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2005年1月23日 - 2005年1月29日

2005/01/28

最後の授業、フランス(仏)・バンザイ、おっと仏教・バンザイ

アルフォンス・ドーデー作『最後の授業』のイメージで読んでみてちょ。

気にするほどではないかもしれないけど、哲学で仏教を最初から扱うのは、どうも遠慮しちゃう管理人です。

仏教は宗教だと思われてるだろうと思って、ちょっとやりにくいような気がします。
あら、もちろん、仏教は宗教なんですけど、だけど、哲学や思想の重要な部分も占めるので、管理人的には、仏教は哲学・思想・論理学なのです。

それで、哲学の授業でも小出しにして、我慢できなくなってしゃべっちゃうという感じで仏教についてはやってまいりました。

今日で最後だったから、思わず、力いっぱいしゃべっちゃったんですわ。
心の分析。心作用。アビダルマの世界少々。

自分の心を観察して、どんなときにどんな思いが生じたかを書かせて、それを分析したのよ。
いろいろ出ました。恐い経験、けんかしたとき、がんばったとき、悲しくなったとき、うれしくなったとき、ほのぼのしたとき、後悔したとき、恐い先生におこられたとき…。みんな正直にあれこれ、あれこれエピソードをあげてどんな気持ちがしたか書いてくれました。

ま、そんなたいした分析じゃないんだけど、どれどれっと、やってみましたよ。

喜怒哀楽の他にも、ねたみ、そねみ、おそれ、うらみ、嫉妬、高慢、わがまま、後悔、悔恨などなどいろいろあげまくり。
ほんと、仏教ってすごいわ。108もの煩悩を数え上げるその根性と分析能力と、そして、心の変化の多様性。
あきれちゃうほどですが、こうやって、わたしの思いつくかぎりの心の形容をあげて、

じゃーん、これらは、全部どこからともなく生じては、そして、また、消えていく。
自分で心の中の変化に気づいたら、意識したら、その心の変化は消滅していく。
そうでしょ、みんな!

だけど、一つだけちがうものがある。
そのどれともちがうの、それがが自由意志だぁ~!
自由意志は、消えていかない。成就するまで、じょうじゅ、いや、常時ある。どおだぁ~!
(ここは仏教にはない、わたしオリジナル、そして、『最後の授業』のシーンを思い浮かべるのよ。ドイツに併合されるフランスの悲劇を!)

帰りなさい。授業はおしまいです。(ちょっと、くさいすか)

っと、熱弁して授業を終えたのだった。へぇ~へぇ~、ぜぇ~ぜぇ~。

終わったら、学生さんたちがきて、仏教書を教えてください、僕のフィーリングにピッタリだって、うふっ。
けっこう、いろいろ紹介しておきました。
下宿人さまのが多かったす。すぐ出てくるのが、下宿人さまのだったモンで。

やっぱ、仏教は最初から出さないで、ちょこっちょこっと、ありがたそうに出すのが引きつけるコツかもね。
しかし、わたしも、あの無味乾燥風な味付けと思ってたアビダルマを、こんだけ楽しそうに語れるなんて、詐欺師の素質ありかしら。
それに、今回やけに芝居がかってるし。

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2005/01/27

中道

ざつに考えると、ボロがどんどん出てきて困っちゃいますね。(欲のお話です)

真理を探りたいのか、つじつま合わせをしたいだけなのか、わからなくなってくるのが、さらに困っちゃうところ。
でも、ここまできたら、欲の二つの分類で極めてみよう。

A「目に見える欲」とB「目に見えない欲」という分類は、変な分類に見えるかもしれないのですが、これで大丈夫だと自分でまだ思っているのは、やはり、その構造です。
何でも構造だな、それしかないのか、って?

まぁ、そうなんですよね。とりあえず構造が大事。何せ論理学やってるもんで。
なぜ、大丈夫かというと、この二つの分類で、全部を言い表せるからなんです。
どんな欲も、この二つのどちらかには収まることになっているので、何とかなるかと。
それに「目に見える」というのは、みんなの合意を得やすいということでもあるし。
その分類方法をめぐって紛糾しにくい「分類」というので、第1番目に採用されました。ぱちぱち。

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さて、それで、A主体の人の欲については、かなりクールに極めた(?)ような気がするので、B主体の人の欲について、これもクールに見つめたい。

Aの人の欲の考察に使われたのは、Bの人がよりどころとしている「人と人とは繋がりたい欲」でした。
これにもとづくと
「金持ち=意地悪」という構造が得られたわけですが、

「意地悪」というのは意地悪な表現なので、当然、Aの人はあんまり良い気持ちがしないのです。

それで、Aの人は反撃します。
当然です。
Bの人がよりどころとする「人と人は繋がりたい欲」、これは人間のサガではないとまず認めます。
「人は互いに繋がりたくない欲」というのも、同時にもっているのです。
こちらを本来と認めましょう。
そうなると、どうなる?

「ボランティア=余計なお世話」

という構造が出てきます。あるいは、「ボランティア=自己満足」でもいいかも。

これは、ねぇ、ピンときますわね。息子が、がっこの授業の一環でボランティア活動しに、とある施設に行って帰ってきたとき言った言葉。

「ボランティアってさ、結局、受け入れ先が、ボランティアなんだよな。能力ないとボランティアにならない。」(身に染み染み…)

人助けをしているつもりが、気がつくと自分がボランティアされてたということはよくあることです。
「繋がりたい欲」を追求するあまり、他人の生活に入り込んで、おじゃま虫になってしまうというのもありますね。

ふーーん、むずかしいなぁ。
結局、「繋がりたい」というのが、人間のサガではなく、「欲のなせる業」と認めると、Bの人はうまくいくのかもしれません。
Aの人が言うように、「繋がりたくない欲」というのも認めると、ボランティアはその本来の力を発揮するかもね。
こんな感じ。

自分がほんとうに役立つか冷静に見極め(Aの人の目線)ボランティアしたら(Bの人の目線)、さっさと帰る(Aの人の目線)。

人的貢献と国が言うとき、一番むずかしい局面は貢献そのものより、いつ帰るかってことだろうね。引き際の見極めがむずかしい。(ところどころ、ねねさま説を採用させていただきました。)

そんなとこから、大乗仏教の菩薩行の精神が出てくるかもしれませんね。
救うも救われるも空、っちゅうことですか。(ああ、何かちがうな、たぶんこの文ここにおくのはまちがい。だけど、どうまちがってるかわからないので、検討するために消さずに書いておきます。誰か、わかったら教えて。)

結論としては、欲に生きてるわたしたちは、いつでもAとBの釣り合いをとって綱渡りのようにして生きていかなければならないということがわかるのではないでしょうか。
それは、とってもむずかしいですが、AとBの二つの極端によらず、言い方を変えると、「繋がりたい欲」と「繋がりたくない欲」の二つによらず、「中道」を生きるということになっちゃうのでした。

…あれ、お釈迦さんや龍樹の言ってることとおんなじになっちゃった。

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2005/01/25

欲ばりは、人間のサガ

童話って、おもしろいですね。
これ、けっこうはまりそうだなぁ。

子どもの頃、おとぎ話や童話のたぐいをしこたま読んで育ったのだった。
だから、こんなよい子が育ったのですわね。

     ………

あ、わかりましたよ。その沈黙は止めて。
だから、こんなに思考が単純なんです。こう言えばいいのか…ぐす。

しかし、管理人が子どもだった頃、あまりに童話のたぐいを読み過ぎて、とうとうこんな考えに至ったのだった。

必ず出てくる人は、二種類しかない。
金持ちで意地悪なお兄さん(おじいさんとかおばあさんのときもある)。
貧乏で心優しい弟。

「金持ち+意地悪」と「貧乏+やさしい」はかならずセットになっていることに、かしこい管理人は気がついた。
いつも、これ。なぜ?なぜなのだろう?

たまには逆の組み合わせがあってもいいのではないか。
「金持ち+やさしい」と「貧乏+意地悪」、こういう話を作ったらどうだろう。
そして、子どもながら、おとぎ話に挑戦してみたのだった

さて、それはどうなったでしょう…

むかしむかし、金持ちでやさしいお兄さんと貧乏で意地悪な弟がいました。
優しいお兄さんは貧乏な弟がかわいそうだったのでお金をあげました。
意地悪な弟はお兄さんからお金をもらってじゃんじゃん使いました。
そして、「こんどは立派な家が欲しい」だの「こんどは召使いと馬車がほしい」だの言うのです。
お兄さんは断れずに弟に言われたとおりにしてやりました。
しばらくして見ると、貧乏でやさしいお兄さんと金持ちで意地悪な弟になっていましたとさ。おしまい。

あれ?
結局、「金持ち+意地悪」と「貧乏+やさしい」は離れられないのか。

Aのタイプの「目に見えるものを求める欲」の人は、どうしてもものに執着するから、他人とは距離を置かざるをえない。必然的に人からは意地悪く見えてしまう。

Bタイプの「目に見えないものを求める欲」の人は、他人と関わらないと求めるものは得られない。ものは、コミュニケーションの道具というか、それの媒介をする潤滑油みたいなもの。だから、お金は貯まらない。

ま、これは構造的なものなんですかね、現実はともかく。

さて、インドでは、これに輪廻転生と業(ごう)の思想が、この「金持ち+意地悪」と「貧乏+やさしい」という構造を破壊する新たな要素として加わるのであります。

良い行為をすれば、来世は良い家に生まれるのです。
悪い行為をしたものは、悪い境涯に落ちてしまうのです。

金持ちは必然的に意地悪だから、これまた必然的に悪い境涯に落ちることになり、貧乏人は必然的にやさしいから、これまた必然的に良い家柄に生まれることになっちょる。

うううん、輪廻転生すると、人間って、あんがい平等みたいすね。

ところが、これで「な~んだ、平等なんだ、よかった」と納得するわけではないのが、人間なのです。
どんなところにも欲の抜け道というのはある。やっぱり欲のかたまりなんだわね、人間て。

来世で悪い境涯だぁ、っと手をこまねいているわけにはいかん!
どんどん功徳を積んじゃえば、来世はやっぱりお金もちぃ!

こういうわけで、インドのお金持ちは寺院や貧乏な人々にお布施や施しを欠かさないのでした。

なんか、めちゃくちゃドライですよね。「優しい気持ち」なんてゼロでも、とにかくお布施をすれば、功徳を積むことになるので、ドライにお布施。ドライに施し。そして、もらう方も、結局自分の来世のためにやってるって知ってるから、ドライに受け取る。功徳積ませてやってるんだ、って感じですか。いやぁ、ほんとにドライだわ。
貯金をするように、善悪計算をするのがおもしろいなぁ。

どんな思想にも、欲の抜け道を見つけ出すところが、人間のすごいところです。
人間って、ほんと欲ばりだなぁ。

しかし、だからおもしろいかも。欲ばりバンザイ!

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2005/01/23

千夜一夜インディアン・ナイト物語

管理人の欲しいもの…でっかいママさんダンプ(雪かきスコップの巨大なもの)と雪捨て場。

夕べから、雪かき人生です。
雪の降り方が、マジに真剣!
雪かきして、やれやれとふり返ると、雪かき前と同じくらいの雪が積もっているという恐怖の雪かきスパイラル。

「欲」と戦う、管理人、掲示板の書き込み(1827-30)により、ねねさま理論を拝借、新たな段階にレベルアップをはかるのだった。

え?人の理論を使うなんて、ずうずうしい?
それに、「無欲の人」理論が宙に浮いてるぞ?

あら、ほんと。まずいわぁ~。何とかしなきゃ。
統一するために、新たな概念を導入して…っと。

え?なんか調子いいんじゃないか、って?

わはは、まぁ、かたいこと言いっこなしよ。
基本的にはそんなにずれてるわけでもないと思うのよ。
何せ、管理人も、欲の皮は突っぱってるからすぐわかるのよ。ほほほ。

それじゃ、「欲物語」の始まり、始まりぃ~

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
さて、このお話に必要な新たな概念は

A「目に見える欲」
B「目に見えない欲」です。

世の中の欲は、この二種類に分類されます。
あるところに二人の兄弟がいました。お兄さんは、デーヴァダッタ、弟は、ヤジュニャダッタといいました。

お兄さんは、目に見えるものが大好きで、目に見えるものは何でも欲しがる人でした。つまり、Aの人ね。美しい妻とかごちそうとか車とか豪邸とかブランド品とか宝石とか飛行機とか船とか島とか山とかプリンタインクとかママさんダンプとかフッ素加工のフライパンとかおろし金とかでした。

なんか最後の方、やけに著者の生活臭がただようなぁ、ですって?
そんなことないわよ。多趣味なのよ、デーヴァダッタは。

デーヴァダッタは、欲しいものを「全部」手に入れるために、ただ「ひとつ」のものを手に入れることにしました。それは、お金でした。で、お金を得るために、えげつなく何でもしました。それで、お金はどんどん貯まりました。(話が単純!)

そして、上に書いたもの全部リストアップして買いそろえましたが、なにかとてもむなしく足りないような気がしました。だって、みんなが、「あれ、あれが強突張りのデーヴァダッタだ!何でももってるくせに、何でも欲しがる」というからです。(これまでAのみ)
それを聞いて、彼は、さびしくなって、「目に見えるもの」がそんなに欲しくはなくなりました。かれに、はじめてちがう欲が芽生えてきたのです。「目に見えない欲」の登場です。(Bの登場)

「強突張り」と言われたくない、という欲求です。
じゃーん、デーヴァダッタは、先日話した「無欲の人」という称号が欲しい人にナッタノダッタ。

でも、でも、それってどうやったら、手に入るんだろ?目に見えないので、わかりません。
単純思考のデーヴァダッタは、「わかった!買えばいいんだ」と思いました。

それで、大災害にあった人たちを救う募金に、お金を寄付しました。
彼は、とてもお金の価値に関してはよく知っていたので、けちけちしませんでした。こういう見えないものは、値段を高めに見積もるのが損をしないコツなのです。だから、3億円なんてけちなお金ではなくて、300億円にしました。ちょっとふところは傷みましたが、効果は抜群。みんなが「デーヴァダッタは、すごい!無欲の人だ!」と尊敬するようになりました。
「尊敬」…良い響きだ、ハァ~、わたしの欲しいもの、目に見えない欲しいものはこれだった、とデーヴァダッタは豪華な高殿から美しい妻ラクシュミーとガンジス川を臨んでつぶやくのだった。

デーヴァダッタのAとBの欲は、こうやって完成したのです。

一方、弟のヤジュニャダッタは、兄さんとちがって、目に見えるものには執着しませんでした。目に見えるものは壊れていくことを知っていましたし、なくなったらどうしようといつも心配しているのもいやでした。

夢見る若者ヤジュニャダッタは、目に見えない欲の中では最高に価値があると言われる「愛」というものが欲しくてなりません。(B主体)
あるとき、彼は町で、チョーかわゆい、山姥(やまんば)ギャルのパールヴァティー(「山をもつもの」の意)に出会って一目で好きになりました。ゲットするなら、彼女の愛です。彼は、彼女に尽くしまくりました。アッシイ君をやったり、アッシイ君をやったり、アッシイ君をやったり…あれ?貢ぐ君は?

なんか、話が空回りするんですけど。ずっと、アッシイ君ばかりだと永遠にアッシイ君だぞ。
愛を得たいなら、別の手段も使いなさい。
そこでコンビニバイトで貯めたお金で「指輪」を買って、「僕は一生、君をアッシイします(アイシッますのつもり、き、きんちょー)、結婚してください」と言いました。

ギャルのパールヴァティーは、ヤジュニャダッタを好きでしたが、さらに指輪とアッシイが加わると文句なしだったので結婚しました。

しかし、ヤジュニャダッタは幸せではありませんでした。彼女は「デパートでお買い物するからアッシイしてよ」とか「コンサートに行くからアッシイして」とか言って、当然のようにこき使うのです。
目に見えない「愛」というものを手に入れるのに、指輪と勤労奉仕という目に見えるものを手段としたのはまずかったのか。

ヤジュニャダッタは自分の愛が冷めていくのを感じていました。自分は一体何が欲しかったのだろうと思いました。
山姥となったパールヴァティーは(あれ、ギャルが取れてるぅ)、ヤジュニャダッタの変容に、さすがにわがままばかりでまずかったと心から反省しました。
彼女は、腐っても元ギャルなのです。山の娘パールヴァティーなのです。元は純情なのです。「やばい」と思った彼女は、ヤジュニャダッタに○丸デパートで買ったカシミアのセーターをプレゼントしながら、心をこめてこう言いました。

「いつもアッシイしてくれてありがとう、ほんとは感謝してたのよ」

ヤジュニャダッタの心ははればれしました。(Bの完成)
セーターは「目に見える欲」の象徴のようですが、じつは愛の証しなのです。彼は生涯ぼろぼろになるまでこれを着ていました。(二度と買ってもらえなかったから、っていうのもあったのかもしれませんが、何せ愛の証しだかんね。)
(Aもプラス)

ヤジュニャダッタのAとBの欲は、こうして完成しました。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
デーヴァダッタの場合は、あくまでもA(目に見える欲)が主体ですね。Bを満足させるにもその手段はAを用いている。

ヤジュニャダッタの場合は、B(目に見えない欲)が主体で、Aはあくまで補助ですね。Aは手段にすぎません。このAの要素がのさばってくるとヤジュニャダッタはつらくなるわけか。

それにしても、見え見えの話だなぁ。
現実はこんなにうまくいくんですかねぇ。

※デーヴァダッタの妻にはヴィシュヌ神の妻ラクシュミーを、ヤジュニャダッタの妻にはシヴァ神の妻パールヴァティーをお借りしました。謹んでここに御礼申し上げます。

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