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2005年2月20日 - 2005年2月26日

2005/02/26

戯論寂滅(けろんじゃくめつ)とヨンさまの深い関係

完全に仕事をぶっ飛ばして、論文に突入することにした管理人です。

だけど、何だか呪われてるみたいだ。
集中できそうになると、何かが起きる。

宅配も来る。
回覧板も来る。
ゴミ当番も来る。
新聞の集金も来る。
アンケート調査も来る。
牛乳配達の集金が来る。
そうこうすると電話が鳴る。
新規メアド取得に奔走する。
買い物も行かなくちゃならん。
ファックスまでがピィーっとなる。
ファックスはとうとう半壊れになる。
韓流ドラマのビデオ取りを頼まれる。
起きた順に顔を出す息子に食事を出す。

わぁ、きれいに並んだ!ピラミッドだぁい!(何やってんだ、「ことばで」遊ぶんじゃない!)

あ、それでね、こういうわけで、そんなにはかどってる訳じゃないけど(遊んでるのもあるぞ)、
でも、とにかく論文にかかれて比較的心穏やかな管理人でした。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さて、龍樹の話をしたいわね。
みんなに話したくってうずうずしてたのよ。

前に、よそのサイトで、
「龍樹は言葉を超えろと言って、言葉を否定している」
という内容を読んだことがあるけど、

そうじゃない!

と言いたくて我慢するのにすごく苦労したわ。
でも、今までの研究からすると、そうみんなが考えても仕方ないと思う。

それに、じつは、まったくまちがっているわけでもない。
ことばが必要なくなる境地というのもあることはある。

でもね、龍樹は、こう言ったのよ。

戯論寂滅せよ!
「ことばで」遊ぶな!
「ことばで」戯れるな。
ことばでピラミッド作るな!
ことばの虚構世界を破壊せよ。
ことばに本体はなく空なのだから。

龍樹っ!あんただって、ミニのピラミッドになってるぅ!
管理人ばっかり、攻めないでほしわよ。
戯論寂滅(けろんじゃくめつ)っていうのは、ことばによって成り立つこの虚構の世界を破壊するということだけど、

じっさいに何したかっていうと、こう言ったのよ。

これから、ことばのいけない使い方をいいます。
これはやっちゃいけない規則です。
これからはこの規則をタブーとして守るように。

規則1
「意味が異なっていないのに、くり返し述べること」

規則2
「言葉が異なっていないのに、くり返し述べること」

へぇ、なにこれ?
じゃ、具体的にいいます。

規則1の例。
カウシカと言い、またデーヴェーンドラ シャクラと言い、またプランダラと言うようなものである。

カウシカも、デーヴェーンドラ シャクラも、プランダラも、みなインドラ神の名前です。
デーヴェーンドラ シャクラは、寅さんでおなじみの帝釈天のもとのことばよ。

ふうん、やっちゃいけないのね。
別にたいしたことなさそ。じゃ、二つめの規則は?

規則2
インドラと言い、また、インドラと言うようなものである。

ふうん、別にどうってことないんじゃない。くりかえしちゃいけないってことだけじゃん。
おんなじことばはくりかえしちゃダメなのね。
例えば、「ばかばか」、って言っちゃいけないのね。

それから、意味が同じことばも使っちゃいけないのもわかるわ。くどくなるからね。
「馬から落ちて、落馬しました」、って言うようなもんね。

別に変じゃないし!龍樹って常識人じゃん。
何でこれが戯論寂滅なの?

そうかな?ほんとうに?
規則1は、よく見てごらん。これは、言い換えてみるとわかるよ、じつはすごい規則なんだから。

「同じ意味は二度と再び述べられない。言われる言葉は常に新たな意味をもつ。」

え?

いつも別なこと言うことになるわけ?

そうね。そういうことになるわね。

ええ!?そんなことできないよ!何にも言えなくなっちゃうじゃん。
一度プランダラって言ったら、インドラを意味することは二度とできなくなるなんてぇ。
「ヨンさま」って言ったら、二度とヨンさまのことは言えないのね。
「ヨンさま」のお話も一回きりだなんて、さびしすぎる!
仕方ない!次はベッカムさまにするか(おい!)。
浮気者の人生を勧めてるわけねぇ。それも楽しいかも(オイ!管理人っ!)。

あ、失礼!じゃ、インドラをくりかえす方はどうなるのよ。これも浮気者じゃないの?

規則2は、こうなる。

「同じことばが出てくるときには、たえず新たな意味をもつ」

ほお、同じことばは出ては来るんだ。
でも、その意味は前とはちがうのね。
じゃ、もう一度「ヨンさま」って言ったら、それは、ベッカムさまのことかもしれないのね。
じゃぁ、さ、浮気しても、浮気が気づかれない、っちゅう、そういう法則になるんじゃない。

ヨンさま、ヨンさま、ヨンさま。
二番目の「ヨンさま」はベッカムさまで、三番目の「ヨンさま」はイルハンさまのことでした、なんてことも起こるわけ!

信じらんないわ!
誰のこと言ってるかわかんないじゃん。

こんな規則、使えないわよ。
「ヨンさま」ひとすじの一途なわたしには無理だわ。
(いつからヨンさまひとすじになったんだ!)

いまからよ!いいのよ、何でも。
とにかく、ひとすじでも、ひとすじじゃなくても

無理!
ひどい!
ありえない!
ゆるせない!
とんでもない!
考えられない!
ことばが使えない!
言語世界が壊滅する!

あ、また、ミニピラミッド!
龍樹っ!これ、とってもひどい規則だわよ。

でも、不思議ね。こんな規則作ったら、龍樹だって、ことば使えなくなるんじゃない?
自分だけは例外、って言ったら許さないわ。
そうよね、みんな!

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みなさん!これはほんとうに龍樹が言った規則です。
そして、この通りにことばを使いました。

どうなったでしょう?
考えてみてください。

たんに「ことばを超えろ」なんてのより、ずっとずっとすごいことがわかりますか。

まず、龍樹のこの規則によって、インドの文献研究の中で、龍樹のあたりだけが、文献学的な研究が不可能になりました。
なぜなら、文献学というのは、同じことばを比べたり、同じ意味のことばを探していったりする研究方法だからです。
「おなじことばの意味は同一である」という基本の考えに成り立つ研究方法だからです。

龍樹は、現代の文献学だけではなく、現代論理学にも爆弾投げています。
現代の分析哲学にも重要な示唆を与えています。
インドが言語論に強いのは、龍樹のこの戯論寂滅のきびしい批判に耐えたからです。

「ヨンさま」ひとすじでいけるかどうかの瀬戸際よ!
真剣に考えてよ!(まるっきり動機が不純!管理人てば)

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2005/02/24

すべての道は、ローマ、え、いや、論文に通ず

今年はホントに雪が多いです。
人に会うと

「イヤ、よく降りますねぇ」

というのが挨拶です。

とうとう、裏にある「101人乗ったらどうなるかわからない」物置が、すっぽり雪に埋もれてただの雪山と化してしまいました。さすがにこんなのはじめてだわ。
ところにより雪は2メートルはいったかな。

それで、まだまだ降りそう、ってのがこわい。
勘弁してよぉ。もう3月なんですけど。

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さて、また、
私事ではございますが、
あまりに調子よく日記を書いていたためか、

「イヤ、よく書きますねぇ」

と、人からあきれたように言われてしまいました。

ま、人に言われなくても、自分でもそう思ってたとこよ。
何か自棄(やけ)になっているかのように、日記書きまくっておりますが、
じつは自分ではなぜだかわかる。

はっきり言って、逃避モードになってるんですわ。論文から逃れようと。

このエネルギーが全部論文にまわれば、あっという間に出来上がるかもしれないのに。
やっぱ、攻めの姿勢が欠落してるのよね。

なので

心を入れかえよ。
よし!今から、論文のことしか考えないことにするわ。

そうよ!龍樹が繰り広げた驚きの批判!
現代論理学をも切ってしまうその切れ味するどい「空の論理」を何とかまとめることにするわ。

だんだん気分でてきたわ。

言葉は魔物だわ。使い方をよく知らないとね。
今度、その話書いてもいいわねぇ。
龍樹が何したか、教えてあげる!
すごいから。

論文と同時進行すれば、日記と論文と両方できるわけだしなあ。
うまく書けそうだったら、そうするわ。
でも、ダメかもしれないから、そうしたら、思いっきりずっこけてね。

久方ぶりに、「攻めの姿勢」がよみがえってきたじゃん。

あ、そうだ!『方便心論』の中の「似因」

一・七・二・一【隨言而為生過】(言葉にしたがうと誤りを生ずることになるもの)

が研究テーマだからね。予習しといてね。

るんるん!(単純思考だなぁ、管理人て)

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2005/02/22

老いる身でありながら老いより自由になる

日差しも春めいてまいりました今日この頃、みなさまいかがお過ごしですか。
お元気で何よりですわ。

え?管理人ですか?
いちおう生きてるんですけど…女工哀史の世界で…うう(オイ、泣くな)。

今日も今日とて、先週に続き補講に出かけて授業を二つ済ませ、帰ろうとしたら、
「あ、せんせ、試験問題ありがとございました、これ、さっそくですけど…」
っと、やり終えた答案プレゼントされちゃいました。

間髪入れず、って感じです。

「ど、ども、あのぉ、いつまでに?」
「来週でおねがいします。」

うう、きついのう。
昨日の「攻めの姿勢」も、むなしく響きますわ。
この答案で、どうやって遊べというの?
でも「遊べ」と言ったのは自分だったわね、ははは…力ないす。

でも、まだ、いくらかエネルギーが残っているらしく、論理学の授業しながら、まったく関係ない阿含経典の解釈を思いついたのは、感動モンだった。
けっこう目から鱗の発見だったんだけど、パワーがないので、驚くのも省略する。

みんなに話したいけど、これを話すためには前置きが延々といるので、これも省略する。

いつか、「お釈迦さんの言語論」というような題名の論文を書けたらいいと思うわ。
他にも、いろいろ、阿含経典の読み方では、新しい解釈をみつけているのよ。

いつか、お話しするわね。

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お釈迦さんの言行録である阿含経典には、そのときどき胸を打つ言葉がある。

どの言葉も胸を打つはずのすばらしい言葉なのだと思うけど、自分の能力がついていかないので、そのときそのとき、蛍のように、自分の琴線にふれた言葉だけを光っている言葉として拾い上げているように思うのであります。

経典の中で、その言葉だけが特別光って見えるのは、たぶん、わたしの心がそれを求めてるんじゃないかな、っと思うのですわ。だって、ときどき光る言葉が変わるからね。

それで、今、耳に残って忘れられないもののうちの一つ、それをあげます。
「半(なかば)」という題の中の「善き友」という経典。

たびたび、ブッダが「善き友」について語るのを聞いて、アーナンダはその「善き友」という主題の重さをこの道の半ばにあたるものかと考えて、自分の意見を述べるのですが…、っという内容です。

アーナンダがお釈迦さんに次のようにいいました。
「大徳よ、よくよく考えてみると、われらが、善き友、善き仲間のなかにあることは、この道の半ばにもあたるように思われます」

ブッダは、それに答えて
「アーナンダよ、それはちがう。そう考えてはならない。アーナンダよ、それがこの道のすべてである」
というのです。
そして、さらに続けます。

「アーナンダよ、それは、このことによっても知ることができるではないか。

アーナンダよ、なんじらは、わたしを善き友とすることによって、
老いねばならぬ身でありながら、老いより自由になることができ、
死なねばならぬ人間でありながら、死より自由になることができるのである。

アーナンダよ、それを考えても、善き友をもち、善き仲間とともにあることがこの道のすべてであるとわかるではないか」
(訳は、増谷文雄先生『原初経典 阿含経』より。)


「老いねばならぬ身でありながら…」の一文が、いまんとこ頭にこびりついて離れていかないのですよ。
現代人の束縛の多い人生を考えると、

「老いる身でありながら老いより自由になる」
「死なねばならぬ人間でありながら、死より自由になる」

というフレーズ、いいすね。
やっと、元気でてきたぞっと。
んじゃっ!

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2005/02/21

人間、攻めの姿勢ですよ、攻めの。

カレー、あらため、カコクな管理人日記でございます。

どうして管理人には次々と仕事が降ってわくんでしょう。
ぜったい、天は暇を見逃さない。
必ず暇を埋めるように仕事を降らせるのです。

しかし、管理人というのは、天の采配などへっちゃらだい、という強い心を持って生きているので、どんなときにも遊べるのです。
このように、「天の配剤などぶっ飛ばす」という、わたくしの天に対する「不滅の信仰」により、今日まで天(神)のご加護ゼロで生きてまいりました。

まったくなぁ、いばることではないでしょ、管理人。

つまり、どんなときにも遊べるというのはどういうことかというと、まぁ、なんといいますか、天を相手に遊んじゃえばいいんですわ。
ま、天の裏をかいて、むりやり遊んじゃうんですわよ。
言い換えれば、天(神)をもてあそんじゃうわけ。

お、まずかったかな。天に聞こえたらやばいかも。

別の言い方すれば、降らせた仕事を魔法の杖のひとふりで遊びに変える!
これがコツ。

どんな仕事も、楽しめれば、それは遊び。
どんな遊びも、楽しくなければ、それは仕事。

やっぱ、それにはそれなりのテクがいる。
それが、上に書いた表題の「攻めの姿勢」なのです。
攻めてるときは、遊んでいるのよ、わかった!管理人!

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
何で、こんなこと書いたかっていうと、ね、はぁ、試験問題も作ったし、答案つけたし、さぁ、やっと論文、って思ったんだけど、ハァ、もう書けない…忘れちゃってる上に、もう完全に精神が萎えとる、負けてる…だ、ダメかも、って気がしてるからよ!

思い出すんだ!
天に逆らってきた日々を!
攻めだ!攻めの姿勢だ!遊びの精神を思い出すんだ!管理人!(感嘆符多すぎ!)

腕白でもいい、たくましく育て、じゃなかった

でたらめでもいい、とにかく書け!

これが論文の精神よ!
(で、でも、でも、これなら、天をもてあそんでるんじゃなくて、世間をもてあそんでるんことに…)

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2005/02/20

ヨーガよもやまばなし

昨日は、降りしきる雪の中を出かけ、ヨーガのみなさんとのお話でした。
ああ、よかった!
受けたわ。
すごく注意深く話を進めたので、けっこううまいこといったような気がする。
(そのわりに漢訳経典の漢訳のやり方なんか話して大いに脱線したが…時間の半分は脱線してた…かも)

現代人が、欲望に振りまわされ、揺さぶられ、従わされている姿をあれこれ語ったのがよかったかな。
「好き勝手」にするのが自由だと思っている、例の現代の若者の話も混ぜ込みながら話したら、けっこう納得ものでした。
コマーシャリズムは消費を煽る。
(「欲しいときに買わないとなくなりますよ、支払いはあとでもいいんですから。」)

学校は「自由」という言葉を「好き勝手」の意味で使い、そう教える。
(「整列!自由に動き回るな!」「この時間は自由行動になります。」とかね。)

どうしても「好き勝手にする」というのが、自由意志を発動することだとなってしまうのは無理ないのかなぁ。

でもその結果…
我慢できない欲望。
欲望のままに行動。
さらに膨らむ欲望。
コントロールできない自分。
満足できない自分。
不幸な自分。

現代人はつらいのです。

なんて話を。
あとは、ヨーガの心の制御へと話がふられるのでありました。
そして、自己・身体・心の構造あれこれ。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@
それと、わたし的に、あらたに進展があったのであった。
(やっぱ、シヴァ神にはお祈りするモンね。)

『ヨーガ・スートラ』は4-5世紀の作と言われていますが、
その前、そうねぇ、紀元前後あたりからその辺までヨーガの学派がどうであったか、
あまり知られてないように思うのよ。
いろいろ見ても、詳しい説明が載ってないしね。

そして、『ヨーガ・スートラ』っていうのは、4章から成り立っているんだけど、
それらの中身が部分部分バラバラで統一性ないので、
いろんな部分を寄せ集めて一つの教典としたと言われているの。

八支ヨーガの部分が一番古くてあとつぎはぎ…って感じです。いい加減ですみません。
サーンキヤ思想はモチ、下敷きにしてますが、仏教の影響も強い。

いったい誰がどんなことしてまとめたんでしょうか。
管理人の意見では、ヨーガをやってる人は実践には強いけど理論は得手ではないから、
いろんな説が出回って、哲学的に確立してきた頃に、いいとこ取りした感じはあると思う。
つぎはぎしてるのも、そのせい。

ま、ここまでは誰でも考えることだろうと思うんですが、
どうもこの『ヨーガ・スートラ』に一枚かんでいるのがニヤーヤ学派の思想じゃないかって気がするのよ。
ごく一部なんですけど。
このあたり、まだまだあやしいので何とも言えないんですけど、
もうちょっとシヴァ神にはお団子でもお供えしてみれば、
もっとなんかひらめくかも…って、なんじゃ、そりゃ。

ふうむ、何か見えそうな予感…だけど、予感だけか。
それでも突破口を見つけたので、そのうち何か言えるかも。
期待しないでね。

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さあて、今日は、もう今週なのね。(よく考えちゃダメよ、この文。)
パンクしっぱなしの日程は今週にずれ込むだけだった。
なので、今週もめちゃくちゃ忙しいだけだっ!

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