« 2005年9月18日 - 2005年9月24日 | トップページ | 2005年10月2日 - 2005年10月8日 »

2005年9月25日 - 2005年10月1日

2005/10/01

まずっ!

「町に行ったら、ジンギスカンキャラメル買ってきて」
と言われました。

ご説明しましょう!じゃん!

その名も名高き「ジンギスカンキャラメル」

北海道のさまざまな食材を練り込んだ12種類のキャラメルの中の一つです。

ワイン、ラベンダー、夕張メロン、牛乳、ヨーグルト、昆布、リンゴなどなどいろんなものがありますが

その中でひときわ輝く 不朽の名作 いや 腐朽の駄作 超人気商品 でっす。

「とってもおいしい夕張メロンキャラメル」を抜いて 売り上げ第1位に躍り出た人気の秘密は?

ひとえに、その

「まずさ」

にあります。


だけど、一回うちでも買って食べたけど、だれもそんなに「まずい」って思わなかったんだよね。
こんなに「まずい」って言われるほど、まずかったっけ?ってんで、
もう一度買うことに。

わたしは食べたことなかったので、
はじめて、いただきますです。

あれ、普通の …… あ、ジンギスカンの臭いとマトンの油のような … 
甘いキャラメルの奥底で … タマネギみたいなくせのある臭いも … 
おお!ま…ま……あ、失礼 おいしくいただきま…した、っというと、嘘になる味です。

うん!これはだ!分析しますと、

サッポ○ビール園でジンギスカンを山ほど食べたあと、

口直しにと言ってミルクキャラメル食べたら、こんな味がするだろうという味です。 

ぜひ、北海道みやげに、お買い求めください。

十二支縁起の「感受→渇愛」のこの→は生じませんわよ。たぶんね。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

ええ、さてさて、野矢茂樹氏の『心と他者』(勁草書房)に、再度挑戦。

あれ?前にはぜんぜん気にならなかったところに、ひっかかる。
疑問も感じず読んでたところで、すごく違和感が出てきて、ビックリよ。

野矢さんは、彼が「親殺し」と名づけたように、著作の中で、
彼が強く影響をうけたウィトゲンシュタインと大森荘蔵の説を批判するのですが…

野矢さんにとっては、乗りこえなければならない大きな壁なので批判するんですよね。
大森荘蔵さんの「立ち現れ一元論」に立ち向かっていきます。

立ち現れ一元論とは、
「ものを知覚する」というとき、何が起こっていてどんなことになっているかを哲学的に説明した大森さん独自の理論です。
ものが「見えてるまんま立ち現れる」という、
おお!シンプルにして強力な説明です。

大森さんのことばですよ。『心と他者』の引用の引用です、「孫」引用ってのかしらね。

 「立ち現れ」には真偽がない。遠くに丸く立ち現れた塔が近づくと角塔に立ち現れた場合、いずれの立ち現れが真でいずれが偽ということはない。(中略)ともに、事実そのように立ち現れるのである。
 すべての立ち現れはひとしく「存在」する。夢も幻も思い違いも空想も、その立ち現れは現実と同等の資格で「存在」する。(p.6.)

うん!わかった。

で、大森さんは、その理論の中で、触覚的な立ち現れを、「現実の核」として重視します。「さわる」ということは現実性の核心だからである、と彼はいいます。「いやおうなく自分の命と生とにかかわる」から「われわれの現実の核」なのです。(p.10.)

うん!これも、わたしはわかる。

だけど、野矢さんはここを批判して、いろいろ論じ(一言ですますなぁ、っていわれちゃうかな)

こう言います。

(1)「生の現場における触覚の優位性と立ち現れの虚実無記性とは混同されてはならない」(p.14.)

で、ああなって、こうなって(おい!いいのか、こんな説明で)

幻覚論法
(ええと、彼の言葉では「正常な知覚であると分かった場合も幻覚と判明した場合も、その見え方そのものに違いはない」)
という考えを否定するのです。

こんどは、野矢さんの言葉。

(2)「けっきょく、事情は、知覚として呑み込んでいたものが実は幻覚と判明し、いまやまったく異なった見え方をするようになった、ということにほかならず、そこには虚実無記の立ち現れのごときものを要請する必要などありはしないのである。かくして、幻覚論法は失敗している。」(p.35.)

このあたりで、野矢さんの言いたいことがうっすら分かってくる。
野矢さんの、現象主義の理解、

(3)その第一点は、「まず私には虚実無記の立ち現れが、そしてそれだけが与えられている」ということと、第二点「虚実は単独の立ち現れそれ自体に対して言われうることではなく、そうした諸々の立ち現れの連関において初めて言われうる」(p.14.)

この理解にもとづいて、幻覚論法を批判する内容なのですね。
ものわかり悪いぞ!はぁ、はぁ、つかれるねん。

(1)と(2)と(3)の要点をまとめると、

現象主義が認めている(と、野矢さんは思ってる)第一点

「まず私には虚実無記の立ち現れが、そしてそれだけが与えられている」

という見解について、野矢さんはこれはなくてもよい、っという意見だということがわかりました。
まとめると

(4)現象主義の第一点に説かれる条件「まず私には虚実無記の立ち現れが、そしてそれだけが与えられている」は、いらない

お願いします、どうかそれを最初に一言で言ってください。
そうすれば、いくら鈍くたって、わたしもわかります。


で、ひっかかった点は何かというと、野矢さんの(4)の意見と、大森荘蔵さんの「立ち現れ理論」とがどんな関係になっているのか、よくわからないことです。

野矢さんは、大森さんを批判してると、自分では思っているようなのですが、
批判してるの?

(2))「けっきょく、事情は、知覚として呑み込んでいたものが実は幻覚と判明し、いまやまったく異なった見え方をするようになった」という野矢さんの説は、大森荘蔵さんの「立ち現れ」理論で、そのまま説明できそうですよね。

大森荘蔵さんの本は、昔読んだけど、詳細は忘れちゃってるから、野矢さんの引用だけで考えます。
すると、大森さんが、野矢さんの「現象主義の理解」を、そのまま主張しているようには読めないです。(「孫」引用などにより。)

野矢さんの「読み込み」かもしれません。
「虚実無記の立ち現れ」という言い方は、大森さんの文の中にはなくて、「すべての立ち現れはひとしく『存在』する」とあるだけだよね。

「虚実無記」ではなく立ち現れは「存在」するんだ!微妙にちがうよね。
野矢さんは、大森さんの文脈を少しはずして語っているような気がするわね。
あとで実在するかどうか確かめたいのは、野矢さんで、大森さんは、別にそんな望みはないようだわ。

ということは、野矢さんの(1)の意見は、野矢さんの「読み込み」による誤解だとすると、この考察はなくてもいいのでは?
そうすると、大森さんをあげる理由もなくなるから、頁数が減って、読者もありがたいのでは?

なぜ、そういうかというと、次のような理由です。

もし、ほんとに野矢さんの言うように
「虚実無記の立ち現れ」を大森さんが主張したとしても、
それを野矢さんが「そんなことない」と否定してしまうことはできないのではないでしょうか。

大森さんには、何の知覚もないことになってしまうからです。
大森さんは、「ものは立ち現れてる」と言ってんだから、彼には立ち現れてるんでしょう。

それをそうじゃない、っと、だれが言えるのか、っという気もする。
つまり、以下にようになるのでは。

(「『幽霊が出たっ』って思ったんです」
 「いいえ、あなたは『幽霊が出たっ』って、思ってません。
  それに、そう思ってはいけないのです。まちがいなのです」
 「だって、だって、思っちゃったら、どうすんですか?
  思っちゃったもん、どうしろ、っつうのよぉ(悲痛な叫び)」)

ただ、哲学理論としては、
この「立ち現れ」で、どこまで認識の問題を論じきれるか、そこに関心が集まることになります。
一貫して、どこまで無理なく理論展開できるかですよね。

一方、
野矢さんは「そうじゃない、虚実無記の立ち現れは想定しなくてよい」と言うなら、
自分の立場をもっと最初に言ってくれなくちゃ。
自分は、どんな風にものを見てるのか。
大森説を完全に批判できるちがう理論をもっているのか、それとも、大森説の部分的な訂正なのか。
そういうことがわからないと、批判してるのかしてないのかよくわかりません。

なんつーか、
「学説として批判してる」のかという点と、
「たんなる経験的な認識の説明として批判してる」のかという点が、
まぜこぜになっているように見えて、

わたしには、とってもひっかかるです。

それに、かつて『心と他者』を全部読んだのに、どんなことが書いてあったか、
なんかきれいさっぱり忘れとる。
野矢さんの問題が、自分の問題として実感できなかったからかも…ふう、さびしいすね。


できたら、スートラ(短文で最初に要約を出すこと)で書いてくれないかなぁ。
その場合、時間なければ、要点だけでもいいすよ。説明省いたっていいのよ。
そうすれば、ぜったい、野矢さんの考えを誤解することもないと思うんだけど。

インド哲学流、っつのになじみすぎてて、
西洋哲学流、っつうのを受け付けない身体になっちゃったんだろうか …

まずっ! … ジンギスカンキャラメルと同じじゃ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/28

ブッダさま、みごとに説いてね、とくにわたしによっ!

何もないあたま、それは悟りの境地ね、

昨日の考察の結果ですが、
ほんとは、
ほんとは
マジに得たいものですなぁ。


前に、友人と話したことがあったんだけど、

(友人)
「わかるまでは、ものごとはわからないものだから、『わかる』という言い方と『わからない』という言い方の二つしかない。何十パーセントはわかった、っていう言い方はおかしい」

と言われて

(わたし)
「わかる直前が、一番わからない。だから、そうなったら、もうそろそろ次に答えが来るなぁ、って思うんだけど。わかる前にも、『わからなさ』の段階を感じる」

と答えて、

意見が食い違いました。


20%わかる、とか、40%わかる、とかいうのは、あるかどうかわからないけど

わたしのばやい、

なにかわかる直前は、とにかく、もっともわからない。

今までもってたなけなしの知識が全部、借金の形に取られたような、きれいさっぱり何にもない状態になる。

小学校1年生のテストでさえ答えられない、っと自分で思うくらい何もない。

さびしいぃぃぃぃ~っ、何にもないぞぉ~、どうしよ、

って思ってると

それから、おもむろに、答えがやってくる。

こういう過程で、やってきた答えは、わたしのそばに寄り添って、けっしてどこかに行ってしまったりすることはない。

ほかの手段で得られた知識は、忘れてしまったり、もう通用しないと思ったり、知識ではなかったと思ったりするけど、こうして得られたものは、今のところ、出そうと思うときはいつでも出てきて有効に働いてくれるし、いろんな風に変化して、問いにあわせた答えになる。


一回これを経験すると、いつでも知識はこんな風にやってきてほしい、って思う。

けど、

こんなことはなかなか起きない。


普通の人は、見ているときには、見ていない。
普通じゃない人は、見ていないとき、見ている。

ああ、普通じゃない人になりたいわ。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
って言ってたら、ふふ、プチ普通じゃない人になったかな…

パーリ経典読んでて、進展ありっ!
イェ~エィ!龍樹論理学にも少しプラスになったかな。

『ブッダ論理学…』にも書いたけど、ほんとに、
どうして、
パーリ経典は一つもまちがっていないのか、
互いに矛盾したりしないのか、
ほんとに
ほんとに
ほんとに
不思議だわ。

人間だったら、ぜったいどっかミスするはずよね。
言い方が少しちがったり、
表現がやや揺れたり、
言葉がちょっと変わったりするわよ、
人間ならよ。

記憶が薄れたり
説明が前後したり
思想自体もやや変化したりするものよ。
人間ならね。

くり返しが多いととくに
ミスが出やすいのよ。
とばしたり
同じことをくりかえしたり
機械的になって誤用したりするはず。
人間ですもの。

だけど、経典にはそれがない。
ミスは、ちゃんと気がつかれる。
確実に教えられたとおり
順序正しく
正しい言葉で

「見事に説かれる」

ブッダも言ってるわ。

「みごとに説かれた言葉のみ語り、悪しく説かれた言葉を語らず
理法のみ語って理にかなわぬことを語らず
好ましいことのみ語って、好ましからぬことを語らず
真実のみ語って虚妄を語らないならば、
この四つの特徴を具えてる言葉は、みごとに説かれたのであって、悪しく説かれたのではない。」(中村元『ブッダの言葉(スッタニパータ)』岩波文庫、91頁)

自分で言ったとおりにしてるのね。
この文自体も、この文の内容を守ってるわね、
自己完結してるわ。

それはいいんだけど、
とうとうわたしの『ブッダの言葉』、
かわいそうに、表紙が取れちゃって、
さらに、ページが1ページずつとれてきて、

だんだん本が薄くなってるのよ。

みごとに説かれてても、ちょっと問題かな…

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2005/09/27

悟ってることを悟った話し

今までも、はまってたけど、ここしばらく、またブッダにはまっています。

なに?

いっつもはまってるじゃん、って。

まあ、ね。
昨日から、けっこう核心に迫る発見をしそうな気がするような気がして、

頭が半分、パーリ経典に釘づけ。
もうむりやり、引きはがして、授業の予習したけど、ほとんど自分でも何やってるかわからんのよ。

授業してても、何か上の空。
口で言ってることと、頭で考えてることが違うっちゅう、器用なことをする。

ああ、困ったもんだわ。

こんなことしてたら、学生さんが寝てしまうわ、全員。
ね、ねがったりかなったりだ、なんて思ってもいっちゃダメよ、わかったわね、管理人っ!

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
最近好きなブッダ語録。

ブッダって、けっこう、かわゆいのです。
とくに若い頃、っていうか、出家したてのころとか、悟りをひらいたころが、とくにかわゆい。

やっぱ、一生懸命だったんだな、ってよくわかる。

出家して最初、アーラーラ・カーラーマのところに善なるものを求め、いくのです。

そんでもって、いくらか修行したのち、
アーラーラ・カーラーマに
「この教えをどの程度知っているのですか」とたずねます。

彼は、「無所有処(むしょうしょ)定」という境地を教えてくれるのです。

そのときのブッダの言葉。

「アーラーラ・カーラーマにのみ信があるのではない。わたしにも信がある。
アーラーラ・カーラーマにのみ精進があるのではない。わたしにも精進がある。
アーラーラ・カーラーマにのみ念があるのではない。わたしにも念がある。
アーラーラ・カーラーマにのみ三昧があるのではない。わたしにも三昧がある。
アーラーラ・カーラーマにのみ智恵があるのではない。わたしにも智恵がある。」

こう言って、自分も同じ境地を得るため努力するんだけど、いいなぁ、この言葉。
けっこう、勇気がわいてくる。

最近では、「わたしにも信がある。精進がある。…」と言いながら、やってんですけど
だけど、一つ出来なもんがある。三昧(禅定)って、これ、できないよ。

無所有処定(何もないという禅定の境地)…

むりそうだわねぇ。

でも、それ、どこかにありそ。

何もない

何もない

何もない

何もな

あたいの

あたまだった! ……   なんだ、元から悟ってンじゃん 


……………   ああぁ ……  おばか

| | コメント (2) | トラックバック (1)

« 2005年9月18日 - 2005年9月24日 | トップページ | 2005年10月2日 - 2005年10月8日 »