”は、世界を振動させ、人々を共振させ続けていますね。

龍樹は、こう言っています。「龍樹大好き」の中で書きました。

「喩え」とは、賢者愚者が等しく理解したところで、それから後説明すべきことを説明すべきものである。

賢者が、存在を示す。喩えとして、「賢者が見たいように見た」その通りの“揺れ”を与える。人々は、共振し、その後で、賢者は、説明すべきこと(教え)を説明する。

仏教の世界は、かぎりになく主観を客観的に語りうるし、かぎりなく客観を主観的に語りうる…おもしろいですね、ほんと。

投稿 管理人エム | 2006/12/13 10:10

みみっくさま

> 「男女平等が議論の対象であるように」と補足しておきます。

わたしも、想像と一致していました、と言いたいですが(笑)、そうでもないかな。そうだったら、ちょっと困るかも。

「議論の対象」にすぎないなら、「議論する相手」がいないことになってしまうので、みみっくさまの意見は、ひとりごとのようなものになってしまうのでは?と、思いました。

では、わたしもひとりごとっぽく終わりたいと思います。

投稿 管理人エム | 2006/12/13 09:38

>わたしの思考の流れを、分析してみました。
 内容自体は私の推測と一致していました。

>動物を議論の「相手」としているのか、議論の「対象」としているだけなのかが、はっきりしません。
 わからないのは、何故「議論の相手」が出てくるのかですね。 
 私の意図は後者です。「男女平等が議論の対象であるように」と補足しておきます。

 男女平等の文脈で言うと、

 扱いが同じでも違っても仏教とは関係ない(枝葉だから)が、男女平等とは関係がある(本質である)
 ということですね。

 元々の文章に戻ると、仏教が男女平等と相容れないと考えているのは、「扱いが違う理由」が異なるからです。

 以上です

投稿 みみっく | 2006/12/13 01:56

「前視覚野は見たいものだけ見る」もご覧になってください
類推していくとわくわくさせる ”ネ種” になりますよ

私も存在に対する認識や、現実は、実線で、”輪郭”で
現れるものを、さすわけではないと思います
啻、あそこで、問題にしたいことは、
存在の幾つかのあらわれにより、
あたかも、存在していなかった存在が、現れてくる
という事になるのみなのかもしれません

私は、空海の書を毎日臨写していますが、
「書」は、墨で埋めた実線の中に表わされるだけでなく
その線の周辺の空間に、
大きな意味を持たせることも大事な要素なのです
実物という存在の輪郭を、素粒子の(電気的な?)配列によって
どのように表現していけばよいかと考察された科学は、
私の知るかぎりまだありません
(触れるということは、解明できていない現象です)
太陽系の、惑星が、何処までその輪郭を許容されうるのかは、
実物の世界ではなく、理念の世界でしょう

貴方の、感じる “存在の証” と書の世界は、
少し違う観点なのですが、重要な関連も存在すると思います

また少し違う観点になりますが、
ジャコメッティの彫刻をご覧になったことが有るかと思います
存在とは、凝縮された理念のありようかと思います

貴方が存在すると感じる、感じたい、空間は、
理念として、心に浮かべば、それは存在するものです
存在とは、響く、“揺れ”でもあるのです
共振すれば、誰にでもわかります
網膜に共振すれば、目に映り形を認識に投影します

これらの並列することは、
瞑想の世界にあっては、“ そっと ” 置かれているのですが
鋭く放射されているともいえるのです

PS: パソコンのディスプレイが何インチかは知りませんが、
全部表示したいのであれば、コントロールパネル
>画面のプロパティ(画面解像度)>ピクセルの選択
で表示変更できます ただし、大きなピクセルにすると
表示項目は小さくなりますが、>詳細設定>DPI変更で
多少対応できます 根本的には、大きいディスプレイを使えば
解決するのですが 

投稿 春間 則廣 | 2006/12/12 15:16

春間さま

大丈夫です。行けました。
ありがとうございました。

「存在しない線に反応する細胞」を拝見。
じつは、なさけなくも、わたしのパソコンの画面では、ぜんぶ表示できません。
スクロールするのがたいへんで、なかなか集中できませんでしたが、一つ、おもしろいなと思いました。

「白い三角形は、存在しません」とありました。

もう、ここで、突っ込みたくてたまりません。うずうずです。
黒い線でかこんであれば、「存在して」、白く浮き上がって見えれば、「存在しない」

…これは、言葉の定義にすぎない、そのように言うだけだと、主張することもできますね。

「存在する」 とは?

「ものは有る」 のか? 「無い」 とは?

おもしろいなぁ! 
思わずブッダのことを考えてしまいます。彼は、「無い」を語れる!

> これは、カフカの世界ですか ?

そうです!『コウモリであるとはどのようなことか』はトマス・ネーゲルの論文です。勁草書房から訳者永井均氏で出ています。

投稿 管理人エム | 2006/12/12 11:06

みみっくさま

ええと、こうです。

みみっくさまは、次のように言っているように思いました。
「人と動物は本質同じである、扱いが同じでないことに文句を言わないから。

(おなじように、
男と女も本質は同じだ、
だから、扱いが同じでなくても文句言ってはいけない、枝葉だから)」

(  )の中は、話のわかる(?)わたしの想像です。
このように読んだので、「扱いが同じでないことに文句言わない」のは、「人」というより「動物」だろうと思って、「動物も文句言いたいかもしれない」といいました。
みみっくさまは、「動物は文句言う、人は文句言わない場合がある」といいました。また、「生まれ変わるから本質は同じ」とも。

わたしは、文句言ってる場合の例は、みみっくさまの主張を阻害するので、大事だろうと思って、文句言う動物に「生まれ変わるかどうか、意見を聞いた方がいいのでは?」と言いました。

みみっくさまは、動物も人と同じ資格で議論に登場させているようなので、わたしはこのように言いました。
動物を議論の「相手」としているのか、議論の「対象」としているだけなのかが、はっきりしません。

わたしは、前者かなと思いました。

わたしの思考の流れを、分析してみました。

投稿 管理人エム | 2006/12/12 10:24

エムさんヘ

>>  本質が同じとする理由は「生まれ変わることができる」なんですけど。
>
>この点で、動物と、見解の一致を見る必要がありますね。動物も輪廻思想をもっているかどうか…。もっていれば、「本質同じ」とする根拠が出てきますけど。

 よく意味がわかりませんが、輪廻思想を持つ人と持たない人は本質が同じではない。と言われているのですか?

 輪廻思想を持たなくても輪廻はすると思うんですが。
 つまり本質が同じであるから相互に移行可能であるということです。条件はありますが。

春間さんへ

>>この辺り何が言いたいのかよくわかりません。

>そう思いながら、敢えて飛躍を綴りました
 私の文章を誤読したのではないとすると、そもそも私の文章への反論ではなかったということですね。何故男女平等との関係について言及されているのかがまだわかりませんが、「敢えて飛躍した」ということは了解しました。
 感想としては論理の飛躍は推測で埋めることができますが、テーマの飛躍は混乱の元じゃないかなあ。
 まあこの場合は説明の省略(論理の飛躍)と話題の展開(テーマの飛躍)というべきでしょうが。
 話題を広げるのは構いませんけど、反論なのか別の話題を振っているのか判別しにくいのでレスを期待されているのでしたら配慮をお願い致します。

 以上です。

投稿 みみっく | 2006/12/12 00:45

すみません うまくジャンプできないようです

http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/brain/brain/index.html

コピー&ペーストでアドレスに貼り付けて
行ってみてください

目次の中から
 - 目標を選択する細胞
 ー 存在しない線に反応する細胞

などを覗いてみてください

投稿 春間 則廣 | 2006/12/11 22:52

エム 様

外してすみません ( でも面白いですよ )

京都大学霊長類研究所  脳の世界

http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/brain/brain/index.html  
などや

http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/brain/brain/index.html  
なども関連していると思います

他にも、記事があったと思いますが、色々読んでみてください

>ある朝、突然虫になってしまったら、どんな意思表示をするんでしょうか

これは、カフカの世界ですか ?

投稿 春間 則廣 | 2006/12/11 21:37

みみっくさま

>> それに、扱いがちがうことをもって、本質が同じともいえません。「本質が同じ」とする理由は他にいるでしょう。
>  本質が同じとする理由は「生まれ変わることができる」なんですけど。

この点で、動物と、見解の一致を見る必要がありますね。動物も輪廻思想をもっているかどうか…。もっていれば、「本質同じ」とする根拠が出てきますけど。

わたし「来世は何になりたい、犬でいい?」
ぽち「いいワン、ワン」

なんてね。

> 「扱いが違っても本質は同じ」って言いたかったんですけどね。

やっぱり、その理由がいりそうですけど。

投稿 管理人エム | 2006/12/11 16:54

春間さま

ちょっと、というか、だいぶはずしているような気はしますが、わたしもはずせば、大丈夫です(笑)。

マリアン・S・ドーキンズ女史は、象の会話を研究してる人でしょうか。アフリカ象が、低周波(?)の音を出して会話している、という調査研究をテレビでやっていました。

このとき、子象は「あっちに行こうよ」と誘っていますとか、こっちの象は「いやだよ」と意思表示していますと、説明してくれていました。
それ見ていて

> 「人間のこころが、じっさいには何も存在していないところに、自分が観たいと「望んでいる」というだけの理由から、関係と一致を見出してしまう」111p

わたしは、この文のような気持ちがしてきました。ホントに、象は、そう言ってる(?)って、どうしてわかるんでしょう、って。

子どもの頃、芋虫がキュ~ンと身を縮めるのを見て、「くすぐったいって、笑ってるね」といったら、「嫌がっているんだから、触るのやめなさい」と言われました。
どっちだ?

どんな人も、自分の体験からしか、ものを見ることはできないでしょうか。
「コウモリであることはどのようなことか」、わかるでしょうか。
ある朝、突然虫になってしまったら、どんな意思表示をするんでしょうか。

> 「私達の頭脳はパターーンを検出するように進化してきた。パターンが無い場合にも検出しようとする」115p

> と述べています 

あたっているかもしれない。しかし、そのことは、どうやって証明できるのでしょう…。

投稿 管理人エム | 2006/12/11 16:43

エム 様

>人と動物の扱いを比べると、人は自分の好きにしてるから、文句言わないでしょうけど、動物は文句言いたいのかもよ。
飼い主とペアルックのわんちゃんは、うれしいのかうれしくないのか、よくわからないです。「動物園の白熊は、誕生日に氷と果物のケーキをもらってうれしいのか?」、「ゴリラは?」いろいろ考えられますよ。ゴリラは檻の中で嫌がってるようにみえるな。
それに、扱いがちがうことをもって、本質が同じともいえません。「本質が同じ」とする理由は他にいるでしょう。

永戸豊野は、動物たちは、会話するとしています
鳥に方言も見出しています  「動物達はこうして会話する」河出夢新書

一方、マリアン・S・ドーキンズは、その著書「動物達の心の世界」(長野敬訳 青土社)の中で、

「人間の意識経験だけが唯一究極の経験の仕方であるというような狭量な擬人主義を捨て、意識の完全に新しい領域を発見するという、はるかに興奮を呼ぶ展望に対して率直にならなければならない」31p
「人間のこころが、じっさいには何も存在していないところに、自分が観たいと「望んでいる」というだけの理由から、関係と一致を見出してしまう」111p
「私達の頭脳はパターーンを検出するように進化してきた。パターンが無い場合にも検出しようとする」115p

と述べています ( 一寸、的を外したでしょうか ? ) 

投稿 春間 則廣 | 2006/12/11 13:30

みみっく 様

>この辺り何が言いたいのかよくわかりません。

そう思いながら、敢えて飛躍を綴りました

>>ここをどのように読むかは、受け取る者の課題でしょう

読みとらないときは、課題は発生しませんし、
噛み砕いたところで、課題は、読み取らない人には無いのでしょう

平等という概念は、対機なのです、ここに縁起があります

等しく求めるものを受け取るという切り口でも
”求めるだけ与えられている(得ただけ、求めていた)”という概念も平等であるし、
”求めるかぎり与える”というのも平等です
“求めていない人”にも与えられるのが平等でもあります
しかし、
そもそも、誰が求め、何処から与えられるかは、規定できないことなのです
求めるものが何かは、求める人が知ることは出来ません
翻って、 人は、無い(?)物を求めるのだし、
”ないものねだり”という言葉は、使い古されているほどです
何故、無いのかは、一つの問題ですが、、、

釈迦牟尼仏陀が、、ヴァーセッタにジャーティーでの平等と、
有情の種の間の違いを並べた(と残されている)かは、
わたしにとってなかなか捉えがたい問題です
行為は、名称を冠して認識されます
言い換えると、認識は、行為の積み重ねの象徴です
形態は、行為の特性の表象と言い得ます(認識の根源です)

飛躍しますが、ここにおいて、
ガンディーとアンベドカルのハリジャンに対する
認識の相異が現れるのです
これは、瞑想と論理の乖離の実例として捉えたいと思います
どちらも正しい、同一の方向を向いているのだけれども、
現れる、言葉は、受け取るものの認識に深く束縛されるのです

正しい論理は、全てを包含していきますが
表わす技術は、人によるのです(これが縁起です)

真宗の曽我量深は「わが宗では、それを、このように言う(受け取る)」と
他宗の理を認めます
しかし、そこには、論理としての、“量”が伴うのです
その時に商量されうる立場から、価値を同一と認め、
“種の個性”を認めることに繋がるのでしょう
(ここに“多い“章の600以下の句が依るのでしょう)

男女間の社会に於ける違いを、平等という概念から捉えるのは、
非常に難しい切り口です
能力というものでさえ、ハードとしての違いは無いのですから
ソフトを働かせるソフトはハードの特性です
その特性でさえ、ソフトの選択によってしか成り立ちません

平等は、私の心にあり、貴方の心にあります

表わし方は、ちがっていても、、、、

投稿 春間 則廣 | 2006/12/11 11:20

エムさんへ

>みみっくさまは、「理論」というより「現実」を重視しているのですね。
>それは、わからないでもないですが、「理論」重視の管理人としては、わずかな「違い」が、ホントに「わずか」か「本質的」かを見極める必要があるわけです。
 わずかな違いが本質の違いなのか枝葉の違いなのかは見極める必要があると私も思いますよ。

>ブッダの、女性出家のときの態度は、明らかにおかしいです。あれだけ理論で押してて、管理人を平伏させておきながら、「ここでこれはないでしょ」っていう反応なんですよねぇ。「理論的に」なんかあるんじゃないかと、「やっぱり」思ってます。つきとめたいですね。
 女性出家に対する態度に注目するのは当然だと思います。大雑把に言うと、ブッダの教えに基づく違いと考えるのか、ブッダを取り巻く当時の環境に基づく違いと考えるのかということだと思います。私はブッダを取り巻く環境に基づく違い、つまり枝葉であると考えているということです。「天上天下唯我独尊」を枝葉であると考える私と本質が隠されていると見るエムさんというのと同じ構図ですね。

>「功徳」については、よく理解できません。うまく理屈が飲みこめませんが、拝聴します。 
「功徳」という言葉を使ったのはちょっと安易でしたかね。混乱の原因になっているような気がします。わかりやすいかと思って使ったんですけど。
 
>みみっくさま、これおかしい!です。人と動物の扱いを比べると、人は自分の好きにしてるから、文句言わないでしょうけど、動物は文句言いたいのかもよ。
 動物は扱いがひどいと文句言いますよ。人間でも扱いがひどくても文句が言えない人もいます。
 
>それに、扱いがちがうことをもって、本質が同じともいえません。「本質が同じ」とする理由は他にいるでしょう。
 本質が同じとする理由は「生まれ変わることができる」なんですけど。
「扱いが違っても本質は同じ」って言いたかったんですけどね。


春間さんへ
>功徳は、釈迦牟尼の出現の時には、説かれない仏法です
 エムさんへのレスにも書きましたけど「功徳」という言葉はわかりやすいかと思って使ったんですけどね。
「500年か1000年か」が本論ですから。「功徳という表現」は枝葉です。

>大乗の中で、菩薩の行によって積み重ねられるもので、不増不減です、無量不思量です

>五百年、千年は、彼の頃のインドでは、問題にしない時の概念です
 これらを認めると今までの議論が全て意味のないものになるような気がしますね。
 つまり「女性の出家が仏教に影響することなどない」という結論になると思います。
 
>他の生き物には違いがあるが、人には生まれによる違いがない
>と、阿含には説かれていますが、問題の多い箇所です

(中略)

>ここをどのように読むかは、受け取る者の課題でしょう
>
>「男女平等」とは、ここに、どう関わるのでしょうか
 
 この辺り何が言いたいのかよくわかりません。
 男女平等とは異質であると私は書いています。つまり「関わらない」という解釈で構わないのですが。
 
 以上です。

投稿 みみっく | 2006/12/11 04:31

> ブッダの教えそのものは受け継がれてもブッダの出現による功徳は確実に消耗し、いずれは末法の世となる。
だから弥勒菩薩(新たなブッダ)が世に出ないと独力で悟る人は滅多にいないということだと思います。

功徳は、釈迦牟尼の出現の時には、説かれない仏法です
(プーニャとみても同じことです)
大乗の中で、菩薩の行によって積み重ねられるもので、
不増不減です、無量不思量です  (百歩退いて)
草を食む、雄牛のごとくその肉は増しても、智慧は増すことなからん
では無く、(仏法を求める)智慧と共に増すものでしょう

ここで法華経の方便を思い起こすことが大事でしょう
たとえ といったほうが適切かもしれません
化城の方便、火宅の譬です
母の名さえ残されぬ、彼の国の中で、
仏法を求めることの妨げは、(社会の)煩悩としての、積み重ねた仕組みです
基本的な、修練は、なるべく妨げの無い環境で修行されなければなりません
瞑想の行われる地の選定と同じ仕組みです
煩悩は、心と共にあるといっても、現れ方があるのです
抑える手立てもあるのです
それらの説法が、いつ、誰に向かって、説かれているかを
主体的に捉えることが必要なことです
仏法は説かれる時は、対機説法なのです
自らの機根を、見つめることが、ディーパであり
受け止めるということは、雄牛のごとくではならぬ、と説かれています

存命中の記録と、その理念を勝手に解釈したものとを
混同する事を避けることは難しいことです
五百年、千年は、彼の頃のインドでは、問題にしない時の概念です

> 生けるものはみな平等であると考えれば男女くらい平等に決まっています。
でも男女平等はこれとは異質な思想だと思います

他の生き物には違いがあるが、人には生まれによる違いがない
と、阿含には説かれていますが、
問題の多い箇所です
カマキリと、ミミズを間違える人は滅多にいません
柴犬の顔は、皆同じように見えます
同居人であるわたしでさえ、見分けることが困難な時もあります
日本人の顔は、全て個性に彩られていることは、日本人であれば、誰でも認めることです
人間違いは、滅多にありません

ここをどのように読むかは、受け取る者の課題でしょう

「男女平等」とは、ここに、どう関わるのでしょうか

思想、論点の違いを認める問題意識もあれば、
本質的な、問題を捉える、意識もあるということです
(煩悩の根は、一つにまとまっているということです)

投稿 春間 則廣 | 2006/12/10 10:15

みみっくさま

また、少しずつ問題がずれていっているような気も…。

> ここが本論だと思うのですが、悟りの手段は男女でわずかな違いがあっても悟りの実態には違いがないのであれば別に問題ないんじゃないでしょうか。

みみっくさまは、「理論」というより「現実」を重視しているのですね。
それは、わからないでもないですが、「理論」重視の管理人としては、わずかな「違い」が、ホントに「わずか」か「本質的」かを見極める必要があるわけです。
ブッダの、女性出家のときの態度は、明らかにおかしいです。あれだけ理論で押してて、管理人を平伏させておきながら、「ここでこれはないでしょ」っていう反応なんですよねぇ。「理論的に」なんかあるんじゃないかと、「やっぱり」思ってます。つきとめたいですね。

「功徳」については、よく理解できません。うまく理屈が飲みこめませんが、拝聴します。

> 人間も動物も本質は同じなのです。でも、扱いが同じではないことに文句を言う人がいるでしょうか。

みみっくさま、これおかしい!です。人と動物の扱いを比べると、人は自分の好きにしてるから、文句言わないでしょうけど、動物は文句言いたいのかもよ。

飼い主とペアルックのわんちゃんは、うれしいのかうれしくないのか、よくわからないです。「動物園の白熊は、誕生日に氷と果物のケーキをもらってうれしいのか?」、「ゴリラは?」いろいろ考えられますよ。ゴリラは檻の中で嫌がってるようにみえるな。

それに、扱いがちがうことをもって、本質が同じともいえません。「本質が同じ」とする理由は他にいるでしょう。

と、問題の本質はどんどんはずれてしまいましたけど、この辺で。

投稿 管理人エム | 2006/12/10 09:54

>>  この前提だと、「前世での経験は智慧によって実感できない」ということになってしまうと思うのですが。

>問題点が、いくつか重なってしまったかもしれません。
 これはその通りだと思います。

 私の意図としては、「前世での経験は役に立たない」という説明への疑問であり、「ブッダが女性をわからない」には波及しないと考えています。つまり本論への反論ではないということですね。枝葉部分での指摘です。

>発端は、「ブッダは女性をサンガに受け入れるのを最初拒んで、受け入れた後、グチっぽいことをこぼした」という点なので、その点を考察して論理的に答えを出そうとすると、ブッダは女性ではなかったから、ということが理由になるだろうと思ったのです。
 ですから、この前提は受け入れた上で発言しています。

>> もしブッダが女性を「わからない」から仏教が女性の出家を受け入れがたかったのだとしたら女性のブッダが現れれば問題は解決するように思います。

>理屈から言えば、そうなりますね。でも、うーん、仏教の教えはかくじつに小粒になりますね。
>仏教の教えは、男女を超えたところにあることになってるんですよね。
 ここが本論だと思うのですが、悟りの手段は男女でわずかな違いがあっても悟りの実態には違いがないのであれば別に問題ないんじゃないでしょうか。つまり現在地が違うと道順の説明は違ってくるが目的地は一緒だということですから。
 
 女性の出家を受け入れがたかった理由は、功徳が減るからだと私は思っていましたが。つまりブッダが現れたことにより多くの人が悟りを得られることになったが、女性の出家を受け入れると、そのエネルギーが消耗し、より少ない人しか悟りに至れなくなってしまうということです。 まあこの説明を受け入れると女性は男性より救われがたいということになりかねないんですけどね。人数が2倍になると期間が半分になるということなので、悟りやすさは男女で同じだと解釈することもできますが。
 
 ブッダの教えそのものは受け継がれてもブッダの出現による功徳は確実に消耗し、いずれは末法の世となる。だから弥勒菩薩(新たなブッダ)が世に出ないと独力で悟る人は滅多にいないということだと思います。

>> 仏教と男女平等は相容れない考えだと思うんですけどね。
>
>思いっきりストレートなご意見ですね(笑)。それも、ありか。 
 異性に生まれ変わることもあることを考えれば本質は同じなんですから枝葉の問題だと私は思いますけどね。「人を見て法を説いた」というだけのことだと思います。悟れるかどうかが問題なんであって扱いは同じでなくてもいい。そもそも平等に扱って欲しいというのは煩悩になるんじゃないでしょうか。

 人間も動物も本質は同じなのです。でも、扱いが同じではないことに文句を言う人がいるでしょうか。同じことだと思いますけどね。生けるものはみな平等であると考えれば男女くらい平等に決まっています。でも男女平等はこれとは異質な思想だと思いますけどね。
 以上です。

投稿 みみっく | 2006/12/10 03:39

えび天サンバさま

ご丁寧に教えていただいてありがとうございます。

そうだったんですか。あの簡潔な数行の中に、これだけたくさんの内容が含まれていたんですね。すごいです。

すごく考えて、大海の喩えも、この戒の喩えの他にもあったので、どれがぴったりくるかしらと悩みましたが、ぜんぜんわかりませんでした。
えび天サンバさまのスケールの大きな話を拝読して、やっぱりいくら考えてもわからないはずだと納得!器がぜんぜんちがってました(笑)。

> 悟りを目指す、本質的に平等である男性と女性(夫婦)が世代を超えて教えを継承し、家族から近隣社会、そして国家へと悟りの共同体を拡大、構築していくためのダルマ(法)、これを称して大乗というのではないか?

壮大ですねぇ。ブッダがめざしたのは何だったのか、具体的にはわかりませんが、しかし、えび天サンバさまの理想国家も、すべて「幸せに向かう道」ですから、ブッダの理想と相通じていますよね。
悟った人(ブッダ)は、ぜんぶの人の理想を胸の内におさめてるんですね。
夢のあるお話、ありがとうございました。

投稿 管理人エム | 2006/12/09 19:57

エム先生、こんにちは。

私が考える七歩のお話の出所としては、手元にある借り物の本、『仏教説話体系21 阿含物語(一)すずき出版(1984)』に出ていたP.83「戒の教え(アングッタラ二カーヤ8・2)」からの推理なのですが、「大海には八つの清浄な徳があり・・・」と説かれるものの内の七番目、「大海には真珠やさんご、金、銀そのほか多くの宝が蔵されている。だから阿修羅たちはそこをよき住みかとすることができるのだ。同様に、仏の戒の教えの中にはさまざまに整理された修行方法という尊い宝がいっぱい詰まっている。だから修行僧たちは、この戒の教えを守って安心して修行に励むことができるの(P,88二行目~五行目)。」というものです。

出家者のみの集団であれば、世代的な継承ということは現在のチベット他、古来のわが国でも同様に、お寺に預けられた子供に仏教教育を施し、後継者とするという方策をとるということになりますが、在家信者であればそういうことを考えなくても、子々孫々、仏教の教えを継承していくことは、原理的に考えれば可能です。

キリスト教にはパウロに見られるように天上の秩序と地上の秩序を分ける二王国論という考え方がありますが、法権力(経済)関係から考えますと(これは橋爪大三郎氏や小室直樹氏等の論文からの示唆によるものですが)、釈尊のサンガ共同体は当初、男性のみであったということは釈尊が男性であったから、ということもありますが、経済・権力関係を男性が当然のように支配していた時代にあって、例えば女性が悟りを開いて教えを宣揚したというようなことがあっても、歴史の舞台上には上ることはなかったのではないかと考えられます。

当時の釈尊の政治的背景を考えますと、新興諸国家の興隆の中にあって、シャカ一族にも存亡の危機があらかじめ予想されていたのではないかと思われます。そのような中で釈尊の取った道筋は、一族郎党を救済するための宗教共同体を構築することではなかったか?というのが私が考えるプロットなのです。無一物で乞食(こつじき)のカースト超越的無階級集団(共同体)が政治的に危険とはならないであろうことは想像に難くないと思われます。しかしこれは当時の状況から釈尊が見いだした救済の方策というにとどまらず、個人が結婚を通して家族経済を牽引していく段階で、仏教の教えを継承する道筋も、ラーフラを始祖とする大衆部を筆頭に考えられたであろうと考えることはそれほど奇異な考えではないのではないでしょうか。

悟りを目指す、本質的に平等である男性と女性(夫婦)が世代を超えて教えを継承し、家族から近隣社会、そして国家へと悟りの共同体を拡大、構築していくためのダルマ(法)、これを称して大乗というのではないか?というのがSF好きな妄想家の見解です。

投稿 えび天サンバ | 2006/12/09 16:05

学生Aさま

たのしい突っ込み、どうもありがとうございました。
また、遊びにきてください。

物議をかもす日記というのも、いいもんですねぇ(自分で言うなっ!)。失礼しました。

投稿 管理人エム | 2006/12/09 13:46

春間さま

> 女というものを考察する必要があるでしょう

苦・楽のように、男と対になるものとして考えるという見方もありますね。そうなると、男が消滅すると女も消滅してしまう。

> (そもそも、私という存在の不確かさは何処へ行ったのか)

男女が消滅すると、この私という存在が、あらわれる、あるいは、一緒に消えていくことになりますか。

> 男と女の規定は、不要のものでしょう、、、
> それぞれ、それであり続けるのだから

縁起・空性ですね。そこまで行くと、安心立命の境地ですね。

> 女性がアキレス腱に存在していたとは驚きの発見です

そうですか!わたしは、ブッダにアキレス腱があるのが驚きの発見でした。頼みますよ、ブッダさま、どっきりさせないで。
また、女性は、カメでもよいのです。アキレスは、カメを追い越せないのです。アキレスが超えられるのは、カメを忘れたときかな。

> 但し、受け取る側のアキレス腱ならば、
> “男女平等”の概念は、正しいこととなるのでしょうね

そうですね。男性も女性のアキレス腱にいます。

それと、法も輪廻するのは、本当ですね。わたしたちが輪廻しているかぎり、法も輪廻してますね。

投稿 管理人エム | 2006/12/09 13:37

ここらへんで退散させていただきます(笑)。日記を時々見させていただいており、楽しんでいます。これからも面白い日記をよろしくお願いします。

投稿 学生A | 2006/12/09 13:23

えび天サンバさま
興味深いお話、ありがとうございます。理想国家ですか。。。国政には興味を示さなかったということも経典にありますが、でも、「理想」国家となると、また、理念的に理想は描けますよね。
もう少し詳しくお話ししてもらえますか。七歩のお話。わたしは、ジャンブ州を含む7大陸を股にかけるってことかな、なんて単純に想像してました。

みみっくさま

>  この前提だと、「前世での経験は智慧によって実感できない」ということになってしまうと思うのですが。

問題点が、いくつか重なってしまったかもしれません。
発端は、「ブッダは女性をサンガに受け入れるのを最初拒んで、受け入れた後、グチっぽいことをこぼした」という点なので、その点を考察して論理的に答えを出そうとすると、ブッダは女性ではなかったから、ということが理由になるだろうと思ったのです。
で、「智慧によってそのことはわからないことなのでは?」と述べたのは、もし、わかったら、比丘尼用の特別の八重戒(学生Aさまの答えに一つ例があります)を設けたりしないだろうとも思ったからです。智慧によれば、衆生にひとしく苦しみがある、と見るのではないでしょうか。どうでしょうね。
論理的整合性を保とうとすると、こういう答えになるかなというところです。

で、また、「前世の経験」ですけど、「過去を見通す力(宿命通)」は、禅定の修行によって得られると思うので、「智慧によって」見ることができるかどうか、ちょっとわかりません。
仏弟子たちがスシーマという遊行者にそういうことを問われて、「自分たちは過去を見通すことはできない」と答えているくだりがあります。
「はじめに法に住する智慧があり、次に涅槃に向かう智慧がある」と説かれています。だから、智慧の働くのは、ちがう側面かな。

> もしブッダが女性を「わからない」から仏教が女性の出家を受け入れがたかったのだとしたら女性のブッダが現れれば問題は解決するように思います。

理屈から言えば、そうなりますね。でも、うーん、仏教の教えはかくじつに小粒になりますね。
仏教の教えは、男女を超えたところにあることになってるんですよね。
わからないですねぇ。どうすればよかったのでしょうか。

リセットして時代をもどして、女性を文句なくサンガに入れてたらどうなったか、もう一度歴史を新たに再現してみたいですね。仏教は、存続できないでしょうか。うーん。

> 仏教と男女平等は相容れない考えだと思うんですけどね。

思いっきりストレートなご意見ですね(笑)。それも、ありか。

投稿 管理人エム | 2006/12/09 12:56

学生Aさま

さらなる突っ込みありがとうございます。お、他にもたくさん突っ込みがきちゃったです(笑)。
教えは「衆生」に向かって説かれ、実践修行は「男女」を区別するという点で、微妙にずれが見られるのが、不思議なのです。これが、アキレス腱と思うところです。

三度請われて比丘尼をようやく受け入れますが、それはそれでよいのです。これは、わかる。

「苦しみ」は、ブッダ自身も体験済みだから、逃れる方法を見つけたと思うんです。なんか経典読んでると、ブッダってお産も体験したんだっけ、って思ってしまうところまであるのが、コワイです。だから、医者であるというのはいいんです。

わからないのは、八つ、戒を女性用に増やして「年長の比丘尼も本日具足戒を受けた比丘に敬礼しなさい」というような戒を設けることです。ここに、男尊女卑を見る人もいるかもしれませんが、これは、おそらく女性保護の観点だろうと思います。このあたり、もう微妙です。

それも、まぁ、いいか、現実的対応という点からすると、仕方ない、というのかもしれませんが、現実が出てくると論理が引っ込んじゃうんですよね。

この戒律見てると、いやぁ、ブッダって男性だったのかぁ、という思いもよらない感慨がわきます。女性は守るべきという感覚はどうしても抜けないんだなぁと思ったりするのです。んで、「女性はブッダのアキレス腱」という言葉が浮かぶというわけです。

次です。お、伝家の宝刀が出てきちゃいましたね。ブッダの教えが実践できるあいだは、『仏陀が現れた時期』という考えからすると、いまも「ブッダのいる時代」でしょうね。この考えでは、めぇ~ったに、ブッダは出ませんね。学生Aさまの説はこちらですね。
わたしが思ったのは、大乗的な発想かもしれません。ブッダは涅槃に入って、法だけが残された…という考え方だと、法を何とか守ろうと必死になるんです。500年で正法が終わると聞けば、絶対500年たったら誰が出ます。(煩悩ないから自分の名前いうの忘れるかもしれませんけど(笑)。正式には、ブッダではない、といわれると、何とも言えないですが、わたしの目にはブッダに見えますので、勘弁よ。)
というのは、わたしですら、そう思ったからです。ぜんぜん仏教専門でなくても、「こりゃ、すごい法だから、何とかわかったこと書いとかなきゃ。はずれてたら無視されるだろうし、あたっていたら役に立つ。もしかりに役に立つなら、書いた方がいい」というわけです。法の威力です。誰も言ってない法なんですから、完全に失われたら、次誰が見つけてくれるかわかりません。
法は筏で、渡ったら捨てるのですが、地球資源を考えると、リサイクルしないとね。何度も使えるのです。次の衆生が順番待ちしてますので。

次ですが、あら、ホントに、そのまんま突っ込まれました(笑)。ここは、学生Aさま、雰囲気読んでほしいなぁ。「渇愛」の中の大きな要因が「男女」ということでどうでしょう。
けっこう、がんばりましたです。

投稿 管理人エム | 2006/12/09 10:58

女というものを考察する必要があるでしょう

遺伝子の違いから来る形状の小さな違いか、(大きいか)
もたらされるホルモンの多寡にしか過ぎないともいえます
有性生殖と無性の違い  などを
おおきな違いと見るか、小さく見るか
ここにも、“ 縁起 ”は見出せます
子を産ませる女の存在もある(という見方も存在する)
(女としての意識、自覚は何に由来するのか)
(そもそも、私という存在の不確かさは何処へ行ったのか)

釈尊の観た、「 苦 」とは、何 か
対比させる、貴方の「 苦 」とは同一のもの か
その用いる概念の「輪廻」と「解脱」の根拠はどこ か
そもそも「解脱」を知らぬ存在が「解脱」を語る不可思議、、、

男と女の規定は、不要のものでしょう、、、
それぞれ、それであり続けるのだから

負担という概念を使用するのなら、
比丘にも比丘尼にも“ 等しく平に ”存在します

女性がアキレス腱に存在していたとは驚きの発見です
但し、受け取る側のアキレス腱ならば、
“男女平等”の概念は、正しいこととなるのでしょうね

仏法は、釈尊のものではなく
受け取る人のもので、
5百年たてば、入れ替わりもあるのでしょうか
「 法を見るものは、我を見る 」
「 我を見るものは、法を見る 」
ということで、法は、輪廻するのでしょう

( 我とは、私のことであり、貴方のこと )


投稿 春間 則廣 | 2006/12/09 08:05

 ちょっと疑問です。

>女性であることは、この場合、ブッダは今生ではなったことがないので、わからないだろうと思うのです。この「わからない」というのは、「智慧によって実感できるということはない」ということです。
 この前提だと、「前世での経験は智慧によって実感できない」ということになってしまうと思うのですが。
 
 もしブッダが女性を「わからない」から仏教が女性の出家を受け入れがたかったのだとしたら女性のブッダが現れれば問題は解決するように思います。ブッダが500年程度のサイクルで出てくるのであれば女性のブッダも期待していいように思いますがどうなんでしょうか。
 
 仏教と男女平等は相容れない考えだと思うんですけどね。
 女性も悟れるんだからそれでも別に問題はないと思います。

 以上感想でした。

投稿 みみっく | 2006/12/09 03:07

構造的(論理的)なエム先生のご意見に通じるものがあるかも分かりませんが、七歩歩いたお話、あれは私、大海の喩え、八つの戒を説いた七つ目の教えのことを言っているのではないかと思っているのです。カーストを否定したブッダは実は理想国家を目指してたんではないでしょうか?個人から国家を作る道筋を示したように思えてなりません。大衆部の教えが大乗、そして密教へと展開したということがあるとすれば、それはブッダの教えの世代的継承の結果であったのではないか?妄想錯誤真っ盛りのサンバ野郎の見解でした。

投稿 えび天サンバ | 2006/12/08 21:00

では、お言葉に甘えて文句つけますよ(笑)。

女性である事をブッダが「論理的に」分からない、という事ですが、マニカナさんが「さすがに本人じゃないから体験はできないでしょ」と説明するならば別に反対しません。そうかもしれませんね。でもそれはあまり問題にならないですよ。だって、ブッダは「苦しみ」を取り除く医者だから、その人そのままの痛みを感じる必要は無いですから。ちゃんと治療法が分かってたら問題ないですからね。

 次行きます。500年経ったらブッタが現われてたなら、自分でまたそれ公表してますよ。もしかして、「独覚」のことを言っているならば、その人は別にみんなに教えを説くないでしょうから、見つからないかもしれませんが。参考までに、テーラワーダ仏教協会HPのパティパダー巻頭法話(97)をご覧ください。結構稀な機会みたいですよ(笑)。仏陀の出現。

 で、次行きます。「苦しみの生まれる道は、男女の仲なのです。輪廻の原動力は、男女なのです。男だけ、女だけなら、ぜんぜん輪廻しなくてすむのです。最初から、解脱してるのです。」おぃぃい!まてぇい!突っ込ませていただきました(笑)。
輪廻の原動力は「渇愛」でしょう。男女の仲に働くあれやこれや(私にはとうてい計り知れませんが)が無くても、輪廻しますよ。渇愛がある限りは。欲も分類されて、一般人が持つ欲のレベルを脱出しても、無色界への欲とか色々なレベルの欲がありますから、完全に渇愛を消さないと輪廻しますよ。

ふう、がんばって文句つけました。お手柔らかにお願いします(笑)。

投稿 学生A | 2006/12/08 19:54

学生Aさま
ようこそ!話に乗っていただいて感謝っです。うずうずしてたんですよ、話したくて。
話さないから、じゃ、なかった、放さないから(笑)、ガマンして聞いてください。

他心通ときましたか。
ここは「論理的に」というところがポイントです。「構造的に」でもいいんですけど。
他心通でわかるのは、その人の心ですよね。ブッダは、ゆれる女心はわかるのかもしれません(ホントか?)が、女性というものを知ることはできないと思うのです。なんというか、外から観察することはできますが、他人の痛みを自分の痛みとして痛むことができないようなものです。
で、痛い思いなら、経験したことがあるでしょうけど、女性であることは、この場合、ブッダは今生ではなったことがないので、わからないだろうと思うのです。この「わからない」というのは、「智慧によって実感できるということはない」ということです。つまり、「知る」ということは「(そう)なる」ことだということです。主知主義的なんです。
ここで反対されると、もうどうしようもないんですけど。反対しないで(笑)。
前世でなってるかもしれないけど、それは、今回「なし」ということでいきます。

けっこう考えたので、マジなんですよ。十二因縁なり、四諦なり、さまざまなブッダの教えには、男女の区別はなくて、「衆生」「有情」「生類」などが使われていますよね。男女の差を問題にしないところで、普遍性が出てくるんだと思うのです。すばらしい思想です。

で、現実は、というと、ブッダは「来たれ見よ」と人々に教えを説き、サンガが生まれました。執着のもとを断つため出家を勧める、その原因の大なるものは、よく見ると「異性」なんですよね。はっきり言わないけど。。
だからこそ、清浄行を行うサンガは、比丘だけだったのでしょう。そこに、女性が入ってきたら、何にもならん。。。です。今までの苦労が水の泡、、というものです。悟っちゃってればいいけど、修行中ですからねぇ。

そういうことを考えると、女性の出家を認めるというのは、ブッダの思想にかかわる根幹の問題のような気がします。それで、「構造的」と述べました。

で、ブッダは、えらいと思います。渋ったけど女性を入れました。「アキレス腱をもたない思想は、思想ではない」とも思います。アキレス腱のない思想は、ドグマといわれるのじゃないでしょうか。

次にいきます。「ブッダはめったに出ない」の問題ですね。そうですね。何人いるんでしょうか。過去に、ヴィパッシンというブッダがいましたっけ。
一つの世界に二人の正等覚者はでないので、「いくつ世界があるか」を数えてもいいかもしれませんね。でも、いくつ世界があるのかしら?わからんです。

わたしの意見ですけど、ブッダが般涅槃してから、だいたい500年経つと、紀元前後くらいでしょうか。その頃、大乗経典が生まれてきてるんですよね。あんまりわからないかもしれないけど、ブッダは、このあたりにいたんじゃ。。。菩薩かもしれませんが。。。経典がそれを示してるのじゃ。。。わたしの意見でした。

たぶん、ホントにホントに必要になると出てくる。。と、思います。仏法が廃れて、ぜんぶなくなっても、一人で悟る独覚が出てくるでしょう。
けっこう、世の中捨てたもんじゃないはず、出でよ!ブッダ、はやくっ!と思ってますけど、どうでしょうか?

> 論理的に「最初の」ブッダとか成り立つのですか?
おっしゃるように、輪廻が無始だから「最初の」ブッダもいないということで、よいのではないでしょうか。

もっと文句ないですか(笑)。

投稿 管理人エム | 2006/12/08 17:32

「ブッダは男なので、論理的に女性のことはわかりません。」とありますが、他心通という能力があるからわかるんでは?女性の気質に合わせて説法もしてるみたいだし、よく分かっていたと思いますけど。超能力なんて無い、と考えておられるなら仕方ないですが。
 また、「500年たったら、別のブッダが出てくるのです。最初は、出てきにくいけど、1回ブッダが出たら後は、次々教えを聞いて、出てくる人がいるから心配ないのです。」とありますが、マジですか?ブッダはめったに出ないハズですよ。そんなにポンポン出たらありがたいですけど(笑)。しかも、論理的に「最初の」ブッダとか成り立つのですか?「生命の始原は無始である」とブッダは言っているから、結構無数のブッダが現われてて、始めのブッダとかは論理的に合わないのではと思ってしまいます。
 遊びで文句つけていますので、あまり怒らずにいただけたらありがたいです(笑)。

投稿 学生A | 2006/12/08 16:10

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