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2005年10月30日 - 2005年11月5日

2005/11/05

ブッダ論理学!!自己責任の論理学を学ぼう!

わたしたち現代人の論理学では、言葉を上手に使えない。
言いたいことも素直に言い表せないし、不自由な言い方でごまかさなくてはいけない。

それは、論理学が、「ならば」の使い方をまちがって教えたからだと思う。
よく「ならば」のパラドックスが、問題になるけど、
パラドックスがあるのは「ならば」にあるのではなくて
論理学者の頭にあるのじゃないかと思うんだ。

だからね

自分の見たこと・考えたことを自分の責任で言えるような論理学を持とうじゃないか!
ってのが、
今回のメッセージなんだ!

言葉を正しく使うために論理はあるはずだ!
論理のしもべになるために言葉があるのじゃなくて。
でしょ!

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さぁ、「ならば」をべんきょしようぜっ!
今日のべんきょだよ。

「ならば」は、大きく三つの用法に分けられる。

#####################
#                            # 
#  (1)ゆるい「因果関係」を表す場合      #
#  (2)「理由づけ」を表す場合          #
#  (3)言葉を定義づける場合          # 
#                            #
#####################

(1)は、とてもよく使われる「ならば」で、次のような用例がある。

  そんなにコーヒーに砂糖を入れると、すごく甘くなるよ
  走っていけば、まだバスに間に合うな
  火のついたたばこをポイ捨てするなら、山火事になるかもしれない
  水うがいをするなら、インフルエンザにかかりにくい
  困ったら、わたしに電話をしてください

「~かもしれない」も「~してください」も、コミュニケーションの場合には用いる言葉だから、使える表現に含めよう。
論理的には、もっと断定的に「山火事になる」とか「電話をする」とか、言い換えても良い。
なぜいいかというと 
 
  P Q    P*Q        
  1 1     1            
  1 0     1(※ここがミソ)
  0 1     0
  0 0     1

という真理表をもつ、「*(ならば)」を用いているからです。、(「P」「Q」は命題、「1」は真、「0」は偽)


これは、第二番目の(※印)、Pが真、Qが偽のときも、真として用いられる「ならば」です。

だから、
たばこのポイ捨てしたけど山火事にならなかったとしても、この文は、まちがいだとは思われないのです。
この第二番目のケースを考慮するから「かもしれない」というあいまいな表現になるのでしょう。

この「ならば(*)」の特徴は、第3番目のPが偽、Qが真のときだけ偽ということです。
そこで、第3番目と第4番目の場合を応用して、こんなことが言えます。
Pが偽の時、Qが真(第3番目のケース)ではなくて、偽(第4番目)であれば、
P*Qは真となるわけですから、

「Pでないなら、Qであってはいけない」と言えます。

ここで、「ブッダの公式」としてまとめられる二つの式が導かれます。

  1 Pであるならば、Qである
  2 Pでないならば、Qでない

たとえば、「たばこのポイ捨てしないなら、山火事は起きない」と言えるなら、先の「たばこのポイ捨てするなら、山火事になる」は、正しい文として確信がもてるわけですね。2は、本当にP*Qが正しいかどうかを確かめる公式として使えるのです。えらいぞ!お釈迦さん。

この「ならば(*)」は、日常もっともよく使います。まとめると、

  a)事実と事実のゆるやかな関係を表す法則的な「ならば」
  b)人と人とのゆるい約束ごとを表す打診的・推測的な「ならば」

として頻繁にでてきます。

みなさん、よく使いますね。でも、これらの例は、今の論理学の教科書には載っていません。
この「ならば」は、今の論理学でうまく説明できないのです。

それでは(2)に行きましょう。
(2)は、(1)の理由づけとしてよく用いられる「ならば」です。

(1)の前件と後件をひっくり返すと出来上がります。
「前件」というのは、「ならば」の言葉の前にある文です。例えば、 「そんなにコーヒーに砂糖を入れると、すごく甘くなるよ」という文では、「そんなに(たくさん)コーヒーに砂糖を入れる」という文です。
これに対して、「後件」は「すごく甘くなるよ」です。

ひっくり返すと
「すんごくコーヒーが甘いなら、相当たくさん砂糖を入れてるね」
となります。

この場合、時間が入っていませんので、現在形になったり、推測などの表現形式になります。
または、前件と後件は同じ時制で語られたりします。
判断している「時」が、今現在なのです。では、ひっくり返した文を、全部あげておきましょう。

  コーヒーがすごく甘いなら、相当たくさん砂糖が入っているよ
  バスに間に合ったのなら、走ったにちがいない
  山火事になっているなら、おそらく火のついたたばこのポイ捨てだろう
  (こんなに流行っているのに)インフルエンザにかかっていないなら、水うがいの効果ですね
  お電話をくださったということは、何かお困りのことがあるからでしょうな。

これが、論理学では、含意の「ならば(⊃)」として真理表で表されます。

  P Q    P⊃Q        
  1 1     1
  1 0     0(※ここがミソ)
  0 1     1
  0 0     1

でも、論理学の本には、このような「ならば(⊃)」の実例として、上のような文は用いられませんでした。(まちがって用いた場合を除けば。)

実際には、論理学の実例で用いられるのは、概念と概念の包摂関係や、集合と集合や、集合と要素の間の関係を表す、いわば、論理上・言語上の関係が主でした。

  ニュートンが物理学者であるなら、彼は科学者である
  100が4で割り切れるなら、200だって4で割り切れるさ

こんなかんじです。論理学では、現象的な事実にふれる発言を避けるのです。

それは、へたをすると科学が扱う問題にふれてしまうからです。
例えば「ビタミンCのたくさん入ったレモンなどを取ると風邪の予防になる」と言えるかどうかは、科学的に証明するべきことで、論理学では、真か偽か判断できないからです。
そして、また、科学も真偽についてはとても慎重です。
帰納的な手段を主体とするので、真理は、簡単に決定できないという態度を取るからです。

だから、「雲があると雨が降る」というこんなありふれた場合でも、
本当に科学で法則的に言えると決定してからでないと言えないのです。
そして、科学は、なかなか決定してくれません。とても不自由です。

しかし、諸君!

わたしたちは、自分の体験から
「レモンをたくさん取っていると、風邪を引きにくい」と知っていたり、
「雲が出てくると、雨が降る」と知っていたりします。

科学のお墨付きを待っていたら、何も語れません。
わたしたちは、自己責任で語ります。
自分の見たままを、あるいは、考えて知ったものを、堂々と語ります。
推論はそのためにあるのです。

だから、(1)の「ならば(*)」と(2)の「ならば(⊃)」を使いましょう。

論理学が、何と言おうと、(1)の「ならば(*)」は、
(2)の「ならば(⊃)」の前件と後件をひっくり返した Q⊃P (⊃は「理由づけ」)というのではないのです。

これは、わたしたちがもっともよく使う

ゆるい因果関係をあらわす  「ならば(*)」  なのです。

論理学の解釈、Q⊃P とすると、

  ニュートンが科学者であるなら、彼は物理学者である
  200が4で割り切れるなら、100だって4で割り切れるさ

と、なります。これは、論理学では、正しい文とはみなされないので、使われないのです。
つまり、論理学では、結局、P*Qの真理表で表されているような真理値をとる関係を表現できないということなのです。

こんな風に、論理学は、わたしたちの言語世界を非常にちっぽけでつまらないものにしているのです。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

何だか、収まりが良いのでここでやめとくわ。
(3)は、言葉の定義に使う「ならば」なので
「ならば、そして、その時に限って」
という「等値」を意味する「ならば」です。

これは、略すから、みんな、各自自習してね。

せんせは、べんきょして、つかれたから、お茶でも飲んでベートーヴェンでも聴くわ。

べんきょするなら、つかれる

今から堂々とこの文も言えるのよ!よかったね!

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2005/11/01

苦しみの果てに…じゃなく、「果てたら、やっと苦しみが」

衝撃の告白っぽいんですけど、

はっきり言って、

わたしって、

仏教徒に…


向かない
体質だと思う。

家族には、
「書いてること読むと仏教徒みたいじゃん」

って、言われるんだけど、
どうしても、ダメなのよ。
決定的なところで、わたしには欠陥がある…

「諸行無常」もわかるし、「諸法無我」だっていけちゃうもん。
我執だって、「消せっ」といわれりゃ、それなりに「無っ!」とねっ、やれちゃうしさ。

それから、十二因縁だって、がんばれば(そういうもんか?)、なんとかわかりそ。
「輪廻転生」なんか、まるごと、その気だから、ね。
来世の計画まで立ててるわたしは、「まったく凡夫の鏡(?)だな」って言われちゃうほどよ。

だけど、一つだけ、どうしても理解に苦しむ教えがある。

なんで、なんで、「一切皆苦」、なんだろ?

そりゃ、苦しいこともたくさんあるけど、ま、なんだかんだ言ったって、
おもしろいじゃん、それなりに、楽しいし…
苦しいことも、慣れるとこんなモンだと思うから…

なんて、こんなこと言ってたら、絶対
仏教徒に
なれないよね~はぁ。


ホント
わたしが、いっちばん、苦しいのは、ね
すべてについて、完璧に「苦しい」って、思えないことなのよ。
テキトーに「くるし」ぐらいは思えるけど

(なに?めでたい性格だからだって。
余計なお世話だわよ。)

これが、なんたって、最大の苦しみだわね。

あら?
「すべてについて、心底苦しいとは思えない」、っということは、
すべてについていえるのだから、
わたしが心底苦しいと思えないでいるかぎり、

それについては、いつも最大の苦しみと感じる自分がいる…

およっ!
最大の苦しみが…今、ここに…やったぁ!

おい!おいっ!喜ぶな、っつうの。
ここは、苦しまなきゃあ、元も子もないでしょ、管理人。


 … ほんとに、向いてない!!!かも

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