二人の聖者ブッダとイエス!
公開講座も、無事終了しました。
たくさんの方にきていただいて
ありがとうございました。
わざわざ来ていただいた方もいて
申しわけないような…
だって、こんな話ですもん、(どんな?)
いやぁ、
もう少し、うまく話せなかったかしら
と、反省しきりでございます。
仏教とキリスト教
むずかしいですね。。。
神をもたない宗教 仏教
神のかわりにあるのが、縁起の理法
こういう視点を打ち出してみましたが
いまいち、詰めが甘かったでございます。
ブッダは、理法で
理法は、ブッダ
このあたりも、もっと強調したかったですが…
では、ちょっとだけ、イエスとブッダの比べッこ、してみますか?
こんなんなりました。
**********
ヤサの出家のあと、友人など続々出家し、61人の阿羅漢が生まれました。
ブッダは、伝道を宣言します。
「今や多くの人々の利益と幸福のため、世間を憐れみ、その利益と幸福のため、諸国を巡り歩くがよい。
一つの道を二人して行くな。
初めもよく、中頃もよく、終わりもよく、正しい道理と表現をそなえた法を説くがよい。すべてにゆきわたれる清らかな修行を教えるがよい。…」(増谷文雄『仏陀』角川書店)
**********
同じように、イエス・キリストは伝道に72人を派遣します。
「主はほかに七十二人を任命し、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。…
わたしはあなた方を遣わす。それは狼の群れに子羊を送り込むようなものだ。…
どこかの家に入ったら、「この家に平和があるように」といいなさい。
その家に泊まって、そこで出されるものを食べ、飲みなさい。
働く者が報酬を受けるのは当然だから。家から家へ渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される食べ物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい。」(ルカによる福音書10.1-9)
**********
同じような伝道開始の場面ですが、対比してみるとおもしろいですね。
ブッダは、「二人していくな、一人でいけ」と言い
イエスは「二人でいけ」と言っています。
イエスの伝道には危険が及びそうな気配が漂います。
イエスの弟子を案ずる気持ちが、「狼の群れに子羊を送り込む」という表現になっています。
ブッダは、阿羅漢である弟子たちに、「世間を憐れんで、諸国を巡れ」、と励まし
おそれを抱いている様子はありません。
また、イエスは、家に入ったらそこに泊まって食べ物を食べて飲みなさい、と言い、
それは仕事の報酬なのだと言います。家から家へ渡り歩くなとも、言います。
ブッダの場合はちがいます。報酬は受けてはいけない、家から家をまわって、乞食がルールです。
家に泊まることは基本的にありませんね。
イエスの伝道には危険がついて回るが、ブッダの布教にはそこまでの危険はない。
イエスの場合、報酬として食事を受けるが、ブッダの場合、布施として食べ物をえる。
二人の聖者は、考える基盤がどこか共通であるように思います。
そうでなければ、ここまできれいに対比的にならないのではないかな、って思いました。
キリスト教もおもしろいですね。
北星学園の山我先生のご著書『雑学3分間ビジュアルシリーズ 聖書』PHP研究所 拝読中なり。
先生曰く「3分間、っていうのは、本一冊3分で読めるってことじゃないですからね。
図の入ってるページと本文の見開き2ページが3分間ですよ」
え?そうなんですか。さすがに200ページを超える本だから3分は無理か。
でも、2ページ3分ってことは、100×3=300分かかるってことね。
ってことは、5時間!そんなにかかるんだ。
しかし…
じっさい読んだら、3分じゃ終わらないや。10分くらいかかっちゃうよ。
となると、18時間以上かかる!?
ううむ、かる~くだまされますね。
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コメント
春間さま
> 無量の光は、影を生みません
> 仏法は無願だからです
> 光は、闇から生まれて
> 無量の時を包み、過去へ運んでゆきます
> 釈尊は光となって
> ただ照らし出すだけです
> 何も見ません
たしかにそうではありますが、
しいていえば
闇があるとき 光がある
でしょうか。
ここから、闇にしずむな、全き光になるな
と思います。これは、わたしの意見です。
春間さまの「光」とは、ちがう光かもしれません。
> ブッダは、既に釈尊と呼ばれています
わたしの「ブッダ」は、
この段階では、
ゴータマ以上釈尊未満なのです。
生きて人々と相対した 沙門ゴータマ
法眼によって世をみたとき、塵多きもの、塵少なきもの、など、無知の闇をみたのでしょう。
かれは、「耳あるものは聞け」といいました。
そして、無知の闇に太鼓を鳴らしました。
投稿 管理人エム | 2006/11/18 09:40
無量の光は、影を生みません
仏法は無願だからです
光は、闇から生まれて
無量の時を包み、過去へ運んでゆきます
釈尊は光となって
ただ照らし出すだけです
何も見ません
貴方が観るだけです
ブッダは、既に釈尊と呼ばれています
ただ凡夫だけが、よく、凡夫を見ます
投稿 春間 | 2006/11/17 23:27
宮本はん、ありがとうございます。
> パウロと龍樹の違いは大きいと思います。
ふんふん!大きいですか。フム。
> イエスもブッダも自らが見た光を自らの言葉で語った聖者ですが、当時のインドではすでに神は不必要な概念となっていたのに対して、イエスのいたパレスチナではそうではなかった。
ブッダは、神なしで生きるすべを教えましたから…と、わたしは思っています。ブッダは、闇もみて、語ったんじゃないかと思うのですが、どうでしょう。
> パウロがイエスの教えを徹底的に転覆させて宗教としてのキリスト教の基礎を打ち立てたのに対して、龍樹は…。
「転覆」とは?「龍樹は…。」のてんてんのあとは、何が来るんですか?知りたいっ!
> あ、これはニーチェが「アンチクリスト」で言ってる事ですが。
> 光輝くなにものか、をそのまま言葉で表現できない以上、それを浮かび上がらせるような何らかの方法を模索する以外に採るべき道は無く、…。
> あ、今日はこのくらいで…。
あ、そんな!殺生な!
龍樹に愛の手を~。
投稿 管理人エム | 2006/11/17 17:12
パウロと龍樹の違いは大きいと思います。
イエスもブッダも自らが見た光を自らの言葉で語った聖者ですが、当時のインドではすでに神は不必要な概念となっていたのに対して、イエスのいたパレスチナではそうではなかった。
パウロがイエスの教えを徹底的に転覆させて宗教としてのキリスト教の基礎を打ち立てたのに対して、龍樹は…。
あ、これはニーチェが「アンチクリスト」で言ってる事ですが。
光輝くなにものか、をそのまま言葉で表現できない以上、それを浮かび上がらせるような何らかの方法を模索する以外に採るべき道は無く、…。
あ、今日はこのくらいで…。
投稿 宮本浩樹 | 2006/11/16 23:45