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2005年2月6日 - 2005年2月12日

2005/02/12

言葉ってヤツは…

言葉はむずかしいですね。でも、おもしろいですね。

掲示板1854の「テスト」のように、言われてはじめて「そうなのね」と気づくこともありますし、うすうす「どうかな、まずいかも」と思いながら使って、やっぱりまずいと言うこともあります。

まずいと思ったら使うなぁ、っという声もあるかと思いますが、でも、ほんとにまずいか、まずくないかわからないので、やっぱり使って反応みたい!ってこともあるのですよ。なにせ危ない言葉は魅惑的でもありますし。

それでも、ある種の価値を含む語や、多義の表現や、「今だけはやり」というような特殊な言い方は、誤解を招くと思って避けることはあります。また、意識的に使うこともあるけどね。
それだけでなくて、何でもない日常の表現でも文脈の中で問題をはらんできたりもしますから、あなどれないですね。
例えば、どこかの首相の言った「人生いろいろ」とかね。

"How are you?"
"I'm fine, thank you. And you?"

と暗記して、必ずワンパターンに"I'm fine, thank you."と答えていたら、とうとう相手が笑って"Really?"と聞いてきたという話もありました。「仏の顔も三度」ってのは、ちょっとちがうか。

このように、どんな気の利いたせりふも、二度目に聞くともうまぬけて聞こえます。
逆に、タブー視される毒のある差別的な言葉も、うまく用いて自分の主張を引き立たせる役目をさせることもできます。

言葉には決まった用法はない。

こう言ったのは龍樹です。
龍樹の言葉で言うと「言葉に本体はなく空である」となりますね。

二度同じ川に足を入れることはできない

といったのはヘラクレイトスですが、これを龍樹が言うと

二度同じ言葉を同じ意味で使うことはできない
(『方便心論』「言失」で説かれる規則)

となります。「そうしちゃいけない」という強いきまりとして読むこともできますが、「どうせそうなっちゃうんだから」という事実として読むこともできるでしょう。

ほんとうは、よくよく考えると一度述べた言葉は二度と再びまったく同じ意味で用いられることはない、常に文脈を変え、意味を変え、新たなものが生まれてくる、と、確かに、確かに、言えるかと。

だから、「正しい敬語を使いましょう」キャンペーンがいつも失敗するのは自然の摂理なのです。おや、まちがったかな。いつも成功するのは自然の摂理なのです、といっても同じかな。
だって、「正しい」ってのが、みんな何だかわからないからです。
述べられた言葉はいつでも正しい、といえば、人はいつでも正しい敬語を使っていることになる。
敬語入っていない場合ですか?
それならますます確実に正しいです。

お客様にはこういう風に言いなさい。
例えば、「いらっしゃいませ。お待たせしました。ご注文は何にいたしましょうか。」と。

そこで誰でもマニュアルどおりに言いますが、マニュアルどおりに言っているのに誰も正しい敬語だとは思わない。

だから
店員「毎度ありがとうございます。」
客「初めて来たんだけど。」
なんて、返されちゃう。

店員「お待たせしました。」
客「はい、お待ちしました。」
うーん、イヤミね。

店員「ご注文はおきまりでしょうか。」
客「はい、とっくにね。」

ここから、わかる、龍樹の言ってることが正しいってことが。
だから、あえて「正しい言葉遣い」を決めようとすれば

くりかえされる言葉は、いつでも正しくない。

と言わなければならない。ということは、マニュアルは廃止されることになってしまうのです。

つまり、「正しい敬語推進」キャンペーンの最大の敵は、正しい敬語推進委員会の出版する『正しい敬語を使いこなそう』という、用例を収めたマニュアル本だったりするのです。

お後がよろしいようで!

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2005/02/11

古本屋さん

大雪が降った翌日東京に出かけ、吹雪いてる真っ最中に帰ってきたゆきだおれ(?)の管理人です。

若い頃、水道橋からお茶の水にかけての古書店を一軒一軒しらみつぶしにまわって、神保町1丁目あたりで力尽きて死にかけた記憶のある管理人は、今回はとびとびにまわって、何とかうまくいったかな。少し古本屋さんの数も減ってるかも?

インターネットがあるのに、と言われてしまいそうですが、本の情報はコンピュータの中に収まりきれまいということで、この目でチェック!

なんてことより、とにかく
本屋さん、とくに古本屋さんというのは、魔法の世界の入り口なのです。

言ってみれば、人間の妄想や妄念を四角くしたものが「本」と名づけられているのです。
本屋さんの中には、妄想が重なり折りたたまれて積み重なって売られているのです。

うーん、そう思えばけっこう妖しい世界ですね。だから、人を惹きつけるんですね。

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2005/02/07

お出かけ前に一考察

宗教者と学者の問題、ここまで人気が出るとは!
なぜ?

みんな、あんがいテスト好きなのかしら。
これからは、全部テスト形式にしてみるのもおもしろいかも…ね。

あれ?ところで、東京行くんじゃなかったの?

あ、そうなんだけど、行く前にちょっと考察。
宗教と学問  そのちがいとは?

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
学問は宗教とはちがう方法論で成り立っていると言われるがほんとうにそうなんだろうか?
最近、どうもこの点に疑問を感じて仕方ありません。

学問は、あくまでも客観的で実証的と認められなければなりません。
「主観的」と判断されるのは、学問にとってはいいことではありません。

しかし、何書いてあるかを知るためには、主観に頼るしかないわけで、本気で知りたいと思ったら、主観をフル回転(主観て回転するのかな?)させなければなりません。
とくに宗教的な特別の作品については、ミイラ取りがミイラになることをおそれては、その作品にせまりえないと思うようになりました。

たくさんの研究を読むと、その研究対象から多くの成果を引き出しているすぐれた研究は、必ず研究者が自己の存在をかけて取り組んでいます。最初はどうかわかりませんが、結局、自己の主体性にもとづいて研究していくとどんどん信じていくことになるのです。

ということがわかってきて、まずいぞと。

いちおう、表向きは(学問やってるので)仏教徒ではないといいながら、龍樹やってるときはほんとはまるっきりその思想に共鳴してるんですわ。つまり、どんどん信じてくる。そして、信じてくればくるほどわかってくる。わかりたいから、もっと真剣に信じようとする。

ということは、宗教者になってるんだろうか?
そうなると、西洋的な学問の定義では、もう学問にならないのかな?

知りたいから主観を活用する。
主観を活用すると学問にならない。
学問にならないと「知った」とはいわれない。
矛盾だなぁ。

だから、ね、思うんだけど、客観的で実証的っていうことは、学問研究にとって、そもそも、ほんとうに、ほんとうに成り立つのだろうか?それによって、一体何がわかるんでしょうか。

大いに疑問が渦巻いているのでありました。現在進行形でございます。
それじゃ、とりあえず、疑問のまま出かけよ。

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2005/02/06

お知らせ

今日は、午前中、雪祭りでにぎわう街中で、高校時代の古い友人に会いました。
十何年ぶりの再会。
しかしながら、同じ年頃の子どもがいるので、妙にシンクロナイズドしています。

よし、ここで一度会っておけば、後十何年会うことがなくても、これでもたせることができるわ、大丈夫、っという変な計算が働いてしまう。
言ってみれば、一点豪華主義的再会、またの名を「ワンポイント再会」。

しかし、もうちょっとましなこと考えたい!

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さて、とつぜんですが、明日から10日まで、ちょっと出かけます。
更新できませんが、かまわず書き込みなど遊んでいってくださいませ。
帰ってきましたら、お返事などなどさせていただきますので、よろしく。

どこに行くのかって?
花の都東京です。

何かおもしろいネタでも仕入れてこれたらいいなぁと思いますが。
それより、飛行機飛ぶか心配した方がいいかもね。大雪だっ!

それじゃ。

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