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2005年7月3日 - 2005年7月9日

2005/07/09

更新しました。トップページ。

眠いです。久々にHPをごそごそとやっとりましたら、今までかかってしまった。
1時半。

メインのページを原始的なタグ打ち手法で作ってたんですが、
うっかり間違ってワードで開いてしまいセーブしちゃったら、
次から、もう訳のわからないファイルに変身していて、
どうやったら編集作業ができるのか、皆目わからなくなりました。

それで、メインページさっぱり更新されずほったらかされていたのでした。
どうしよ。
どうしよ。
どうしよ。

今日、といっても、昨日、とうとうもとのファイルにもどす作業をしてようやく何とか見慣れたファイルになったのでした。

え?
見慣れないもんがある?

あ、それ、本です、一応。

とってもおもしろいから読んでね。

いや、ほんとは、おもしろいかどうかわからないんだけど、
おじいちゃんが読んで「おもしろい」と言ったから、
書いておきます。
違ったら、じいちゃんをうらめ。

ブッダは本当は論理学を説いていたのだっっぁ~~っ!

ということが書いてあります。

龍樹も出てきて、ちょっぴり、詭弁論者ぶりをご披露するのもご愛敬です。

イラク戦争も書いたし、無我・悲我も書いたし、

何か、たまっていたものを全部はき出して、すごく、すっきりしました。

下宿人さまが、いいました。
「本が出て、最初に開くと…」

「え?最初に開くと、何なんですか?(わくわく)」

「誤植が見つかりますよ。」

ええっ!不吉なぁ。聞くんじゃなかった。

…で、

みつかりました、誤植。

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2005/07/07

『インド思想史研究』論文不採用のお話

ちょっと、まじめに、お知らせです。

昨年2004年12月11日京都で開かれたインド思想史学会で、発表した「ニヤーヤ学派の言語論」
の原稿ですが、『インド思想史研究』の採用はボツとなりましたので、お知らせします。

いろいろな意味でとても残念です。
聞いてくださった人が、何人も
「雑誌掲載になったら、読んでみますよ」
とおっしゃってくださったので、
けっこう力を入れて書きましたが、査読により採用不可となりました。

この論文は、インド哲学研究にとって、ある意味、問題提起の内容を含んでいるので、
どう評価されるかな、と気にはなっていました。
しかし、正直言ってボツとは思いませんでした。

で、

よく考えると、
この論考は、このままでは、闇に葬られることになってしまう、
ってことに気づいたのです(おい!気づくのおそいよ)。

なので、

このホームページに、栄えある「不採用記念論考」として載せようと思います。

日本語を英語に直して出しましたが、
こんどは英語をまた日本語にもどして、っと…

そんなわけで、すぐには載せられませんが、
直し次第載せますので、お楽しみに。
どんなものを書くと「ボツ」になるのかご参考になさってください(なさるかっ!)。

【ボツ理由について】
さて、論文のボツ理由は、『方便心論』の「言失」という言葉の解釈が論拠不十分というものです。

おい!おい!
この論文のテーマそのものなんですけどぉ。
これがダメと言うことになると、自動的に全部の内容が消滅しちまうんですよぉ。

対立の論点

「言失」の解釈は、

この日記の中(2005/02/26)や「ロゴスの穴」の「戯論寂滅(けろんじゃくめつ)とヨンさまの深い関係」(2005/02/27)で、すでに述べてあります。

一見何でもなさそうな「言失」のこの二つの説明が、

たぶん、

いずれ、

龍樹研究だけではなく、

インド哲学研究の方法論上、

大きな問題を提起することになる…

預言者エムは思います。

この「言失」は、龍樹の「空」思想の根幹にも関わる内容です。

「言失」を用いて、

龍樹が当時のインド・仏教の思想界にどんな殴り込みをかけたのかを

明らかにしたのが

今回の論文なので、


ぜひぜひ

みなさんに、発表したままをご覧いただきたいのです。


「言失」論拠不十分ということでしたが、
じっさいには、論拠ははっきりしていると言えばはっきりしているのです。

これは、引き算を用いた証明問題なのです。

わたしが、証明したのは

『方便心論』=『ニヤーヤ・スートラ』-『チャラカ・サンヒター』

だったのですから。

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2005/07/05

心の満足か、財布の満足か

昨日、時事英語の先生に、「お釈迦さんのことわかる?」と聞かれました。

「あ、最近(?)、わかりますっ」

「お釈迦さんは『慈悲(compassion)』についてなんて言ってるの?
西洋の慈悲とどうちがうの?」

え?
おしゃかさんから何にも聞いてない。
それに西洋の慈悲って?

そうしたら、Time(2005.2.28の切抜きをくれました。

Pankaj Misra という人が書いたエッセーで”A Deeper Sense of Happiness(幸せのもっと深い意味)"という題でした。
そして、次の副題に

「仏教が教えるのは、心が満足に向かう道です、財布が満足に向かう道ではなく」

と書いてありました。

アメリカ大統領ブッシュの言葉「『慈悲(compassion)』は、アメリカのもっとも深い価値の一つである」
をやや皮肉っぽく引いて、仏教の「慈悲」と比較していました。

さらに、
ここから「自由」と「幸せ」という言葉をキーワードとして導き出して、

「仏教徒にとって、幸せの極致というのは、内面的に自由であることであって、何かを得たり、消費したりすることへの自由ではないのだ」

と教えています。

「幸せは、自分の外側にあるできごとによるというよりむしろ、心の状態によって決まるのだ」

とも書いています。

亡くした子どもを元に戻してくれと泣いて頼む女の人に、死者を出したことのない家から芥子種をもらってくれば、子どもを元に戻してあげようといったブッダの説話もはいっています。

アメリカもこういうエッセーを必要としてるんですね。
同じように、財布の膨らむ道を求める日本もかもね。

それにしても

本当のところ、もっとも同情すべきはどこの国なんだろうか?

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