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2005年8月7日 - 2005年8月13日

2005/08/13

他人の心わかります

本日、素数の歌さまのコメントよりいただきました問題

「他人の心は知られうるか」

を考察したいと思います。

というよりですよ、哲学者諸君!いったい何だと思っとるのかね、他人というものを。
本気で言ってるのか、いつもこの問題見ると悩むんだわ。

わかるに決まってるじゃん。
いや、わかるに決まってると思って暮らしてるに決まってるじゃん。
いや、わかるに決まってると思って暮らしてるに決まってると決めてるじゃん。

たとえ哲学的には「他人の心は知られない」という結論に達しようとも、
実践的には、上の三つの文のうちどれかを信じているんじゃないかと思うわけです。

じっさい、わたしの観察・考察したところによりますと、

他人の心はある場合とてもよく知られます。それは、自分の心とまったく同じようにです。

例えば、他人の歯の痛みは他人のもので、自分は痛くありません。
でも、うう、イタイだろうなぁ、って自分の歯の痛みを思い出したり、想像したりします。
顔をゆがめている様子を見て、知るわけです。

歯の痛いのを
見て知る

同じように

泣いている人を見て、笑っている人を見て、怒っている人見て、そうと知ります。

泣いている人の悲しみは、その人のもので自分のものではないのです。

が、

ときたま、その人の悲しみをそのまま自分の心が感じることがある!
(まったくの珍説ですが、マジな珍説です)

それは、いつでも起こるわけではなく、まれにしかやってきませんが

心によって心を知る

っていうのが、起こることがある。

何?疑うんですか?
胸に手をあてて考えてみてよ。

その人の喜びがそのまま自分の喜びになるから、
甲子園は盛り上がる!
その人の苦しみがそのまま自分の苦しみになるから
戦争は悲惨なものになる!

このあたりは、まだ疑う人もいるかもしれない。

そんなこと言えるもんか。
他人の喜びが自分の喜びと同じだってどうしてわかるんだよ、
証拠見せてくれよ、おい!

こう思った人いませんか?
思った人がいたとしたら、わたしはあなたの心を「ネット心」によって知ったことになりませんか。
ちっ!詭弁だぜ!それにだいたい「ネット心」ってなによ?

こう思った人いませんか?
思った人がいたとしたら、わたしはあなたの心を「ネットでつながるネット心」によって知ったことになりませんか。
はは~ん、きっと続くでしょ、この話!「ネットでつながるネット心」ってなによ、ってぐあいに延々と。

はは、あたり!
みなさんが、
「ああ、わかったわかった!他人の心は知られますよ、そう言えばいいんでしょ」
って根負けするまで続けられるけど、大人げないので止めます。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
でも、チョーマジにいうと、

「心によって心が知られる」というこのことが、確実におこると断言できる場合が、

わたしの経験では一つだけあります。一つ見つけました。

どんな場合でしょう?

考えてね。答えは、明日よ。

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2005/08/11

まずいですか?まずいようで…

おととい

「なんかまずくない?
こういうこと考えるのって…」

と書いたわたしですが、
ずんずんまずい方向に進行中。

「やっぱり、まずい…」として、シリーズ化決定しようかと思うくらいだ。
別の考えも浮かんじゃったからですわ。

自分から古池に飛び込むカエルのように、
自分からわざわざ古い偏見にとらわれに行くのが(哲)学者じゃないか、

って考えをさっきから消そう消そうと必死なんだけど
出ていかないのよ。

誰か「あなたのそういう考えも十分偏見だと思うよ」っていってくれるとうれしいけど…

うれしいかな?
うれしくないか

結局自分で定義づけた「哲学者」の典型が、自分、ってことになるんだわね。

自己完結してる、ってとこは、いちおー、すばらしい(?)と思うけど、
結論は、ちっともうれしくない!わ。

それに、この考え思いついたの、自分をみてて思いついたんでなくて、
他の人みてて思いついたんだから…。

めちゃ、まずい…
めちゃくちゃ、まずい…
あまりにまずいので、仮止めの封印するぞ!

なんかひとりでもがいておりますが、
それもこれも、ブッダの論理学を知ってしまったおかげさまでございます。

ブッダは、悟ったあと、解脱の楽を感じつつ7日間結跏趺坐していたそうな。
わたし、本を書いてから出るまで7ヶ月ボケッとブッダの論理学の中に浸っておりました。

隣で、何だか知らないが、ひとり奮闘してる龍樹眺めて、
「そんなにかりかりしないでさ、こっちきてお茶でも飲めば」
って言ってたのよ。

本出てわかりました。
かりかりしてた理由が。

『方便心論』の中で、
マンゴーの実(仏の正法)を守るために荊棘(とげとげいっぱい)の林(龍樹論法)を張り巡らせるのだ、
と言って、
論法を造ったわけだけど、

この龍樹の論法というのは、

ブッダ論理学をたんに変容させたものにすぎない、ただそれだけ。

ある意味、自己完結してる。

『ブッダ論理学五つの難問』の中では、たぶん、みなさん、そんなにとげとげ感じなかったと思う。
現代論理学を批判したので申し訳なかったけど、
「すでに業界内部言われている批判だ」という意見もあるように、
そんなに痛手ということもなかったと思う(希望的観測)。

でも、ブッダの論理学をエッセンスだけでも書いちゃったんだから、
このブッダの論理学を外敵から守る必要も生まれてくる…かもしれない。
デリケートだから、ブッダの論理学は。
とげとげ論法もいるようになるかしら…願わくは、なしで済ませたい。
わたしも、うれしくない結論、自己完結へといくことになっちゃうし。

ブッダは悟ったあと何してたんだ、という疑問のある方もいらっしゃるかと思いますが、
こりゃ、悟ったあとのケアの方がめっちゃたいへんだったろうということを、しみじみ実感中。

奥歯にものがはさまったような日記になっとりま。


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2005/08/09

哲学者ってヤツは…

哲学の講義で
夏休み前に、前期の試験問題出して、
「夏休み中かけて考えて力作を仕上げて答えてね」
と言っておいた。
そしたら

「せんせ、自分の書いたの見てください」

と言われたので、

メールアドレスと住所を教えて、

「送ってくれたら添削してあげる」

と言ったら、ほんとに何人か送ってきた。

今の学生さんて、まじめだなあ。
一生懸命考えてるし、えらいわ。

去年なんかすごいのがいくつか出てきてビックリしちゃったわ。

去年は「論に甘いところがあればツッコミ入れるから。わたしのツッコミ、かわしてよ」と刺激したら、
かな~り対抗意識もやして、マジでツッコミかわそうと相当すごいの書いた子が何人かいておもしろかった。

哲学の中にも競争原理みたいのが入るんだな、って思って。
ときたま、そんな子がいて楽しい。たいてい男の子だ。
哲学の動機は、「よおしぃ!せんせに負けるか!やってやる」なんだけど、
そんな不純な動機でも、そういう子が集中すると、あっという間に哲学最前線までいっちゃうから、ほんとおどろくわ。

ナーマギリの神さま見たな!って子もいる。
書いてるもんみるとわかるわよ、わたしだってさ。

こういう体験を何度もしてるとね、
自然に浮かんでくるのよ、こんな考えが…

この世で一番頭悪くて感覚鈍い人がなるものが、哲学者なんじゃないか、って。


なんか、まずくない?
こういうこと考えるのって…

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2005/08/07

ナーマギリの神さま

イマイチ、疑われている本『世にも美しい数学入門』

これから引用すると、ますます疑われそうだけど、インド関連のお話なので、いいかな。

数学の天才ラマヌジャンが毎朝新しい定理6こづつつくって、ハーディ教授のところにもっていくお話が書いてありました。

ラマヌジャンについては、詳しい伝記も読んだことがあるし、論理学の本の中でもでてきたことがあるので、わりとなじんでる人です。彼にまつわるエピソードで必ず言われることがあります。

天才の彼は、そのすばらしい定理の数々をどうやって見つけていたのか。
彼が言うには
「夢の中でナーマギリの神さまからおそわって、起きたらその公式を書きとめているんだよ」

いつもこう言っていたそうです。
ここで、問題になるのは、この話いつも

「へぇ~、そんなことあり?そんなわきゃないだろがぁ。」

って、感じがつきまとって話されるということです。

インドの文献長く読んでるとわかるけど、これまるっきりそのまんま、ほんとだと思うよ。

つまり、知恵の極致というのは、案外無意識に近いんだよね。
インドの人がいう「無分別知」ってのが、そうだと思うけど、それだけが真実なんだ。
「有分別知(概念知)」は、普通のみんなの知識だけど、これに至るとミスを犯すんだよ。
だから、わたしやあなたやみんな間違うわけ。
そんな有分別知だけでやるから、1年に一個の定理がせいいっぱいなんだと思う。(あ、すみません、F原せんせ)

論理学で、この話が出てくるのは、「発見の文脈」という話しのときです。
発見するときには、天才のひらめきみたいなもんで見つけるから、そこには論理は存在しない。
だから、すばらしい定理ができる理由をあげるとき

ナーマギリの神さまが現れたから

というのは、理由にあげてはいけないと言われるんだわ。
これは「発見の文脈」だからね。つまり、たまたまでしょ、ってわけ。
だから、正しいことを示す「根拠づけの文脈」で理由を語りなさい、っていうのよ。

昔はね、この話に納得してたのよ。
なるほど、そうだよなぁ、神さま出てくると定理が出てくる、ってのはおかしいよな、って。

愚かだったわ。
まったく。

ナーマギリの神さまが出てくるようになったら、確実に新しい定理が生まれてくるに決まってるじゃん。
これは、定理が生まれる確実な前兆なのよ。

だってね、真理というのは、自分の中から絞り出すもんではないからだわ。
絞り出す苦労の果てに疲れ切った頃
ふいに向こうからやってくるのよ、ほとんど意識してないときに。

「ナーマギリの神さまが現れたから」

しかし、まぁ、彼を信じる人には、これほど確実な論拠もないけど、
彼のことを知らない人には、これほど嘘くさい論拠もないわねぇ。

おもしろいもんね。同じ一つの文なのに、同じくらいの確度で、真になったり偽になったりするなんて、ね。

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