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2006/12/02

龍樹、「天上天下唯我独尊」を語る

天上天下唯我独尊」にかんしては、
いろいろコメントいただきまして
ありがとうございました。

天下御免の管理人です…つおいぞ…

ではなくて
文字通り読んでいただいてけっこうでございます。

天下にゴメンしてる管理人です…

だいぶ、イメージ変わりましたね。

まぁ、いろいろあります、このように…
解釈は、ね。

しかし、さすが、みなさま、ふかい!です。
やっぱり、「仏教はこわいなぁ」というのが本音です。
やっぱり、「こわいけどたのし」というのも本音です。
やっぱり、「たのしいのでやろっ!」というのが、もっとも本音です。

では、「やろっ」と号令かけて、
最後の解釈を出してみたいと思います。

それはっ、真打ち龍樹先生の解釈であります。
では
龍樹せんせっ!よろしくお願いしますっ!

ブッダは、生まれたとき、7歩歩んで、
自ら「天上天下唯我独尊」と発しました。
その後、ぴったり何も言わず、他の嬰児のように
歩まなかったし、何も語らなかったのです。

他の赤ちゃんと同じように、
おっぱいのんでねんねして
おんぶしてだっこして
またあした

ってかんじで、育っていきました。
まるで凡人そっくりでした。

どうして、すぐに生まれて語れたのに、
その後、語れなくなったりしたのでしょうか。

それは、方便の力なのです。
まるで「ふつうの人ふう」というやり方を
方便力で現出したので、
みなさんは、ブッダがふつうの人のように見えたのです。

もし、菩薩(ブッダのことね)が、
生まれた直後からずっと、
「歩いてしゃべって」というのを
やっていたら、みなさんはどう思うでしょうか?

「こんな人はいまだかつていたことはない。
こりゃ、天龍鬼神にちがいない。
きっとこのような人(?)の学んだ深い教えなど
常人の及ぶところではない。
我らの肉身は、業の法則に従い、
自在にできるものではないのだから」

このように考えてしまっては、
賢人聖者となることのできる人でも
最初からあきらめてしまうことになります。

そのため、ブッダは大衆路線を歩んだのであります。

だから、みなさんは知らなければなりません。
「仏身は無数であって、諸々の世間を超えたものである」
ということをね。

(『大智度論』p.59a.…注:龍樹が書いた本という解釈をとってます)

やはり決まりますね…というか、より混沌へといいますか…(たらっ)
ま、とにかく、せんせっ!ありがとうございました。

「ブッダの身体」については、
生身(生まれて死んだなまみの肉体)
法身(法が身体のかたちになったもの)

このような区別をつける必要があるということでしょうか。

「法身」という考えから行きますと
目的論的な解釈になりますね。
龍樹せんせっ。

よけいわからなくなりました。
仕方ないので、がんばって
龍樹せんせの解釈を、さらに解釈してみます。

「法身」については、以下のようなところから理解できるかな。

「法(此縁性)は、如来が出ても出なくても、決まってる、確定してる」
って、ブッダみずから言ってます。

また

「法を見る者は、ブッダを見るのだし、ブッダを見る者は法を見る」
とも言ってます。(ちょっと正確でないかも)

この二つの文を混ぜると、こうなる。

如来が世に出てないとき、
ブッダを見るとすれば、法を見るのですが、
法は、なかなか見えないので、
法を見る者はやっぱりブッダを見ることになります。

この場合、法を見る者がみるブッダが、「法身(のブッダ)」なのです。
でも、法を見る者なら、法身は見えるかもしれないけど、
ふつうの人にはやっぱり見えないので
ブッダは、方便力で、法身をあたかも「生身のように」現出して
人々に示した

と、

こういうので、いかがでしょうか。

「如来が世に出てないとき」

案外、ここがポインドですかしら…はずれてます?

龍樹っ!むずかしいよぉ!

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