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2005年10月23日 - 2005年10月29日

2005/10/27

文献学とはなんぞや~っ!

毎日更新!えらいぞ!わたし。

昨日図書館に行って、磯部隆著『釈尊の歴史的実像』(大学教育出版)を借りました。

さっそく、拝読…したのはよかったが、
雲行きはどんどんあやしく
わたしのあたまに暗雲がたちこめる。

とうとう35頁で …… 絶叫しかける 「ええ~っ!まさかぁ」

以下は、磯部氏の意見とわたしの驚愕の心情吐露です。
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磯部氏は、第一節で
『スッタニパータ』(中村元『ブッダのことば』岩波文庫)の
405~424の「出家」と題されるところを扱っています。

『スッタニパータ』の内容を簡単に言うと…

ブッダが王舎城で托鉢している姿を、
ビンビサーラ王が高殿から眺めていて、
ブッダの高貴な姿にうたれて家来にあとをつけさせます。
そして
居所を知った王様自ら、ブッダのいるパンダヴァ山に、赴いて、
ブッダにいろいろ出自などを尋ねるというシーンが描かれています。

それについて、
磯部氏は

「おそらく、そうではなかった。」といい、

驚愕の「歴史的事実」を述べるのです。

「釈尊はヒマラヤのふもとシャカ族の地から軍事同盟を結ぶためにマガダ国までやって来た。(33頁)」

「釈尊は宮殿で、シャカ族の地理的位置、富と勇気を持つがコーサラ国に従属していること、釈尊自身は「太陽の裔」という誇り高き門閥に属し、シャカ族の支配層であることなどをマガダ国王に名のり、軍隊の提供を求めたが、マガダ国王はこれを拒絶した。(34頁)」

今まで、いろいろな研究や評論やエッセーを読みましたが、
これほど○○○なものははじめてです。(スキな言葉を入れよう!)

わたしがビックリしているのは、主張の奇抜さだけではありません。
奇抜な主張であるという点では、わたしの本だって、けっこう負けてないと思うからね。

そうではなくて、もっとも驚愕なのは、理由とか、根拠とか、そういう説明がいっさい

「ない」

ことです。
推測に推測を重ねて、ただただ自分の意見を述べているだけだからです。
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インド哲学、仏教学が「文献学」というある決まった方法論をとるのにはわけがあります。
手に入るものが、ほとんど文献しかない状態で研究するのですから、
「この文献をいかに扱うか」はとても大きな問題です。

1)できるだけ確実なテキストによること
2)できるだけテキストに添った解釈をすること
3)研究の結論には合理性があること

こうしてはじめて研究が意味をもったものとして認められます。
現実には、これらの条件を完全にクリアするのはむずかしいので、
だから
研究には、程度に応じて、良いものと悪いものが出てくるのです。

でも、どの学者も、これらをクリアしようとそれなりにがんばっているのです … のはずです。

1)に注目する人は、テキストを確定するためにたくさんの写本を集めてテキスト・クリティークを行います。
古い写本を探し回る人もいます。ある程度確実と言えるテキストを用いること、これは重要です。そのための基礎作業です。労多く困難ですが大事な研究です。

2)が効力を発揮するのは、例えば、写本は少ないが思想的に重要なテキストの場合です。その場合、文献同士を比べたりして、解釈で補うこともできます。他のたくさんの同系統の経典と比べてみたりするような場合です。テキストに対する信頼性は落ちるかもしれませんが、研究者の知見がそれをカヴァーするのです。やりがいのある仕事です。

3)は、最後に得られた結論が、一貫性があり合理的であると判定できることです。非常に些末に見えるところを扱いながら、しかし、重箱の隅をつつくような研究にならないためには、この視点が必要です。大局的な視野があって、研究を行うのとそうでないのとでは、得られる結論に雲泥の差が出ます。広い分野をおさえられる研究者の経験と知識と、それと、文献に対する鋭い感受性が、研究の支えです。

これらにもとづいて、誰が聞いても「そうだな」と思うような説得力のある研究業績をあげられるように努力するのが、学者の使命だと思うのですよ。
これは理想だから、こんなにうまいこと、なかなかいかないけど、できるだけ理想に近づくようにするもんなんです。

で、

磯部氏の場合ですが、
1)について
まず、テキストを疑っています。ここには真実が書かれていないという立場です。
その場合、やるべき仕事は、正しいテキストを探すか、校訂するか、とにかくテキストの整備をすべきです。

1)の仕事をしないのなら、2)のケースと考えられますが、この場合、テキストは一応信頼すべきものという立場は崩れていないのです。テキストをあるがままにとらえて、それと他の文献との比較したり、他を参考に読んでいったりするのです。テキストに対する依存度は、むしろ1)より高いと言えます。テキスト信頼せずに、この研究は成り立たない。
もし、この立場で、テキストの読みを変えるとすれば、大きな賭をすることになります。ある個所だけ読みを変え、他はそのまま読むとなると、何か決定的な事実を根拠にあげる必要があるでしょう。両刃の剣です。
しかし、2)でもないことがわかります。テキストを書いてあるとおりに読んでいません。他ともろくに比較していない。自分の導きたい解釈に都合のいいところだけ引いています。

で、3)かというと、これは『スッタニパータ』一つの研究でしかないですね。
さらに、「ブッダが軍事同盟結ぼうと出家を装ってビンビサーラのもとにやって来た」っと、このような主張をもつなら、ブッダの哲学思想、あるいは、今までの思想研究にどのような影響が及ぶか、それによって、ブッダ研究について何がどう変わっていくのかという展望を示してほしいものです。
あ、あとに出てくるのかもしれませんが、主張のテーマになるはずだから、このあたりで少しは読者にみえるようでなくてはなりません。が、ないですね。
さらに、インド思想の一般常識という点からも、疑問符がつくような説明がちらほら。

例えば、407「出家して身による悪行を離れ、言葉による悪を捨て、彼は生活を浄めた」とある文について、この『彼」とは当然ブッダのことですが、この文に関連して次のような解釈をしています。

以下が、磯部氏の意見。
この文からすると、出家して身と言葉の悪を離れたことになるから、逆に言えば、出家以前のブッダは身と言葉において悪を行っていたことになる。それを後代の仏教教団はたえきれなかったので、この偈を含む三偈を切り捨てた。

経典をよく読めばわかるだろう。
わたしたち普通の人々は、すべて、身体と言葉において悪を行っているんですよ。
普通の暮らしは、そういう暮らしなのっ!だから、出家するんじゃありませんか。
ブッダといえども、出家前は普通の人の暮らしだったんだから、悪を行っていると言えるわけです。
どんなにいい人でも、どんなに優しい人でも、どんなに立派な人でも、普通にくらしている人はそうなんだよぉ!
「教団はたえきれない」という、この表現も、教団にいる人々を出家者と思っていないようにみえますよっ!

あ、いかん、いかん、腹を立てては。

以上によりまして、1)2)3)のいずれも満たしていないので、
わたしは35頁をもちまして、この本を読むのをやめます。

いろんな学者がいると思うし、
文献学の方法にも問題がないわけではないと思うけど、けど、

…けど、

本気で研究している人は、真理を求めて、けっこう、命がけなんだってわかってもらいたいすよ。

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2005/10/26

カースト的生存・ほのぼの風

昨日は、ちっとも書くことないなぁ、と思いながら書いたけど、
今日読んでみると、そんなに「すごく変!」ってわけでもないみたいだ。

よかった。

ということはだ、
「書くことある」って思ったときの方が、
ほんとは「変」なこと書いてるんだろうか?

ありうるな… でも … ま、いいことにしよ(するなぁ~っ)。
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では、管理人のカースト的一日をご紹介。

天気がいいので、朝もはよから、洗濯山ほど … ドービー(洗濯人カースト)なわたし。

午後から、そうだ、図書館に行こう … とつぜんブラフマチャーリン(清浄行)するわたし。

期限を大幅に遅れている大量の本を返して、
別の本を借りてくることにしよう … 本を乞う、沙門なわたし。

一応、急ぎの仕事は全部片づけたので、
心にゆとりがあるのです … 気分は瞑想、ヨーギンなわたし。

そうだ、なぜか今日は
朝から、意味なく、風呂場を掃除してしまうし … バンギー(汚物処理・掃除人カースト)なわたし。

バラモン(最上位カースト)から
バンギー(最下位カースト)までこなす

カレーな管理人の一日 … カレー … 今日は、大根のカレーにしよ


ほんとわたしって考えることに無駄がないわね … だから、ブッダ(目覚めた者)なわたし。

ちょっとずうずうしかったしら。ははは。

しかし、
昨日より確実に「変」な日記になっちゃったわ。

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2005/10/25

輪廻的生存・つれづれ風

今日は、寒い!でした。

岩見沢(いわみざわ)というところがある。
雪の多い北海道でも、豪雪地帯として「尊敬されている」ところです。
寒さでも、一目置かれている。

その岩見沢の駅のプラットホームというのは、
どのプラットホームよりも寒い、と思う。

そこで10分以上立ってたけど、
待っている人たちを見たら、
全員ポケットに手を突っ込んで小刻みに震えていました。

ああ、冬ですねぇ。
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今日は、とりとめなく、だらだらと書いてみます。
(と言うか、書いたら、そうなっただ。)

ここのところ、軽い気持ちで「縁起」と「輪廻」に取り組んで、
とんでもない目にあっている管理人です。

む、むむ、むずかしいす。
けっこう、脳髄しぼる考察が必要ですね。

ふう!
輪廻かぁ!
「縁起」のシステムをこれほど巧みに使った究極の理論は他にはないなぁと…
「縁起」の、この関係のすごさも、しみじみ。

ほんとに、仏教って、はてしなく勉強することあるなぁ。

最近は、

また、また、パーリ聖典に首を突っ込んで、格闘する日々なのでありました。
最近、パーリ語のやわらかい音が耳に快いです。
癒し系のブッダ調ですね。でも重厚!

一方、ちょっと俗語っぽいとはいえ、龍樹のサンスクリットは、
かたい感じがするわね。でも、少し訛りのある感じもする。
明快!切れ味最高の演説調。

それに比べると、
ニヤーヤ派の『ニヤーヤ・スートラ』『ニヤーヤ・バーシャ』は、
すごく現代的。いつも、現代の論理学書を読んでるような、
都会的なスマートな感じがする。
知識人アクシャパーダとヴァーツヤーヤナ調。

それぞれによい!
これは、きっと、彼らそれぞれの個性なんだと思うわ。

こんな風に
テキスト読む暇あるときは、幸せですぅ…だけど、長くは続かないのだ。
シュードラの身はつらいよ。。

来世は、シミ虫にでも生まれて、
インドの古本の中でサンスクリットかじって暮らしたいわねっ!

しかし、
「悟る」って、発想がないのかね、管理人。

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