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2006/11/26

天上天下唯我独尊って?なに?

龍樹本です。
方針を少々切り替えました。
今までは

「好き放題に書く」

という方針でした。

で、切り替えた方針は?

「もっと」好き放題に書く

です。
かわってんでスカ?

もち!変わってるわよ。
でも、ちょっと好き放題もすぎたかしら、って思うので
その部分をここに載せてしまおう。

なんか、無意識に書いたんだけど
考察が甘いのと、それと、でも、ちょっと突いてるところも
あるので
お待たせしているみなさまに
お暇つぶし に、読んでください。

       ********

 ブッダにかんする誤解されやすい表現として、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」がある。ブッダは生まれるやいなや、七歩歩いて右手をあげこの詩句を述べたと伝えられている。この詩句の意味するところは、「天の上にも下にもわたしが最勝である」ということである。生まれた瞬間から、自分は最高であると述べるとは、なんたる傲慢なことだろうと解釈されてしまうため、仏教徒泣かせの表現なのである。そして、「唯我独尊」は高慢な態度を形容する言葉になってしまっている。

 この言葉をどのように受け取るかで、ブッダ論理学と西洋論理学の立場のちがいをいくらかでも示すことができるのではないだろうか。(ここがあまいよな!)

 すぐ「なんて傲慢なんだ」と思ってしまった人は、「どんな人にも最高などということはありえない」と考える人である。人間は不完全なものであって、「自分が一番」などと言えるだけの根拠をもつことはできないと思うのである。そして、「人間は不完全」というこの考えは絶対なので、「わたしが一番だ」という人に対しては、即「傲慢」とするのである。そう言っても、自分は間違うことはないと確信できるからである。この世において完全であるということはありえない。これがこの人の思想である。
(ここに、一つ問題見つけた!「人間は不完全」と思う人は、自分の「人間は不完全」という意見を不完全とは思わず、絶対的に主張する、という点。ある意味、矛盾してる。)

 もう一方には、このように考える人もいる。「わたしが最高だ」というこの人は何者なのだろうと思い、本当にそうなのか確かめてみようと思う人である。「人間は不完全だ」という思想をもたない人である。「彼が何か最高のことを知ったのかどうか自分自身で確かめよう。わたしは、彼が一番かどうか確かめることができる」と思うのである。その意味では、自分の能力も不完全とは思っていないわけである。

 さて、傲慢だと思ってそのままずっとそう思っている人は、基本的に西洋論理学の思考法によっていると考えた方がよいだろう。不完全なのは人間である。世界のあらゆることを知ることは難しく、わたしたちはこのすぐれた現代科学によってさえ帰納的に真理に近づいていくのみなのである。
(こう言えるんですか?自分でちょっと疑問。神をもつ人々の思想から来るのもあるかもね。神は絶対で、人間は不完全という思想です。)

 一方、ブッダの「一切智者である」という言葉にも、それほど抵抗を覚えない人は、ブッダ論理学を含むインド論理学の思考法が向いている。「一切」を知るということも、ありうるだろう。物事を演繹的に見るとき、根本の原理から出発すれば、広がる世界もその原理のもとに制御されるはずである。真理は、がんばれば手にすることができるかもしれない。
(こっちは、まぁ、これでもいいかもね。)

         *********

以上の意見
当たってないわけでもないと思うのですが、
もう少しピタッと決め球をなげたいすよね。

で、これはボツにしました。

でも、びっくりしたことが一つある。
「天上天下唯我独尊」の解釈。

辞典などいろいろ見ましたら、

「この言葉の真意は、つまるところ、
だれであろうと『私という存在』はこの宇宙の中でかけがえのない唯一の存在のだということ。
一人ひとりの命の尊さを示す仏教の教えがこめられていることばなのである」

とありました。

ひぇー!こりゃないですよ。
かなり苦しいいぃぃぃ。
どの人にも「天上天下唯我独尊」があてはまるなら、
みんな「オレが、オレが」の世界になってしまうのじゃないでしょうか?
つまり「私の命が一番大事」という思想ですよね。
ここを起点に、このまま思想展開すると、すごいことになりそうです。

なので

私の書いた文章の中で、一つ真実を突いていたことが判明しました。

「生まれた瞬間から、自分は最高であると述べるとは、なんたる傲慢なことだろうと解釈されてしまうため、仏教徒泣かせの表現なのである。」

うーん、ほんとにこれまで仏教徒泣かせだったのですねぇ…

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コメント

春間則廣さま

> 我は、釈尊であり、アートマンです

そうですねぇ。そうなんですね。
「天上天下唯『我』独尊」と、言えてしまえる釈尊は、えらい!

龍樹なら、こうかな。
これは、『我』に執着する人に対して言った言葉なのである。勝義諦においては、空である。
どうでしょうか。

> “ 無我 ”の概念は、さまざまな解釈を許容します

“ 無我 ”は、さまざまな解釈を許容しますが、「無我」は、「我」がないときには、出てこないのです。
出発点がきまると、さまざまな解釈も、“ あるとおりに ”決まってくるのではないでしょうか。

> ここでも、“ 他 ”の概念が問われて然るべきでしょう
> “ 他 ”を支える概念は、“ 自 ”なのでしょうか、
> “ 我 ”なのでしょうか 
> “ 自、我 ”は同一の概念でしょうか

“ 自”でもなく、“ 我 ”でもなく、また“ 自と我 ”でもないでしょう。
この路線で進むのが、菩薩行ではないでしょうか。
よっしゃ!中道っ!

投稿 管理人エム | 2006/12/02 09:13

天上天下唯我独尊

“ 釈尊が言うのであれば ” そうなのでしょう

我は、釈尊であり、アートマンです

天上天下唯我独尊

これを聞いて、また ”何かを”思うことも、
すべて、間違った反応ではないと思います
私は「天上天下唯他尊」と反応します

我は、貴方であり、釈尊であるのですから

“ 無我 ”の概念は、さまざまな解釈を許容します
アートマンから見つめる我は、
”他 ”とどのように違うのでしょうか
「 我、既に我のものにあらず 」
(参照) 「 三枝 充悳 初期仏教の思想 97p 」

>命がかけがえないんじゃ、利他行に邁進する菩薩も
あらわれないことになってしまいそうです

ここでも、“ 他 ”の概念が問われて然るべきでしょう
“ 他 ”を支える概念は、“ 自 ”なのでしょうか、
“ 我 ”なのでしょうか 
“ 自、我 ”は同一の概念でしょうか

投稿 春間 則廣 | 2006/12/01 21:34

 こんにちは
 お元気そうですね。私も見習わないと(笑)。

>「傲慢」だとする人の反論を検討していくと、結局、それは、おのれの自我意識、言い方は悪いですが、おのれの「傲慢さ」のゆえにそう思うのだ、ということに、気づくようにできているのだと思います。
 そうですね。相手を「傲慢だ」と言うのはつまり中身について聞く耳を持たないということですものね。耳を塞いで反発している姿が思い浮かびます。
 
>ブッダの教えをよくよく知った人が、この挿話を作ったのだと思いました。かなりブッダクラスの優れ者と思います。
 これがよくわかりません。もちろん教えと無関係ではないでしょうが、私が言っているのは「宣伝文句」に見合うだけの中身があるということなんですけどね。つまりブッダの教えに触れ得たものはこの誇大とも思われる言葉を「納得」するということだと私は思っています。気にならなくなると言った方がわかりやすいでしょうか。

 エムさんはむしろ気にするべきだ。深くその意味を考えるべきだと言っているんですよね。
 まあエムさんの話はまだ途中だと思うので、解説を楽しみにしていることにします。では。

投稿 みみっく | 2006/11/30 19:11

おおっと!みみっくさま
お久しぶり!お元気ですか。

> 「天上天下唯我独尊」の話は、読んだ人に「無視できない」と感じさせる力があったでしょうが、書いた人はこれを誇大表現だとは思わなかったことでしょう

すばらしい!ステキな意見をありがとうございます。
「唯我独尊」に「傲慢」の意味がセットになっている様子からして、「無視できない力」と感じさせる力は、強力にあったと思います。というか、今もあると思います。

「傲慢」だとする人の反論を検討していくと、結局、それは、おのれの自我意識、言い方は悪いですが、おのれの「傲慢さ」のゆえにそう思うのだ、ということに、気づくようにできているのだと思います。
それに気づいた人が、眼を開いて、そこで、仏教に惹かれていくのでしょう。

ブッダの教えをよくよく知った人が、この挿話を作ったのだと思いました。かなりブッダクラスの優れ者と思います。
「書いた人はこれを誇大表現だとは思わなかった」のは、道理です。これは、(論理的に)この通りなので、思いようがなかった、というのが真相だと思います。

こうしてみると、「天上天下唯我独尊」といえる人は、二人ですね。
権威をほこる誇大妄想狂か、煩悩を一切ぬぐい去った解脱者です。

投稿 管理人エム | 2006/11/30 09:11

 お久しぶりでございます。
>また、この「天上天下唯我独尊」のような、けっこう突っ込まれそうなフレーズをブッダに語らせて大丈夫なのだろうか、とお思いになりませんか。
 人を説得(教えを説く)する時には根拠となる権威が問題になるものだと思います。
 なんらかの信仰を持つ相手に対してその信仰に反する教えを説くには、自分の言葉(教え)の優位性を明言しなければなりません。 

 つまり説法している相手は白紙の状態ではなく、なんらかの教えを自覚しているかどうかは別にしてあらかじめ受け入れているわけですから「あなたの信じている教えよりも私の語る教えの方が優れている」ことを表明するためには、「神々(天)を含めて人間界で、自分に匹敵する人物はいない」とか、「自分は一切を知るもの(全知者)である」等の「傲慢かつ過激な発言」が必要になるということだと思います。

 相手に聞く耳を持たせるのに苦労するという状況を想定すれば無視されるより突っ込まれる方が好ましいというものではないでしょうか。突っ込んでくるということは相手に関心を持ってもらえたということですからね。
 
 相手の生き方の根本に働きかけようとすると過激かつ傲慢な態度になるということだと思います。そのくらい強烈に働きかけないと、そもそも相手は「反応すらしない」でしょうから。
 
「天上天下唯我独尊」の話は、読んだ人に「無視できない」と感じさせる力があったでしょうが、書いた人はこれを誇大表現だとは思わなかったことでしょう。

 多くの人に突っ込まれたからこそ仏教の今の姿があるんじゃないでしょうか。

 以上です。

投稿 みみっく | 2006/11/30 06:46

ペンギンどの
こんばんは。まぁ、あまり興奮なさらないでください。

ペンギンどのの『仏教かく始まりき』で、「天上天下唯我独尊」の根拠をウパカに語った詩偈に求めておられましたが、具体的にはおそらくそうだろうと思っております。他にもちょっと思うところがありますが。
その点は、ぜんぜん反対するものではないのですが、ちょっといろいろ考えるところがありまして、上のような日記の文章を作ってみました。

ちょっと視点を変えて考えてみませんか。

ペンギンどのは、なぜ仏伝作者が、ブッダの誕生のときに、「天上天下唯我独尊」の言葉をもってきたと思われますか。成道のときに、「一切智者。一切勝者」ということを言っているのに。
ちょっとそんなことを考えていたのです。
(おそらく7歩とか右手を挙げたとかにも意味があると思いますが、それはこのさい省略です。)

また、この「天上天下唯我独尊」のような、けっこう突っ込まれそうなフレーズをブッダに語らせて大丈夫なのだろうか、とお思いになりませんか。

完全、不完全は、ホントに大丈夫かどうか、わたしが、ためしに確かめてみたものです。ニュアンス的に「完全」「不完全」は違和感があるかもしれませんが、原理的にはこれでいけます。論理的に矛盾が出るかどうかを確かめるためなので。じつは、ここは、ブッダの教説にもつながっていくことに気づきました。

いろいろ検討しているのですが、仏伝作者はなかなか適切な挿入をしたと思っています。
「天上天下唯我独尊」の挿話は、ブッダの教えとよく結びついてるなというのが、今のところ、わたしの得た結論です。

投稿 管理人エム | 2006/11/27 22:12

 天上天下唯我独尊ですが、これは、もともと、説法を決意したゴータマ・ブッダは、五比丘を最初の相手とするために旅に出た途上で出会ったアージーヴィカ教徒のウパカという人物に語ったことばです。「神々(天)を含めて人間界で、自分に匹敵する人物はいない」ということで、「自分は一切を知るもの(全知者)であるという文言とともに表明されたものです。
 全知者といっても、ヒンドゥー教の最高神のように、世界にミミズが何匹いるかをすべて知っているというのではなく、輪廻的生存(バヴァ)という実存に関わる、経験的に知られるあらゆる事象の因果関係(縁起)をくまなく知った、そして、実存に関わらない、経験的に知られないすべてのことを「知るに値しないもの」として「すべて」見きわめたということなのです。
 それを、後代の仏伝の作者が、生まれたてのゴータマ・ブッダに語らせるというフィクションに仕立て上げたということです。
 つまり、唯我独尊、全知者の宣言は、実存の範囲内で完全だということで、実存とは関係のない世界中のミミズの数などをすべて知っているということではないのです。
 ですから、この文言から、西洋哲学で言う完全者としての神、不完全者としての人間という図式と比較することは、まったくナンセンスだということになります。
 ですから、この文言をもって、人間にまつわる完全性、不完全性をうんぬんするのは、きわめて不毛、ナンセンスであると、わたくしは考えます。
 ゴータマ・ブッダの完全性は、実存主義的にきわめて限定された、それゆえに意味にあふれた完全性であると、わたくしは考えます。
 ですから、わたくしは、ゴータマ・ブッダの完全性、全知者性について、それを基準に西洋的、東洋的という議論は意味を成さないと考えます。
 結論的には、管理人様は余計なことを考えすぎ、言い過ぎだとわたくしは断言いたします。

投稿 紫陽花ペンギン亭主 | 2006/11/27 20:07

乱筆、あわただしくてすみません。誤字は訂正して読んでくださいませ。

投稿 えび天サンバ | 2006/11/27 17:51

エム先生さま

踏み絵というのは冗談ですよ(笑)。平沼議院が話題になってたのでつい使っちゃいました。

投稿 えび天サンバ | 2006/11/27 17:48

shaochunさま
おはようございます。

この世の中の人がshaochunさまのような方ばかりなら、そのような解釈もうまくいきそうですねぇ(^-^)v。
でも…ヒトラーみたいな人が、そう考えたとしたら…そして、一人に一つの世界をでっかくしようとしていたら…そっちの方を考えてしまいました。

そう考えると、「唯我独尊」のこの解釈は、不思議ですね。
ちょっと考え方を微妙にずらすだけで、とても危なくなったり、とても平和になったりしますね。

えび天サンバさま

あれっ!踏み絵になっちゃいましたか!?
そうかぁ、一番単純に考えてたのわたしだったのか。
なぜ生まれたてでそんなこといわなくてはならなかったか、という理屈も、考えてたんですが…書かなくてよかった(笑)。

幼い子どもとおんなじ発想だったにゃ~。

投稿 管理人エム | 2006/11/27 08:47

なんだか仏教徒かどうか、踏み絵を踏まされているみたいですね(笑)。全く個人的な見方ですけど、私は「天上天下唯我独尊」は純粋に密教だと思ってます。幼い子供を教え導くための表現形式ではないかと。込み入った見方をすれば、天上には三法輪が、天下には四法輪があり、かけがえのない時と命をもってして、お釈迦さんのようになりなさい(もしくは私(ブッダ)を超えていきなさい)、と、釈尊の教えの正統を継承するためにアーナンドと密行第一のラーフラの系統が作って確保しておいた仏教の正統ではなかろうかと考えています。

投稿 えび天サンバ | 2006/11/27 08:08

そんなにおかしいですか?
わたしはずっとまえから
世界はひとつじゃなく
ひとりにひとつずつの世界があり
わたしはわたしだけの世界で生きている
だから天上天下唯我独尊なんだと思っていましたけど…

投稿 shaochun | 2006/11/27 00:56

稲葉うあさま

そうなんですか。時代の流れにそってるんでしょうか。
これも、けっこう伝統になっている解釈かもしれませんね。
『成語大辞苑』に堂々とありましたから。

この解釈を正しいとがんばって、むりやりブッダの言葉を引っぱってくるならば、「自己を愛しく求めるものは、他を害するな」という言葉あたりとつなげるしかないかも、と思うのでした。
仏教が、小粒になってしまう…お釈迦さんは、「一切に打ち勝てる者」といったのに。

命がかけがえないんじゃ、利他行に邁進する菩薩もあらわれないことになってしまいそうです。
さびしい解釈ですね。

投稿 管理人エム | 2006/11/26 13:04

唯我独尊
ただ我独り尊し・・・ですよね。
私の修行中の頃から(いやもっと前からかもしれませんが)「それぞれの存在はただ一つであるから尊い」と言う風に解釈され始めていました。

その時に「アレ?!」と思ったのですが、人権問題が絡んでいるのかもしれません。

投稿 稲葉うあ | 2006/11/26 12:07

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