本を書くって、さ、…
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龍樹本
カメの進行は? -90%
ほんとなのかな?
ようわかりません。
進んでるのか後退してるのか?
時間は足りないすよぉ。
ああ、この先、秋の泥沼が待っているような…
実りの秋に向かいたい!
赤裸々な自分としては…
本に書くのは、本に書くのは…
真実だけですよぉ、
三浦先生ぇ…
「学術書には書けない怪しげな主張は、
そういう本の中で発表することにしています」
http://8044.teacup.com/miurat/bbs(三浦掲示板8月 6日(日)02時53分29秒)
とおっしゃいますが、
この「怪しげな」というのは、三浦先生流のレトリックですよねっ。
読者をだますという意味じゃないよね。
わたしは、
学術書に書いたことと一般書に書くことは同じだから。
そのときわかった最善を尽くす、
学術書にないことも一般書に出ることは大いにある。
って、いうか
一般書には力が入る。
学術書は、専門家の深い知識で自分の未熟さを補って読んでもらえる。
厳しい評価と共に、書いてない可能性も見てくれる。
一般書は、読者の期待に応えるものをどれだけ自分がもっているかだ。
書いてあることのほんの部分で評価は下される。
それぞれの人の関心で本は読まれるからね、仕方ないのよ。
知りたい人には、どこまでも深く知ってもらえるような、
そんな本が書きたいな。。。
龍樹の『方便心論』みたいな…うっとりぃ…
(管理人!おい!まずいよ、それ!
夢見てないでさ、しっかりしてよ
それ … 誰もわかんないじゃん!)
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コメント
>東京へ行く時は、
>東京(へ行くこと)が目的ですが
>目的を設定する心があります
>着いた後を、予期する心もあります
全部考慮していなくても目的だし、全部書く人はいません。
春間さんの「目的」は最終目的ですらなく、「究極の目的」になってしまっていますね。
私の言っていること自体は伝わっているように思いますので、これで最後にしようと思います。
「その言葉に真実が含まれているのならば、それは相手の心に届く」と私は考えています。
今回も例外ではありません。
果たして春間さんの心に届きましたかね。
届いたならば、私の言葉には真実が含まれていたということです。
では。
投稿 みみっく | 2006/08/10 12:41
東京へ行く時は、
東京(へ行くこと)が目的ですが
目的を設定する心があります
着いた後を、予期する心もあります
投稿 春間 則廣 | 2006/08/10 03:12
何度でもご説明いたします
名詞は目的とはなりません
動詞が目的となるのです
東京へ行く時は、
東京(へ行くこと)が目的ですが
東京が目的となることはありません
花を愛でる時は
花(を見ること)が目的となりえますが
花が目的となることはありません
動詞を伴わない行動はありませんし
動詞を伴わない目的もありません
投稿 春間 則廣 | 2006/08/10 02:29
>お金を、目的とした時は、手段が忘れられ、
>使う目的は、”迷走”しはじめます
お金が目的である時、使う目的はないのですよ。
お金を手段とした時、使う目的があるのです。
お金は特別な存在ではありません。
「議論」でも「問答」でも同じことです。
私の投稿は同じ説明の繰り返しになっているようです。
意味がわからなければ、質問されることをお勧めします。
以上です。
投稿 みみっく | 2006/08/10 00:16
労働の対価であるお金が、
独立した”お金”となるところに、
煩悩があります
お金を、目的とした時は、手段が忘れられ、
使う目的は、”迷走”しはじめます
たとえ、目的があって、お金を使用しても、
その奥に、深い意識のそこの、
求める目的があるのです
自らの(=人々の)安楽のためと言う目的の、
その後ろに、何があるのでしょうか
投稿 春間 則廣 | 2006/08/09 19:54
>貴方の論理で行けば、労働の目的は、金銭を得る事と言う論理も出てきます
働いてお金を得るという言葉に何を感じているのですかね。
お金は手段であるとともに目的でもあります。
前の説明で十分だと思うので、追加の説明はしません。
以上です。
投稿 みみっく | 2006/08/09 19:19
>投稿するという手段は議論が目的であり、議論という手段は意見交換が目的である。
そういうものだと思いますがね。では。
貴方の論理で行けば、労働の目的は、金銭を得る事と言う論理も出てきます
ある意味では、労働の目的は、労働そのものが、“じん せい(尽生)”なのだから、
人生(労働)に帰着します
(しかし、それは、全く違う、土壌です、あなたの屁理屈には少し遠いところにあります)
金銭を得て、何を得(し)たいかが、労働の目的です
投稿 春間 則廣 | 2006/08/09 13:50
>何故、どのような、意思を通じ合わせるのかということです
「言葉を発する」が手段で「意思を通じ合わせること」が「目的」です。
意思を通じ合わせるのは目的ではなく手段であると言われているようですね。
意思を通じ合わせるを手段であると解釈すれば目的は別に存在するべきでしょうね。
投稿するという手段は議論が目的であり、議論という手段は意見交換が目的である。
そういうものだと思いますがね。では。
投稿 みみっく | 2006/08/09 00:56
理趣経には
一切有情妙法蔵
能転一切語言故 とあります
「一切語言」に妙法があるからです
貴方の“願”は、「意思を通じ合わせること」といっても、
その願が、どうして発せられるかと言うことを失っています
何故、どのような、意思を通じ合わせるのかということです
貴方は、手段のみを、“ もく てき ”としているのです (目 敵)
メカニックの解説です
それを使って、何処へ行くのかということを放棄しています
何も不思議なことはありませんが、
貴方には、“ 動 詞 ”がありません
投稿 春間 則廣 | 2006/08/08 19:56
>貴方は、此処を出発点として( dipa )として、何処へ行くのですか
自分の言葉に真実がこめられているのなら、相手の心に届くでしょう。
何故文章を書くのかというお話です。
出発点は言葉を発すること、到達点は意思を通じ合わせること。
何か不思議なことでも?
投稿 みみっく | 2006/08/08 17:40
みみっくさま
> 多くの批判を受けて洗練されたものこそが現在真実であると認められているものですものね。
これも、気休めにはなりますね。「現在真実である」という、ここ。「現在」ですよね、「真実」なのは。
いやぁ、よく考えると、ほんときつい世界に生きてるわって、気がしてきます(笑)。
春間さま
妥協を許さぬ方ですね。
そうですねぇ。「信じる」は、仏教では、最初に来るのであって、最後に来るのではないということですね。「信を能入とす」という意味です。
投稿 管理人エム | 2006/08/08 09:33
>> 粉骨砕身して考え抜いて書いたという実感が
これがこもるでしょうね
一分以上の真実とは、このことでしょう
...........
>>>「真実は人の心に届く」ことを信じる
こういう事は、此処に置く言葉ではありません
このような扱い方が
” 戯論 (hassa-dhamma,ridiculous )”となります
貴方は、此処を出発点として( dipa )として、何処へ行くのですか
投稿 春間 則廣 | 2006/08/08 07:56
>学問の世界は、日々新たとも言えるわけで、
>何が真実か、常に問われ続けているんだと思うんですよ。
そうですね。批判者が多いから間違っているわけでもない。多くの批判を受けて洗練されたものこそが現在真実であると認められているものですものね。
>> 粉骨砕身して考え抜いて書いたという実感が本当に伴うならば、書いたものには必ず一分以上の真実がこもっていると信ずるしかないのでは。
> 真実がこもってると「信ずる」、というこの「信ずる」にかけますか。
「真実は人の心に届く」ことを信じるというのはいかがでしょうか。
ロジカルシンキングも大事だと思いますけど、それを「使う」のは人ですからね。
では。
投稿 みみっく | 2006/08/08 03:04
ペンギンどの
> 粉骨砕身して考え抜いて書いたという実感が本当に伴うならば、書いたものには必ず一分以上の真実がこもっていると信ずるしかないのでは。
そうなんですねぇ。
書いたときはよくても、後になってみると…って、こともありますね。
真実がこもってると「信ずる」、というこの「信ずる」にかけますか。
投稿 管理人エム | 2006/08/07 19:52
わが身を省みず、粉骨砕身して考え抜いて書いたという実感が本当に伴うならば、書いたものには必ず一分以上の真実がこもっていると信ずるしかないのでは。ゴータマ・ブッダも、わが身を省みず、人並みはずれて粉骨砕身して考え抜いたからこそ、そのことばは2500年の時の長さにしっかり堪えているわけですよね。
投稿 紫陽花ペンギン亭主 | 2006/08/07 10:17
みみっくさま
うう~ん、これは、ものすごくむずかしい。
学問に権威は…あるんだろうか。
たとえば、事典・辞書や解説書も、改定されたり、新しく出版されたりするときは、
やはり新しい知見を入れますよね。
学問の世界は、日々新たとも言えるわけで、
何が真実か、常に問われ続けているんだと思うんですよ。
3の「真実であるかもしれないことがらを書く」というのも、考えてしまうなぁ。
書いてる本人にとっては、やはり「真実であるかもしれない」というぐらいのことではなく、
「真実そのもの」と思ってるんだと思います。
端から見たら、怪しいかもしれないけどね。
三浦先生の「怪しげな」というのも、そういう意味だろうと…。
本は、「何年もつか」ということも考えなくちゃね。
経典は2500年もってる。
真実の度合いが高ければ長持ち!
だから、真実を書きたいのだけど。
投稿 管理人エム | 2006/08/06 23:33
>「学術書には書けない怪しげな主張は、そういう本の中で発表することにしています」
権威を背負った発言と、そうでない発言を分けるということが言いたいんじゃないでしょうか。
1.真実であると認定されていることを書く。
2.真実であると主張していることを書く。
3.真実であるかもしれないことがらを書く。
4.フィクションを書く。
2が真実を書くことで、3が怪しげな主張。1は辞書や解説書で、4は小説ということですかね。
では。
投稿 みみっく | 2006/08/06 21:35
ペンギンどの
あ、そうですね、ほんとに。
わたし自身も、「学術書もなく一般書もない、ただあるのは、本、それだけ」と言った方があたっていたかもしれません。
何書いても、たいへんで辛いことには変わりがないのでした。
励ましのお言葉ありがとうございます。
「ていねいに書く」…いい言葉をもらいました。
頭をクールダウンさせて、じっくり進みます。
お忙しくてたいへんですね。今に山ほど本が書ける「時」がやってきますよ。次々出版される本のラッシュを考えるとちょっとこわいけど(笑)。
それまでがんばってください。
投稿 管理人エム | 2006/08/06 17:02
「専門書」と「一般書」とを分けるのはわたくしは好みませんが、いずれにせよ、本を出せば、圧倒的多数の読者は誤読してくれることを覚悟しなければなりませんね。まあ、なるべくよい方向に誤読してくれることを期待して、ていねいに書いて下さいませ。
仕事をする状況にない今のわたくしにしてみれば、遅々とでもしごとをされている管理人さまがうらやましいですよ。
投稿 紫陽花ペンギン亭主 | 2006/08/06 14:59