« 2005年2月20日 - 2005年2月26日 | トップページ | 2005年3月6日 - 2005年3月12日 »

2005年2月27日 - 2005年3月5日

2005/03/05

主婦(シュフ)と沙門(シャモン)の考察

とりあえず一段落しました。予想外に苦しい論文でした。

2月は、我ながら、かなりもだえてましたわねぇ。
みなさまにもいろいろご迷惑をおかけしました。

一応終わってみると、どうやって一ヶ月過ごしたのか記憶がないわ。

論文って、書いてるときは、じつはもう勉強してないのよ。
勉強したことを使ってそれをもとにしてあれこれ書くからね。

だから、こんなに長くかかると、変な言い方だけど、勉強不足になってしまう。
はやく仕上げて、あの本読もう、とか、この本読もう、とか、やりたいことがいっぱい出てきて、
だんだん論文書いてるうちにフラストレーションがたまってきたりするから、こまるわね。

ま、論文はほどほどが一番よ。
といいつつ、今年は、あと二つは書く予定です…あれまぁ。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

さて、以上書いたら、気がゆるんできて、眠くて寝てしまいました。
@@@の線の上は昨日です。

昨日書く予定だったのは、おととい書いた「インド哲学はミスがない」ということについての考察だったのだが…
今日になってみたら「主婦」について、考察してみっかな…って気もしたので、こっちにしてみよう。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

古代インド。
「沙門(シュラマナ)」は、インドでは一般に出家修行者を示すことばです。出家して修行していれば、誰でも沙門と言われる。
主に男性だが、女性の場合ですか、…わからない。いたんですか?仏教だと比丘尼(びくに、乞食する女の人)といわれる。
だから、お釈迦さんも沙門だし、ニガンタ・ナータプッタ(ジャイナ教の開祖)も沙門である。
有名無名の人がたくさん沙門になったのだった。

さて、時は現代21世紀。
「主婦(シュフ)」は、日本では一般に在家居住者を示すことばです。ハウスにいてそれをキープしていれば、誰でも主婦といわれる。
主に女性だが、男性の場合「主夫(おもにおっと)」といわれる、なんだか変?
だから、……具体例が出てこない!有名人は主婦になれないようだわ。
有名人をぬかした無名の人が主婦になったのだった。

「沙門」と「主婦(夫)」、この二つの言葉は、対立する概念です。
まず時代がちがう。性別がちがう。家との関係がちがう。

前の二つはわかるとして、最後を説明すると、家から出て行く方が「沙門」で、家に入っていくのが「主婦」なのです。

互いにきれいに別れて対立しているが、両者をつなぐ一つ重要な要素がある。
共通点といってもよいでしょう(まぬけた文です)。

それは

けっこうルーズでいい加減な分類

という点です。
この一点によって、両者は深く深く結びつき、とても親密な関係にあるのです。

とにかく家から出て行けば、誰でも「沙門」になれる。ゴータマは王子様だった。
とにかく家に入れば、誰でも「主婦」になれる。清子さまはお姫様だった。

この例でわかるように、こんなに似ている分類はそうない、っと思う。
つまり、出入り自由なわけ。家からの出入りも自由なのと同じように、この分類からの出入りも自由だというのがいいところ。

出家から家に戻る。
家キープを止めて、そこから出ていく。

要するにですよ、とつぜんですが、
この分類に含まれる人というのは、ほんとうは「あやしい」集団だ、というのが、本論の趣旨なのです。
なに言いたいか、わかんね、ってんですか?

誰でも出入り自由だから、他の分類に入らない人は、みんなこの中に入りたがるということです。
つまり、本気で修行してるのか、暇したいからそこにいるのか、よくわからないような人がごろごろしてるのが「沙門」なわけですが、

一方

本気でハウスキーピングしてるのか、暇したいからそこに居るのか、よくわからないような人がごろごろしてるのが「主婦」なわけです。

出会ってみると、よくわかる。多才なチョーおもしろ集団の雰囲気があるのです。
だから、よく知り合うまで、互いに手の内かくして探りを入れあうのも、なかなかスリリング。
え?繪を描くの?個展開くってぇ!?
え?バンドやってんの?
え?通訳してたの?
え?エアロビクスの先生だってぇ!
え?ほかに洋裁の仕事もしてるの?

こんなにいろいろあるんだから、さりげなく
「いや、ちょっとインド哲学なんだけど」と言えればなぁ…

「哲学」までなら、みんなそれでも受け付けてくれる。
これにちょっと「インド」とつくだけじゃん、なんで、そんなに引くかなぁ。

ありゃ、最後はグチになってしまいましたが、
この「インド哲学」という響きには、「主婦」に対立する「沙門」という敵対概念のにおいがあるのかも、と思ったり。
沙門と主婦、思想的には、この二つはぜったい敵対する!
ブッダも純粋の主婦には冷たかったのだった。
純粋の主婦も出家にはつめたかったのだった。


ま、そんなわけで、まとめますと、

「沙門」に「主婦」、対立しながらも、二つはこのように社会に認知されてきている。
(時代的には、前者は古代に認知、後者は現代に認知で、差はあるけど)

が、しかし、イデアの中から生まれたこれらの分類は、現実との折り合いが悪い。
(沙門の方は理想を求めることからわかるとして、主婦もイデア?そうです。今では「家」は人々の安住の場としてのイデアになっている。そして、それを守るのが「主婦」だからね。)

だから、先ほどの「出入り自由」とあいまって、どうしてもこの分類は内実が不明になり、全然関係ないさまざまな人々が入ってくるのであった(わたしも含む)。

つまり、これらの分類は、
現実にあわない人々を救いとる、「お助け」分類なのです。

そこで、最終結論!

いい加減な分類って

ホント!

…いいもんですわねぇ。

※やっぱ本音に落ち着いただけだわ。(考察はなんのため!涙)
それにしても、「主婦」の考察により、いまだ知られざる「沙門」の実態が浮かび上がるとは…やっぱり、「あやしい」集団だったのか…

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/03/03

仏教、キリスト教、インド哲学教

人間というのは、どんどん変化するものですが、わたしも人間なのでどんどん変化します。
最近、本気で

「インド哲学はすばらしいのではないか」

と思うようになって、その思い止みがたく、通奏低音のように常時鳴り響くありさまです。
昔は、

「西洋哲学だけがすばらしいのではなく、インド哲学だっていいところがあるさ」

っていう思いでしたが、今はそんなもんじゃない。

「西洋哲学って、けっこう欠陥が多いのね、それに比べてインド哲学は深いしミスがない」

この「インド哲学はミスがない」という点については、軽く考えてはいけないと思いますよ、ほんと。

学派の根本教典が、スートラ(短い文句で書かれたものを集めた)の形で作られているというのは、あんがい大きい。それは変化せずに、伝えられていくからです。つまり、そこには「真理」が入っているということです。

なぜそう言えるかといえば、それは、インドの人が求めているのが、そのものずばり「真理」だからだと思います。
究極の目標が「解脱」であるということからもわかります。
「真理」を知らなきゃ「解脱」できないですもん。

「解脱」なんて非科学的だ、とばかにする人もいるかもしれない。
そういう人に対しては、インド哲学は何も言わない。黙っている。
なぜかといえば、説明するのがとてもたいへんで、わかる人にしかわからないからです。

「解脱」そのものが本当かウソかということばかりに気をとられているなら、いつまで経っても堂々巡りだろう。
インドの人がすぐれているのは

「真理」を求めたら、最後は「解脱」にいたると考えた、その「論理性」にある。

ここに気がつかないなら、現代哲学はインド哲学を超えられない。
この「解脱システム」は、今まで考えられた「幸せになるための理論」のうちで最高の部類に入ると思う。
「輪廻転生」も、そのシステムの中の重要な要素なのです。

わたしたち現代人は、自分たちがそう思っているより、圧倒的に愚か者なのです。

ほんとうにそう思う。だから、現代には、悩みや苦しみが多いんだと思う。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
これって、布教かな?

お、時間がない、行かなきゃ。
なんか、中途半端だけど、ごめん。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/28

龍樹、手のかかるヤツ

龍樹の話どうだった?

あと、まだまだおもしろい展開が続くけど、論文にするので失礼しますわ。
できたら読んでね。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
龍樹については、龍樹専門ではないので、
ほんとうは、えらそうに何か言える立場ではないことはわかっているけど、
どうしても、一言二言言いたくなってしまう。

なぜかと言えば、彼についてはとてもよくわかるからです。
完璧に読んだものは『方便心論』一冊。
あとは、つまみ食い。

しかも、『方便心論』が龍樹の作であることは、「まだ」学会で認められているわけではない。

だから、こんなことぜんぶウソだと思う人がいても仕方ないかなと思う。

でも、あえて、

『方便心論』は龍樹の作で、
ことばについての空思想は『方便心論』の「言失」という二つの規則にまとめられていて、
それによって、当時の学問世界に衝撃を与えた

といいたい。

なぜ、そういいたいかというと、
そう考えると、彼の哲学思想関係の著作とされるほとんどすべてがきれいに解明でき整合的に説明できるからです、今のところ。

わたしに確信があるのは、

龍樹の、『方便心論』作者の、と言ってもいいかもしれませんが、
言っていることが、みなよく理解できる

からだけではないのです。

じつは、龍樹のものでちゃんと読んでない部分についても、
みなよく理解できるからなのです。

変な言い方かもしれませんが、そうなのです。
『方便心論』の内容からすると、おそらく
「こういうことも言っただろう」とか
「このことはこう考えたはずだ」とか
想像することも多いのです。
そこで拾い読みしたり、あれこれ探ったりすると、今のところそれがぜんぶピタリとあたっているのです。

ということは、彼は論理的に一貫しているということです。
だから、哲学関係でいえば、どの作品が龍樹作かということは、ほんとうは、すぐわかることだとわたしは思います。

龍樹には、龍樹にしかない文脈というのがある。

それを語ることのできた人は、龍樹以後にはいまだ一人もいないから。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
しかし、なんで、わたしがここまで龍樹に身を入れなきゃいけないかと自分でも思う、トホホですわ、まったく。

だって、龍樹に敵対してたニヤーヤ学派の研究やってんですもん。ほんとはね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年2月20日 - 2005年2月26日 | トップページ | 2005年3月6日 - 2005年3月12日 »