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2006/06/21

念僧瞑想、あらん、念僧迷走

出家したい管理人ですが、果たせず、
この世でシュードラやっております。

で、

この前ご紹介した
スマナサーラ長老・藤本氏
『ブッダの実践心理学』第二巻、心の分析

を、熟読玩味しているのです。

心の中ではもうすっかり「とりこ状態」なのですが、
ひそかにラブ・コールを「念」「念」と送るだけにしているのです。

で、

気がつきました。
わたしって、
「念僧迷走」、おっとっと、「念僧瞑想」
やってたんだ。(pp.201~3)

スマナサーラ長老さまは、
智慧第一のサーリプッタの念僧瞑想を
なさっていたわけですが、

あたしの場合は、ブッダやったり、龍樹やったり、
龍樹やったり、龍樹やったり、ブッダやったり、龍樹やったり…

頭の回路壊れてますよぉ、管理人さん

あ、ゴメン!龍樹やったあと、アクシャパーダにも挑戦したり、
それこそ、「念僧迷走」もしたのです。

で、

スマナサーラ長老さまは
「わたしが何の困難もなく仏教を語れるのはサーリプッタ尊者のおかげです。
人がどんな質問をしても、仏教に対するどんな疑問が生まれても、
『あ、この場合はこう答えればいい』と、瞬時に頭に浮かんでくるのです。」
(p.202)
と述べています。

ここよ、ここ!わたしの知りたかったのは。
長老さまのたくさんの著作群の謎が一気に解けました。

いつも、「どうしてこのように答えられるんだろう」と
不思議で不思議でなりませんでした。

氷解!氷解!

正直なところを言いますと、
答えには、それぞれのお坊さんの個性が光ります。
お坊さんの智慧があふれます。
その中でも、スマナサーラ長老さまのあふれ方は半端じゃないです。

そのまんま、ブッダじゃん

感心してしまうのです。

そうか!やっぱりなぁ。
ものすご~~い智慧だと思っていましたが、
やはりものすご~~い智慧だったのね。
はあぁ~~。

もう同語反復しちゃうから。

やばいなぁ、って気持ちもわいてくるけど、
幸せだなぁ、って気持ちもわいてくる。

わたしの場合は、レベルは相当落ちるけど、
やっぱり龍樹!
龍樹ならどう考えたろう、どう答えるんだろう、
って、いつも思うわね。

で、

「あ、この場合はこう答えればいい」と、
瞬時に頭に浮かんで「こない」のです。

いや、浮かぶときもある、答えだけなら。
むしろよく浮かぶといってもいいかも。

ただ、そう答えることが
いいことなのかどうなのかが
よくわからない。

相手にダメージ与えたらどうしようと思うと
二の足を踏んでしまうし
龍樹は、ほんとうにはどのように言ったのかわからないので、
悩んでしまう。

これは、龍樹作品というのが「書かれたもの」であるためだと思う。

サーリプッタ尊者の話の場合は、
ほとんど伝承が「口誦による経典」にもとづくので、
臨場感をもってそのまま伝わる。

書かれた作品は、いくらかよそよそしいのよ。
欠点だわね。
現実にはどうなのかがなかなか見えてこないもの。

でも、わたしの読みが足りないだけかもしれないから、
「書かれた作品」には罪はないかもしれないなぁ。

仏教がどうやって伝わってきたか
知る鍵は、スマナサーラ長老さまにあるっ!

突然ですが、今日の考察を終わります。

智慧第一にはなれないけど
仕事第一管理人だいっ!


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コメント

 露見  breakefast は  breakfast へ
    ー断食破りの意味です 


投稿: 春間 則廣 | 2006/07/10 23:39

この返答はワードなしのつもりです

私の断食は、プチ断食、週末断食などと呼ばれる物
三食絶って、四食めがbreakefastです
今日の昼が、それとなりました
かぼちゃスープに、ミルクを足して、
広島から送っていただいた、
ジャガイモと、たまねぎの煮付け(母が作りました)
毎週月曜は、ホテルで会合(プチフルコース)だから、
大抵、土か日の断食(大げさでしょ)になります
先週は、土曜でした(毎週しているのではありません)
わたしの心に(心のFATがあると感じた時)
ダイエットが必要と感じてしまった時に
食欲を“良く”見つめるためにしているのです

(パラドヴァージャの捧げた物を、釈尊は口にされませんでした)

(このとき、パラドヴァージャは自らの智慧から真理を見ました)
(覆いを開くように、灯火にうつされる影を見るように)

やっぱり、ワードが必要でした

viriya 精進、  strenuous、energetic、 resolute などもありました
        vital- effort  これがよさそうです
(これは辞書にはありません、私の感想です)

「 五根 」、、、、分類はすきではありませんがこのくらいは必定ですか?

織田得能 仏教大辞典473p 信、精進、念、定、慧 とあります
仏教語大辞典360p     にも同じ
望月 2-1179 には   進根 巴viriy 
仏教大辞彙  1--1309には 精進根  
(私の辞典では見出しの二つめのコが下を向いています)

出来る限り、複数の物に当たるようにしています
平川 彰の「中論」も、“見て”います

投稿: 春間 則廣 | 2006/07/10 23:11

> 正しいアプローチですね 
> ― かぐわしい(貴方に燃料のにおいを感じています) 
 
燃料?
田でとれる燃料? … まさか牛糞じゃ(笑)

> こんな所に拘るのは、どうしてか分かりませんが、
> 私は、努力を否定する立ち場をとっているのです

そうなんですか。

> “ 努力 ”は誤訳かもしれませんが、私には原典がありま
> せん

「努力」はヴィリヤ(パーリ)ヴィーリヤ(サンスクリット)の訳語です。
この場合、ヴィリヤは、春間さまの考えるような「否定をともなった努力」ではないようにかんじます。
これは、energy、vigour、effort、exertion というように辞典には載っていて、「活力」とか「勢力」とかという意味を含む「努力」です。
なんとなく、輝かしいエネルギーを感じるのです。

前にあげた五根(シュラッダー、ヴィーリヤ、スムリティ、サマーディ、プラジュニャー)の中にも、ヴィーリヤがありましたね。
五根は、修行者の「熱意の発露」をさまざま具体的に言い表した言葉ではないかと思っているのですが、いかがでしょうか?

仏教の中でも、修行の積極的な姿勢を示す言葉だなぁと思ったりします。

断食まだまだ続いていますか?

投稿: 管理人エム | 2006/07/10 21:05

追伸(というより言い訳):
  
朝から始めているので、
そろそろブドウ糖が枯渇し始めています
考えの、足りない、短絡、混乱、しているところは、
後ほど、補足整理します

投稿: 春間 則廣 | 2006/07/09 17:36

貴方は、鋤(すき)からはいるのですね

私は、“苦行”(断食中だから、、、、というわけではありません)
(実は今、先週に引き続き―中断はあります―
というより30時間余の断食ですから)
そして、79の “努力” です

雨は潤いを与え、心の扉を開く(浸透圧を整える)

引っかかるのは、軛 (1292頁、車の最初に挿絵がありました) 

(慚)― 余談になりますが 中村氏は諸橋ではないのでしょうか)
   ― 11095 ③ただしくない、節操を失うこととあります
(私は、藤堂明保編学研漢和大辞典です 490頁)
(加藤常賢には該当がありませんが、音から推測します)

>牛を引いて耕している写真を見ながら何回も考えました

正しいアプローチですね 
― かぐわしい(貴方に燃料のにおいを感じています) 
― 冗談はおいて

軛をかけた牛が何故、努力になるのか、、、、、、
(ここは、おそらく釈尊の言葉どうりだと思います)
(訳がわからないままだから)
通常努力は自らに帰属します
貴方が、知らせてくれたプラジュニャーが軛となり
牛(これの説明はない)と共に、努力となる
これは、智慧がつなぎとめるだけ(軛はただの曲がった木ですが)

こんな所に拘るのは、どうしてか分かりませんが、
私は、努力を否定する立ち場をとっているのです
精進は、必ず果を生みますが、
努力は間違いなく否定を伴っていると考えるからです
人は、好きなことは厭わずします
(それはある種、他の人から、努力と呼ばれます)
(その人たちは、“すき”ではないから)
したくて、せずにはいられないことは、楽果を生むでしょう

“ 努力 ”は誤訳かもしれませんが、私には原典がありません

不放逸、精進 、、、、、、、、、

>バーラドヴァージャに欠けているものだった

“耕して、種をまく” その意味を理解していなかったから
その田の収穫は、損なわれていたのでしょうね

そんなふうに、論理があてはまらなければ、、、、

(ここで、貴方の“語ることは論理”の前提が立証されました)
( - ありがたく感じています )

とりあえず今はここまで、続きは 次に、、、

投稿: 春間 則廣 | 2006/07/09 17:28

またまた、管理人です。

この「田耕すバーラドヴァージャ」は、
大好きなところなので
この77は、牛を引いて耕している写真を見ながら
何回も考えました。

やはり考えるだけじゃわからないのですが、
それでもいろいろ見えてくるものがあります。

土と鋤先の触れるところが、修行の核心部。
念(サティ、気づくこと)は、そこで必要となる。
心(マノ)は、そのために感官などを制御し、念に向かわせる。
その前にまず身を慎んでおらねばならない。
その前に、智慧(パンニャー)によって進む方向を確認しておくことが必要だ。

たぶんですが、何で「慚(ヒリー、ありがたく申し訳ないと思うこと)」というのが、ここにあるかというと
それが、
バーラドヴァージャに欠けているものだった
からではないでしょうか。
「智慧」というのが、この位置にあるのも
バーラドヴァージャのためで、
「智慧」が生まれないと
「慚」も生まれないから
ではないかと。

投稿: 管理人エム | 2006/07/09 09:11

> “ 智慧 “ と心との、差は何か
> 原典がないと、智慧が確定できないが
> プラジュニャー とすると、道具にできるのか

パンニャー(プラジュニャー)でいいですね。
五根に、信(シュラッダー)、努力(ヴィーリヤ)、念(スムリティ)、三昧(サマーディ)、智慧(プラジュニャー)と
ありますから、どうでしょうか。道具としていいかも。

『ヨーガ・スートラ』1.20
その他の人たち、すなわちヨーガ行者たちの無想三昧は、
信、努力、念、三昧、智慧を手段として得られるのである。

同じように手段としてますね。

投稿: 管理人エム | 2006/07/08 20:45

>他もそうかもしれない。
誰でも入り口から入るんですよね。

心が(体が)生まれたとき
すでに、中にいるのでしょうね
―“その中にいる” と感じた時を入門というのでしょうね

―――――――

以前に貴方からの、返信にあったことで、
少し考えた事があります

もし、下記の智慧の原語についてお分かりになれば、
教えていただけるとありがたいと思い
お願いいたします。


>「 信 」から入る

( こんな風に、考えを進めてみました )

確かに77(24頁)には、信仰が種であるとある

苦行は 雨だから これは自身を指すわけではないが
浴びれば、自身と一体になる
智慧 と はじること(ありがたく申し訳ないと思うこと)
心(マノ、ヴィジュニャーナ) 念(サティ)              
これらは道具である

“ 智慧 “ と心との、差は何か
原典がないと、智慧が確定できないが
プラジュニャー とすると、道具にできるのか

重複はありえないので、
(理解をはじく)ここから、仏法を知りうる

投稿: 春間 則廣 | 2006/07/08 18:10

>気持ちよく “生きる”“ため”

> 生きる中に、“知る”ことが入っても、
> “気持ちよく、、、”は、
> 目的ではないと思います

まずい表現でしたか?
思いついたのがこれしかなかったので。
さらにいえば、
今もこれしか思いつかないです。

わたしの場合、
生きる中に「知る」ことが入っているのではなく、
知ることの中に「生きる」ことが入っているのです。

「気持ちよく生きる」とは、
こだわりがないことです。

知ることにこだわりがなくなった
と言えばいいかな

知ることをこだわらなくなった
でもいいかな

> 「中論」を読み解かなくても 「 理趣経 」には、仏教思
> 想の殆どが網羅されています

そうですか。そうかもしれませんが、
ものごとには順序があって、
階梯をふまなければなりません
いずれそこまで行けたらいいなと思います

> “大乗”と呼ばれる生き方には、
> “汲みだす” ものを、分別して(ビ)知ることが“入り
> 口”かもしれません

他もそうかもしれない。
誰でも入り口から入るんですよね。

投稿: 管理人エム | 2006/07/08 09:21

においを感ずる

その“におい”も、タンハーの ( 穴 )のなかに吸い込まれていくのかもしれません
― 私も “におい”にこだわってしまいました

>「苦しみ」であると 言う
>「安楽」であると  知る

762 の 二つの語句の間には、
動詞の“相違”があります
時間があれば、考察してみてください

>気持ちよく “生きる”“ため”

生きる中に、“知る”ことが入っても、
“気持ちよく、、、”は、
目的ではないと思います
くしくも、763に、覆われた人 とあります
翳障軽重覚悟遅速 機根不動性欲即異
空海が、「経集」を眼にしていたかどうかは分かりませんが、
「中論」を読み解かなくても 「 理趣経 」には、仏教思想の殆どが網羅されています
“大乗”と呼ばれる生き方には、
“汲みだす” ものを、分別して(ビ)知ることが“入り口”かもしれません

すでに、知ることが、それ自体生きる範疇なのですから、「無門」なのでしょう

投稿: 春間 則廣 | 2006/07/08 08:30

春間 則廣さま

> 管理人様は、札幌にお住まいでしょうか

そうです。

> 北海道(札幌)には、私と薄く血が繋がる(親戚)、
> その道での(北海ではありません)
> 有名人?がいるのです

バレーボールの監督をされている方ですね。
スポーツ万能の学校ですね。

これは、知らずにすれ違ったこともありそうな感じですね。

応援してますよ(^_^)v

投稿: 管理人エム | 2006/07/06 08:49

>またいつでもお寄りください

返答を見るためには
立ち寄らなくてはならないことを
失念していました

ついでといってはなんですが、
管理人様は、札幌にお住まいでしょうか

北海道(札幌)には、私と薄く血が繋がる(親戚)、
その道での(北海ではありません)
有名人?がいるのです
同じ苗字ですから、、、、(検索すれば出ます)

国体の監督としても、
活躍?しています

もし、機会があるようでしたら、
応援してやってください
(貴方も学校関係者のようですから)

投稿: 春間 則廣 | 2006/07/05 20:46

> この“もの”とはなんでしょうか ? (論理の進め方です
> か)
> 思うことが、最初に始まる実践で、論理(正思惟)を用い、
> 智慧を導きだし、
> そして、語ることは、続く実践行動といいたかったのですか

ああ、そうなんですか。そうですよね。
わたしの言いたかったのは、
その実践行動についてです。

「語るもの(内容)は、(見かけは実践行動についてでも)
実践ではなく、
日々の、具体的な心構えに基づく、論理を語っているのだ」
ということです。
だから、正思惟にもとづく、きっつい正精進が待っているのです。
論理を具現化することが求められるからです。

> 「 知っている 」 ということと、
> 「 行っているか 」と自省することが、同時にないことが
> 多いような気がします。

ふつうは、そうかもしれませんね。
インド的には「知ること(ジュニャーナ)」は「そうなること」ですね。
インドに浸ると、それ以外の「知り方」というのが
ピンとこなくなりますね。
だから、「知る」にも覚悟(ふつうの意味の覚悟)がいる。
だから、「信」から入る。

> 「そんなことは知っている」という時は、
> たいがい、 「そんなことはしていない」となるようです

言い得て妙!

逆に言えば、仏教においては、
自分の生活を見られるだけで
どこまで知っているか
知られてしまうということで…

> 私に、失礼があったようです
> お詫びして、消えます。  ありがとうございました

え?? あら、もう。
いろいろありがとうございました。
またいつでもお寄りください。

> 逆さの木の枝状に系列付けても、それが 上下 = 後先 
> を意味する訳ではありませんし、思考の順序は、
> その思考のあり方、を示すものではなく、“現しかた”でし> かありません

論理の表し方と一緒ですね。
整合的な順序で並んでいる、
しかし、
その通りに思考が進むわけではない。

> 全ての思考は、すでに(常に)全体として存在するのです

あるがままの姿で。

投稿: 管理人エム | 2006/07/05 17:34

>語るものは、実践ではなく、
日々の、具体的な心構えに基づく、論理なのです

この“もの”とはなんでしょうか ? (論理の進め方ですか)
思うことが、最初に始まる実践で、論理(正思惟)を用い、智慧を導きだし、
そして、語ることは、続く実践行動といいたかったのですが

>智慧で得たものは
禅定で確かめる
このようなやり方もあるのでは?

智慧の定義が了解事項になっていないようでした
智(ジュニャーニャ)で得たものは、検証が必要で
智慧(P パーニャ)で得たものは禅定も含むとしましょう

>―禅定を経ずして、“真理を語るときには”
(大きく)道を踏み違える危険がある  

―この表現は、真理に禅定が含まれるので不適切でした
 “真理と呼ぶものを語ろうとするときには” としたほうがよいようです

「 知っている 」 ということと、
「 行っているか 」と自省することが、同時にないことが
多いような気がします。

「そんなことは知っている」という時は、
たいがい、 「そんなことはしていない」となるようです

>おお(@_@) そうか!(^^)! 感謝m(_ _)m
>では、お礼でございます

私に、失礼があったようです
お詫びして、消えます。  ありがとうございました

PS:>いえ、同時にはありえない。いつも、どちらか。

法句経 369

貪りと瞋り と 痴

友松圓諦氏は、法句経の講話で「原典には、三毒があったはず、、、あっていいはず、、、」
と話して見えました

船より汲み出す、貪りと、瞋り、
これをそのままにして、走らせることが「痴」です
貪りと、瞋りを汲み出す心が、智慧です

そこには、時間の順序は有りませんが、其処へ到る思考の「階梯」があります
これを、日月の巡る“時”と重ね合わせるのは、間違ってはいませんが、
その縛られている“時”から、永遠へと、心を馳せるのが“ブッダ”でしょう

インドに於いて、心を捉える時に、時間の観念が抜けるのは、
其処から来るのではないでしょうか
八苦の並べ方も、記憶の方法ばかりではないとおもいます

図形として、並べれば、同一平面上に並ぶのです

逆さの木の枝状に系列付けても、それが 上下 = 後先 
を意味する訳ではありませんし、思考の順序は、
その思考のあり方、を示すものではなく、“現しかた”でしかありません

全ての思考は、すでに(常に)全体として存在するのです


投稿: 春間 則廣 | 2006/07/05 15:09

> これは、難しい問題を、自らに孕む言葉ですね

むずかしくないです。とても簡単。

> 自らに、良いと評価するのは、”気持ち悪い”考え方

そうじゃない生き方が「気持ちのよい生き方」

> ”気持ち悪い(矛盾を含む)”理由(理)と、
> 「気持ちよい」と感じる体の状態は
> 同時に存在していることが多いと思います

いえ、同時にはありえない。いつも、どちらか。

> シッダールタ(ヘッセではありません)は、
> パーニャパーラーミタを選びました

そうですね。
般若波羅蜜(智慧の完成)
≡論理の完成
≡涅槃
≡楽(気持ちよいこと)

わたしのやり方です。これしかできない。

> だから、“見たい顔しか見えない”ということです

自分の見たい顔を見て、
他人はぜったいこうは見てくれないと
思うと
いくら子どもでも
いくらか考えることもありますよ

> ―私は、いわゆる「おくて(晩生)」です、大器ではないでしょう

わたしも。

> 健康で、長生きしそうだから、

最近、龍樹のせいで熱が出るけど、
ほどほど健康。

> 私を読み解く、貴方はすごい! (これ皮肉に聞こえますか ?)

お、読み解いていたのか!
わたしって、すごい(笑)!
皮肉に聞こえませんよ。
最初から気配がしてましたもの。

> ―禅定を経ずして、真理を語るときには(大きく)道を踏み
> 違える
> 危険がある  と言わせていただきたい

それは知っています。
なぜ知ってるかわからないけど。

> これは、禅定体験の 具体的指南なのです
> 最低限であってもサマーディを体験した比丘にたいして、
> それを意識上に昇らせる具体的な指示なのです

おお(@_@) そうか!(^^)! 感謝m(_ _)m

> 仏法は、論理を抜いて語ることは出来ませんが、
> 語ることは、論理ではなく、
> 日々の、具体的な心構えに基づく、実践なのです
> 略して、正見に基づく、正精進と言っても良いとおもいます

では、お礼でございます。
仏法は、論理を抜いて語ることは出来ません。
語るものは、実践ではなく、
日々の、具体的な心構えに基づく、論理なのです
略して、正見に基づく、正精進と言っても良いとおもいます

わたしのブッダはこんな人です。

かれは、アーラーラ・カーラーマ、
ウッダカ・ラーマプッタのところに行って、
たちどころに師の言葉を会得して語りました。
それから
禅定をおさめました。

智慧で得たものは
禅定で確かめる
このようなやり方もあるのでは?

884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。…
(『スッタ・ニパータ』)

この偈を含む「並ぶ応答」の章は、論理の極致を示しています。
ここも誰も正しく解釈していないようです。
この偈は、大乗への門ではないかと思って
入ろうかな
と、たたずんでいるところです。

> これらの事は、貴方の分野ではないかもしれませんが、
> 龍樹 を含める仏法を語るのであれば、避けることは危険です

ありがとうございます。
お言葉、感謝します。

> 実践の中で生きるしかないということは、
> 気持ちよいことを求めることとは、
> 「 願 (拠り所を持っての、方向) 」が違うと感じます

そうでもないです。
ブッダは「苦の滅」をめざしましたから。
苦の滅は、楽です。

763 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。
他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。
(『スッタ・ニパータ』)


投稿: 管理人エム | 2006/07/05 10:01

PS: ちなみに転も点も四声は上声です

投稿: 春間 則廣 | 2006/07/04 21:59

> (論理が)理論が、何の為にあるのか、

気持ちよく生きるため

************************

これは、難しい問題を、自らに孕む言葉ですね
どういう意味で言っているのか、理解に苦しみますが
確かに、気持ちよさは、常に追求される事柄ですが
”気持ち悪い(矛盾を含む)”理由(理)と、
「気持ちよい」と感じる体の状態は
同時に存在していることが多いと思います
どちらを、優先するかですが、
シッダールタ(ヘッセではありません)は、
パーニャパーラーミタを選びました

ここのところで、貴方の、返答を捉えてしまうのは
私の、煩悩ですが、  それでも、
すっきりすることを、求めるべきではないと感じます

* ***********************

>やはり、顔はないのでは?

顔という名詞を、哲学的にとらえるのではなく、
その見える物への理解の仕方を、
理法の元に捉えるということです
だから、“見たい顔しか見えない”ということです

般若心経秘鍵 序 の中で、
翳障軽重覚悟遅速 機根不動性欲即異 と述べられています
―私は、いわゆる「おくて(晩生)」です、大器ではないでしょう
でも、健康で、長生きしそうだから、
おいおい、皆さんに追いついていきます
が、
私を読み解く、貴方はすごい! (これ皮肉に聞こえますか ?)

一つ、新規のことを、

宮本氏が 「、、、考えたこと」のなかで
―禅定体験主義で、、、理解しようとすると“大きく道を踏み間違える”
 危険がある  と述べて見えますが
―禅定を経ずして、真理を語るときには(大きく)道を踏み違える
危険がある  と言わせていただきたい

「 犀の角 」の 
犀の角のようにただ一人歩め  の意味するところを
正しく、理解して、書かれた書物に、私はまだ出会っていない

これは、禅定体験の 具体的指南なのです
最低限であってもサマーディを体験した比丘にたいして、
それを意識上に昇らせる具体的な指示なのです

貴方が、自らの鼻を見るように、
「 仏法非遥心中即近 」を具現するということです
これは、「 わがうちなるキリスト 」と近い捉え方です
禅定体験を表象させて、一人歩けということです

仏法は、論理を抜いて語ることは出来ませんが、
語ることは、論理ではなく、
日々の、具体的な心構えに基づく、実践なのです
“ 犀の角のようにただ一人歩む ”ことは
(訳が不適当ですが、知らないことは訳せない例です)
(こんな、稚拙な翻訳、がといっても、それ以上の、
翻訳をこなせる人がいないのだから仕方ありません)
略して、正見に基づく、正精進と言っても良いとおもいます

アバロキテシュバラの “音”と “世”は、
音 は 禅定を具体的に現し、
世 は 理の世界です
音を見るのが、三昧なのです

これらの事は、貴方の分野ではないかもしれませんが、
龍樹 を含める仏法を語るのであれば、避けることは危険です

― ベック は、後にキリスト教に移ったと言われますが、
仏法は正しい論理によって、構成されています
彼が、どこまで瞑想を深めたかは、今の私には、
知り得ないところもあるのですが、
「仏教」「 インドの叡智とキリスト教 」であたる限りは、
瞑想に基づく、仏法の実践者の一人としても良いと思います

深い瞑想を経ていない論理は、シューニャ です
あるはずの、正思惟 が シューニャ なのです

但し、瞑想は、日々の生活の中に体験されうるのは事実です

だから、一芸に秀でる(非常にまれな人)事から、
深い、人生を語ることが出来るのです

しかし、それでも、
道元さえも(?) 棄嫌におふるのみ と述解するのです

「 気持ちよい 」とか、「 楽しい 」とかの言葉は、
注意して使いたいものだと思っています

「 善因楽果 」 の思想は どこから来たのでしょうか 

石上善應 という人がいますが、「 善 」について、
たずねてみたいものです

徳山宣鑑  は 「 点心 」を食べることは出来なかったが、
過去 現在 未来 への「 転心 」で食べればよかったのです

実践の中で生きるしかないということは、
気持ちよいことを求めることとは、
「 願 (拠り所を持っての、方向) 」が違うと感じます

投稿: 春間 則廣 | 2006/07/04 21:45

> 人には顔のないことは無いような気がします
> 現実的に、貴方が鏡を見るとき、そこにある顔は、
> 自分の理想と違う、と言ったところで、
> 日々の(?)より良いと決めた(これを理想と言わずになん
> と呼ぶのだろう)
> 選択の積み重ねなのだから(年齢さえも)

子どもの頃、鏡うつる祖母の顔を見て、実際に見るときとちがい、
鼻が曲がって見えることに気づきました。
左右が反対になるので。
鏡に真実は写らないことを知りました。
自分が見ているようには他人は見ないのです。
また、逆に、自分にもけっして知りえないものがあることがわかりました。
やはり、顔はないのでは?

> 私たちが、実体があるように取り扱う、物体と、
> 心の動きは、係わり合いを持つと言うことです

ああ、そういうことでしたか。
「実体があるように取り扱う、物体」というのは、そうですね。
五蘊は、色(ルーパ)から始まっていますものね。そう思います

> もっとも小さい素粒子は、
> 観察する心によってさえ、動いてしまう
> -だから、理想は現実を変え得るのです

まったく!

> (論理が)理論が、何の為にあるのか、

気持ちよく生きるため

> 優秀と劣等、だと思うのです
> 果の評価があって、はじめて、因を求めるのだから、、、、
> 単に、「これがあるとき、彼がある」と言う時は、
> 自性清浄としかいえません

やっぱり、そうか!
最初に読んだ印象が一番正解だった。
朝に「マニカナ道場」に書き込んだ内容と同じです。

それにしても
『中論』読み解かれているとは、すごい!

「出家したいぞ」にも新たに書き込んでいただいてすみません。
こんどはうまく載っています。

投稿: 管理人エム | 2006/07/04 15:32

>顔がないことも、あるのではないでしょうか

人には顔のないことは無いような気がします
現実的に、貴方が鏡を見るとき、そこにある顔は、
自分の理想と違う、と言ったところで、
日々の(?)より良いと決めた(これを理想と言わずになんと呼ぶのだろう)
選択の積み重ねなのだから(年齢さえも)

>サンスカーラもカーマも物質としての結実としたい
 ほお!

物質の定義を抜いて、感覚的に伝えることは、
危険 ? だと思いました

私たちが、実体があるように取り扱う、物体と、
心の動きは、係わり合いを持つと言うことです

もっとも小さい素粒子は、
観察する心によってさえ、動いてしまう
-だから、理想は現実を変え得るのです


>そうですね…しかし、わたしには「論理的な」理論でもあるように思います。

(論理が)理論が、何の為にあるのか、
と言うところに突き詰めると、
現実対処を抜いては、
つまらないし、寂しい( 感傷的でしょ )
全てのところは、感傷を含めて、
現実に突き当たるということです
 ―これは、ちょっと、卑怯な理の運び方ですか ?

>そうですか。、、、、ところを理解するのに時間がかかりそうです

長いを支えるのが、短い
高いを支えるのが、低い
深いを支えるのが、浅い  
これらの応用“ 問題 !”が、
優秀と劣等、だと思うのです
果の評価があって、はじめて、因を求めるのだから、、、、
単に、「これがあるとき、彼がある」と言う時は、
自性清浄としかいえません

>うまく伝えることが、「戯論寂滅」なのかと

確かにそうあるといいのですが、“青い”色感には、
人の生い立ちがかかわります


  ― 出家したいぞ  に対するコメントを
今日、書き込んだつもりでしたが、
タイムオーバーだったのでしょうか ?


投稿: 春間 則廣 | 2006/07/03 21:23

春間則浩廣さま

> それ以外に、方法は無いでしょう。自分の顔は、
> 自ら望む理想の結実なのだから、幻想どうりに見る。

顔がないことも、あるのではないでしょうか。
理想もないかもしれないが、少なくとも幻想はなくなる。

> サンスカーラもカーマも物質としての結実としたい。

ほお!

> 否定的評価を下す、その自身の評価によって、自身の
> 心の捉われている所を知り得る

痛いなぁ!

> 自らに、良いと評価するのは、”気持ち悪い”考え方
  -(良)これでは善と悪の対比から、にはなら無いかも

善いものを善いと知ることができれば…
顔がなければ… 可能だろうか。

> 普通は、捉われていることに気付かない
> そう思って(気付いて)いなくても
> 捉われているということ

これも痛いなぁ!

> 他に対する評価ーそこからしか、反省の糸口が生まれない

そうではないと言えるだけの根拠なし。

> 龍樹ではありませんが、「中道」と言う概念が、
> 起こるところが、捉われたところだと思います
> 此処のところは表し難いですね

な~る、…ですね。

> 私は、論理学を修めたことはないのですが、
> 正見、正語を心がければ、論理の辻褄は合うでしょう
> 但し、言葉の定義は、結構自由(自分勝手)だから、
> うまく伝わらないのでしょうね

うまく伝えることが、「戯論寂滅」なのかと思ったりもします。
この解釈、一般的ではないかもしれないですけど。

> 「中道」は現実的な、対機理論でしょうね

そうですね…しかし、わたしには「論理的な」理論でもあるように思います。

> もっとも、仏教は、それしかないのですが、、、

うーん…「しか」ですか。

> これがあるとき、かれがある、、、 これを
> 因があって、果がある と 言うことは、
> 一つ、論理の段階を飛び越していると思います

そうですか。おっしゃるところを理解するのに時間がかかりそうです。もっと熟読した方がいいな。

ううん、、むずかしいぃ~。

投稿: 管理人エム | 2006/07/03 19:50

>ボンヤリ輪郭だけを見ているような感じでした

実際、輪郭しかないともいえます

>ただ、“ 他人 ”の行動を認識することによって、自らの、行動を知ること も できる

それ以外に、方法は無いでしょう。自分の顔は、
自ら望む理想の結実なのだから、幻想どうりに見る。

サンスカーラもカーマも物質としての結実としたい。

評価の認識の”評価”は適・不適、快・不快、等々

>善い行為を善いと知り、悪い行為を悪いと知る

否定的評価を下す、その自身の評価によって、自身の
心の捉われている所を知り得る

評価は、思惟的価値付け

>そう!大半は…

自らに、良いと評価するのは、”気持ち悪い”考え方
  -(良)これでは善と悪の対比から、にはなら無いかも

>「捉らわれている」ときは、いつでも不善(悪)
それは、苦しみのもと。

普通は、捉われていることに気付かない
そう思って(気付いて)いなくても
捉われているということ

他に対する評価ーそこからしか、反省の糸口が生まれない

自らしていることを、否定したら、
たったひとり(独人)の味方を失う、、、「 天涯孤独 」
、、、正邪の評価は関係なし

大前提に自らへの信が無ければ、、、これが ” 洲 ”となる

悪いと知っていれば、悪いことはしない
苦しみは、認識を素通りして、自身に届く事がある
「無明」のようなものかもしれない

>捉われず、善い行為をすること、これが苦しみの滅になる
やはり、中道ですか…どうでしょうか?

此処のところを、一休の「 善 」の小文字から
考察してみたのです

龍樹ではありませんが、「中道」と言う概念が、
起こるところが、捉われたところだと思います
此処のところは表し難いですね

私は、論理学を修めたことはないのですが、
正見、正語を心がければ、論理の辻褄は合うでしょう
但し、言葉の定義は、結構自由(自分勝手)だから、
うまく伝わらないのでしょうね

「中論」は、宇井伯壽、(中村 元)、三枝 充悳、
(最近の毛色の違う)西嶋和夫、等々の訳を読み合わせていますが、
「中道」は現実的な、対機理論でしょうね

もっとも、仏教は、それしかないのですが、、、

縁起を相対性理論と対比させることが、行われますが、
その時ダールマは光(光速)にあてはまると感じます
まさに、アミターバです
これがあるとき、かれがある、、、 これを
因があって、果がある と 言うことは、
一つ、論理の段階を飛び越していると思います

(理も、物質なのでしょうね)

釈尊の言うように、依る所が無いと言うことは難儀なことです
親鸞のように、内なる阿弥陀に立てられても、結局は同じですから

また、取り止めが無いこととなりました、、、
( 次の書き込みの機会を、お許し下さい )


投稿: 春間 則廣 | 2006/07/01 21:01

春間 則廣 さま

やはり!!むずかしいお話だった!のですね。
レスしましょと読んでも読んでも、深い思索に追いつけず、ボンヤリ輪郭だけを見ているような感じでした(汗)。

> ただ、“ 他人 ”の行動に対する評価を認識することによって、
> 自らの、行動(業、行)を知ることが出来る

ただ、“ 他人 ”の行動を認識することによって、自らの、行動を知ること も できる


> 良い評価ではなく、否定的な評価によって、より良く把握できる

善い行為を善いと知り、悪い行為を悪いと知る


> 良いと思われる行動は、自分のしていない行い?

そう!大半は…

> 悪いと思われる行動は、自分のしている、捉われている行い ー これは間違いない

「捉らわれている」ときは、いつでも不善(悪)
それは、苦しみのもと。

1)逆に、善であるとき、確かに、苦しみはないだろう。
2)しかし、捉われずにしている行為は、苦しみはないかもしれないが、いつでも、即、善というわけでもない。

1)2)からわかること。
捉われず、善い行為をすること、これが苦しみの滅になる

やはり、中道ですか…どうでしょうか?

一休さんにうまくいけませんので、あとで調べてみます。


投稿: 管理人エム | 2006/07/01 12:21

意識に沿って行動しているということは、
行動を意識していること
完全な、行動の把握ではない
自ら、解釈したいように、意識する
願を立てる
その願も、全面的な認識ではない
日々(現実の)の行動に裏づけされた、解釈による意識
「不取不所取」とあるからという訳ではないが、
自らの意識の出所をつかみ得ない
ただ、“ 他人 ”の行動に対する評価を認識することによって、
自らの、行動(業、行)を知ることが出来る
良い評価ではなく、否定的な評価によって、より良く把握できる
良いと思われる行動は、自分のしていない行い?
悪いと思われる行動は、自分のしている、捉われている行い ー これは間違いない
しかし、そこに判断する、基準をもつ
悪いと判断できることは、悪くない状態を知っているということ
つまり、みずからの、「 苦 」の元を知っているということ
  ー 自分の考えだけれどもこれは問題がある

「善」ということは、悪くないと言うことか?
「苦」を導かないということか ? 、、、


永青文庫に一休の七仏通戒偈がある
http://www.sengoku-expo.net/tea/J/13-751.html
何故、 「 善 」が小さいのか?
 ー 利休の数寄の解釈は何か俗っぽい、、、


書き込みの後で、取り留めなく考えました。
「心」というところから、少し進んでみたかなと思ったりしています。

投稿: 春間 則廣 | 2006/07/01 00:18

春間 則廣さま

書き込んでいただいてありがとうございます。
第一巻の方が、第二巻より何か衝撃度が強かったような気がする管理人でございます。

> 私たちは、自らコントロールしていると錯覚する
意識のとうりに生きています。

なるほどなぁと思いました。
錯覚なのか?そう言われるとそう思えてくるところ錯覚の錯覚たる所以なのかもしれませんね。

「平和のために戦争する」の表現、わたしもちょっとひっかかったので、「お!」と反応してしまいました。

『ビックリ!』もお読みいただいて、感謝です。
さらに、検証をお願いします。
自分でもときどき読んでは冷や汗が出たりしております。

投稿: 管理人エム | 2006/06/30 22:55

私も一巻を読みました。
最初、すごいナー!と感心しきりでしたが、
読み進むうちに、 
ちょっと待てよ、、、、となりました。

256pー 私たち人間には意識があります、、、
 
こんなふうに考えてみました、

私たち人間には心があります。
心の働きに沿って生きています。
執着する心から、その心に沿って意識をなし、
その執着の内含する矛盾を意識し
(感じ)てしまいます。
つまり執着を意識します。
私たちは、自らコントロールしていると錯覚する
意識のとうりに生きています。

257p-生命全体のこころと自分のこころとをくらべると

これは、無量でしょう、、、

   -自分のこころの能力がどれくらい弱いか、、、

255p18行 参照 仮定の上での空論ではないでしょうか

259p-現在の瞬間の事実として存在している

常に、過去としての止まった存在を見ている
(但し、止観の解釈が現在のみを言うなら、つづく言葉の過去と未来を推測という言葉の整合性を失う)

262p―平和のために戦争する

戦争するために、平和という“概念”を流用する

今日、「心の分析」を注文しました。
また、お訪ねしたいと思っています。

「 ビックリ! 」は、最初の検証をほぼ終えました。
今のところ一つだけ、Ⅱ-9
認識主体が自己ではなく、認識対象の一つが自己
(夜摩天宮菩薩説偈品16 所取不所取)
補足Ⅱ-8  我 = 他 ∴ 無我 但し、
我自身を認識する主体?からの我の認識と、
他の存在の認識との差異があれば、無我は成り立たない。
(私は、未検証です、、、 )


以上、取り止めのない雑感ですが、お伝えしたくなり、
此処に書き込みました。


投稿: 春間 則廣 | 2006/06/29 11:30

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