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2006/10/17

管理人、『廻諍論』を語る

急に紅葉が目立って来た今日この頃。

はっと気づくと、黄色や紅の木々がとてもきれいです。

龍樹本の進み具合も、ぱたっととまったまま。
だけど
ずいぶん、いろいろなことが新たにわかってきた。
『廻諍論』『方便心論』にずぼっとはまっていたら、

あらん

拙著『龍樹造『方便心論」の研究』の中に
ミスを見つけてしまう。

この本書いたとき、最後は、時間なくて、
ものすごいパニックだったから、
正しく訳してたとこ、つい誤って訳し直してしまってた。

直さなくてよかったじゃん。

いくつか、字句のミスも見つかっているので
まとめて、訂正表を出さなくちゃ。

正直言うと

『方便心論』は全部くまなくわかっているわけではない。
ほぼ70%くらいは、解明したかなと思うけど。

ところどころ
穴が開いているのがわかってる。
その穴の一つが、いまわかりかけてるところ。

『方便心論』が完璧に解明できると
『廻諍論』と『中論』などが
およそ
自動的に解明できることがわかる。

『廻諍論』は、ものすごく深い内容だ。
ゲーデルの基本構想に通じている。
そして、それを超えている。
ああ、ゲーデルは、
ある意味、プラトン的な実在論者だからね。
当然、龍樹はその先を行ってる。

龍樹の頭の中は、どこまでも深い海のようだ。

『廻諍論』は、龍樹ものの中では
梵本、漢訳、チベット訳
三拍子そろっている
めずらしい本なのです。

なのに、並み居る注釈者がだあれも
註釈をつけられなかった本なのです。

『方便心論』もそう。
誰も註釈できなかった。

これらの本は、実際にはみんなに知られていた、確かに。
読めたかどうかは別にして。

世界で一番
『方便心論』『廻諍論』『ヴァイダルヤ論』の
三つに詳しかったのは

龍樹以降では

学者のなかでは
亡くなった梶山博士だ。
日本人です。

わたしの見た限りでは
諸外国で、梶山博士を超える人は
まだでていないと思う。

『大乗仏典 龍樹論集』で
『廻諍論』も『ヴァイダルヤ論』も
日本語訳が読めるのは
はっきり言って奇跡的なことだと思う。
しかも、誰でもが読める!

それもこれも梶山博士のおかげです。

しかも、梶山博士の訳は
たいへんすぐれた訳で
信頼のおける訳です。
論法をある程度押さえているので
訳にハズレがないのです。

ただ
博士が手をつけることができなかったのは
論法の「完全な」解明なのです。

だから、
ここは、不肖管理人がやるべきことになりました。

しかし、現実には

龍樹の深い海のような知識のなかで
おぼれております…

なさけないす

その上
何とかわかったこともどう書けば
みんなによくわかるのかもわかりません。

どう書いても、誤解される。
どう書いても、信じてはもらえない。
こういう悩みってのも、ありですか?

ま、いかにも、龍樹らしくて
いいか…って、よくないよ。

(ところで『十二門論』は龍樹作ですね。
これも自分にはわかってるけど、
どうやって証明できるのか、わからん)


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コメント

oさま おはようございます。

ご紹介ありがとうございます。
見ようとして、ちょっとばたばたしてしまいました。ログインしないといけないようです。

>TBRC ちょっと前まで何でも観られたのですが、現在は版権のあるものはみられなくなりました。

あ、やっぱり、そうですよね。わたしも、前には行けたのに、いけなくなってたことがあって、どうしてかしらと思ってました。

投稿: 管理人エム | 2011/04/10 09:43

エム先生、

グンル・ギェルツェン・サンポ全集が出てます。
http://tbrc.org/#library_work_Object-W2DB16428

内容は観てないので分かりません。

TBRC ちょっと前まで何でも観られたのですが、現在は版権のあるものはみられなくなりました。crying

投稿: o | 2011/04/07 06:07

知の欺瞞

投稿: あ | 2011/04/06 22:35

oさま

> 『方便心論』は分かるのですが、『量評釈』や『リクテル』というのは分かりません。何故ですか?

最近思うのですが、『方便心論』は、チャラカに、彼らのもつべき論理学を教える役目ももっていたと強く感じます。龍樹自身が、それを自覚して説いていたということです。
五分作法を知っていたのか、いや、三支作法だ、いや、帰謬法だ、とか、そんな論理形式の狭い範囲のことではなく、龍樹は、いかなる表現形式を持ちだされても、たちどころに論理構造を組み立てていける破格の論理学者です。
だから、インドに伝わっているあらゆる論理学は、『方便心論』から流れ出たと考えてもいいように思います。
『方便心論』自身が、この論法を学ぶとあらゆる論法に通ずると言っているのです。その意味が、だんだん分かってきました。
はじめは、半信半疑でしたが、いまは確かにそう思います。

確かに論理学も、「戯論」の領域に属します。
しかし、涅槃を得たかったら、戯論をバカにしてはいけない。言語習慣が戯論であると理解するためには、戯論に含まれる論理学(言語習慣)を知ることは必要だと思うのです。
論理学以外にも道はあるかもしれません。でも、「戯論」という理解から仏教に入ろうとすれば、論理学は必要な気がします。(論理学は、ある意味、涅槃の領域にも入り込みます。)
戯論の戯論たる所以は戯論によってしか知られない、ということでしょうか。
ようやく、わたしも、何をもって戯論としたのかわかってきたように思います。

じつは、サパンの『リクテル』はもっているのです。今のところ、まったくの宝の持ち腐れなんですが。いつか読もうと思って寝かせてあります。

サキャ系とサンプ系ですか。どちらもおもしろそうですね。

> いや〜行者仲間では論理学やってるとバカにされるんです。

あら~、そうなんですか。行があるから、論理学はなくてもいいのかしら。まずいもの勧めちゃったかな。

しかし、それはともかく、チベット仏教というのも、なかなかすごいもんですね。おそるべし!チベット!

投稿: 管理人エム | 2006/10/18 23:06

春間さま

> 虚しさを感じて生きるものは、現実を見ようとしない
> 現実から顔を背ける人は、眼を閉じて、
> 心を闇の中に閉ざす
> 目覚めた人たちは、眼前に、存在する物を見て、
> それを支える、執着を見つめる

とてもいい訳ですね。春間さまらしい、明瞭さがあります。
論理学の本だと思ってましたが、こうも読めるのかと新鮮に感じました。
春間さまも、ある意味、論理の人ですね。

僧侶と哲学者は、読まれましたか ?

ああ、まだです。いま、muさまご推奨の『不完全性定理』(岩波文庫)の方にとりかかってしまったので、まだ、借りにいけないのです。前から気になっているのですけど、こんど金曜に借りてきます。
借りてきたら、191頁読んでみます。(はじめから順に読んだ方がいいかな。)

投稿: 管理人エム | 2006/10/18 21:40

> 基本的に『廻諍論』は『方便心論』にもとづいて読むと龍樹の意図をつかむことができます(わたしの
> 意見)が、『方便心論』なしで理解するためには、ニヤーヤを経由して得られた仏教論理学の力を借りる
> 必要がある、というのが、今のところのわたしの理解です。

といいますと『量評釈』や『リクテル』が必要ということでしょうか?
『方便心論』は分かるのですが、『量評釈』や『リクテル』というのは分かりません。何故ですか?
というのは、『量評釈』系の論理学を導入した中観がどうも『中論』と違っているように見えるからです。
導入しない月称菩薩や寂天菩薩などに深い共感を持っております。深いと思ってるのは本人だけでしょうけど。

> しかも、9-10世紀以降の後期の仏教論理学の理解も加えねばならないだろうと思います。このあたり、全
> くの想像ですが、論理的にそうでなければならないだろうと思っています。
> 14世紀以降に『廻諍論』の註釈が書かれるのは、論理学の熟成度から見て、必然かと思います。ので、
> ますます興味深いですね。なかなかすぐには読めないと思いますが、いつか挑戦してみたいです。

それは興味深いですね。エム先生の後期仏教論理学思想史、読みたいです。
えーとですね、チベット論理学は、明らかに二つの主要な流れがあって、
一つはインド的サキャ系、もう一つはチベット的サンプ/チャパ系です。
サキャ系は、素直に読めてスッキリしてる印象がありますが、サンプ系は実在論的で複雑でグロテスクな
感じがありました。たいして読んでないので軽薄な印象ですけど。
クンル・ギェルツェン・サンポは、サンプ系なんです。非インド的な独特の解釈をしてると思われます。
それに対してケンポ・シェンガのチェンデル(傍注)は、多分、本頌に自注に従った短い言葉を補う方法だと思います。

チベット論理学で重要な文献は、チャパ、サパンの『リクテル』、及びガワン・チューター『リクテル 註』、
ダライラマ一世の『リクギェン』、カルマパ七世の『リクシュン・ギャンツォ』
パンチェン・ソナム・タクパの『量評釈註』、ジャングン・ミパムの『量評釈註』あたりでしょうか?

私も年貢を納めて数年後に時間があれば論理学やることにします。いや〜行者仲間では論理学やってるとバカにされるんです。
でも先生は論理学も重要ですと仰るし、最近、論理学というか筋道、
整合性が道への誤解を解く方便としては有効だと思えるようになりました。(^^)

投稿: o | 2006/10/18 19:17

早速、14を開いててみました
下記のところで、
しおりが挟まったままになっていました
少し読み進めるために、滞りを、ほぐしてみました

六十頌 6ab 25頁

虚しさを感じて生きるものは、現実を見ようとしない
現実から顔を背ける人は、眼を閉じて、
心を闇の中に閉ざす
目覚めた人たちは、眼前に、存在する物を見て、
それを支える、執着を見つめる

----------

僧侶と哲学者は、読まれましたか ?

他の本と、並行して読んでいますので、
現在、191p、です

6行目
「 わかりたくない! 
それは素晴らしいことかもしれない。
自分自身の中への隠遁、
世界の外への遁走と思える、、、、悪くない
、、、、、、、、

私に関して言えば、それでアウシュビッツや
ボスニアの問題は、解決できない 」

こんなふうに、読んでいます

投稿: 春間 則廣 | 2006/10/18 10:29

oさま
いつもながら、貴重な情報ありがとうございます。

19世紀の方ですか。インドの原義に添っているということから想像すると、こちらも手堅い解釈だろうと憶測されますが、どうでしょう。
チベットには仏教論理学の伝統がありますので、その伝統をよりどころとしてどのように解釈されたか興味があります。
クンル・ギェルツェン・サンポという方のも興味深いですね。『廻諍論』に註釈しようと考える、というそのこと自体、かなりトンデモないことでありますから、相当のところまで理解が進んでいたのだろうと想像されるわけです。

残念なことに、チベットには『方便心論』は伝わっていないようですが、もしこれが伝えられていたら、もっとちがった展開になっていたのではなかろうかと、あれこれ思っています。
手薄なチベット仏教の知識をいただけて、たいへんありがたいです。

基本的に『廻諍論』は『方便心論』にもとづいて読むと龍樹の意図をつかむことができます(わたしの意見)が、『方便心論』なしで理解するためには、ニヤーヤを経由して得られた仏教論理学の力を借りる必要がある、というのが、今のところのわたしの理解です。
しかも、9-10世紀以降の後期の仏教論理学の理解も加えねばならないだろうと思います。このあたり、全くの想像ですが、論理的にそうでなければならないだろうと思っています。
14世紀以降に『廻諍論』の註釈が書かれるのは、論理学の熟成度から見て、必然かと思います。ので、ますます興味深いですね。なかなかすぐには読めないと思いますが、いつか挑戦してみたいです。

投稿: 管理人エム | 2006/10/18 10:11

いえ『廻諍論』はチベットに少なくとも二人注釈された方がいらっしゃいます。
お一人は、14-5世紀のサンプ・ゲルク系のクンル・ギェルツェン・サンポという方で、残念ながら現在はアク・リンポチェの稀覯書リストに記載されるだけで、
所在は確認できないようです。
http://www.tbrc.org/cgi-bin/tbrcdatx?do=so&resource=W16057

もうお一人は、19世紀超宗派のケンポ・シェンガのものです。
この方の『入菩提行論註』は通読しましたが、インドの原義に添った簡明な註でした。
『廻諍論註』は見てません。以下の全集にサチェーとチェンデルがあります。
http://www.lotsawahouse.org/school/id116.html
dbu ma rtsod zlog gi sa bcad (443-448)
rtsod pa zlog pa'i tshig le'ur byas pa zhes bya ba'i mchan 'grel (449-471)

PL480 にも入ってます。
gzhan dga' gzhan phan chos kyi snang ba.
rtsod pa zlog pa'i tshig le'ur byas pa zhes bya ba'i mchan 'grel / gzhan phan snang bas bris pa. krong gsar rdzong : s.n., 1976.
10, 3 folios. ; 10 x 44 cm.
On boards: Running title: rtsod zlog mchan 'grel.
Sect of the author: rnying ma pa : -- Author's name from colophon. -- Xylographic print from blocks preserved at the Tongsa dzong (krong gsar rdzong) in Bhutan. -- Commentary expanding the text of Vigrahavyavartanikarika, fundamental work on Madhyamika Buddhism, by Nagarjuna.

Set 4-24. LMpj-013168. SB-2950. LCCN-77-902416.

投稿: o | 2006/10/18 00:58

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