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2005年6月19日 - 2005年6月25日

2005/06/25

む、むむ、むむむ、矛盾律ぅ~

くやしいです。
がんばって大作書いて、よし!アップだっ、っと
クリックしたら、

うう、全部消えちゃった!

過去を消された女、ってあやしいタイトルにしようかな。
イヤ、消されまいぞ。
もう一回挑戦だ。
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昨日は、あまりに暑くて、哲学の時間もみ~んなやる気なし。
もち、わたしも。考えてられるかぁ、ってかんじです。

そうしたら、学生さんが
「隣の視聴覚室、冷房はいるんですよ、風は抜けるし、すずしいですよ」と悪魔のささやきをささやく。
ほんとだ。別天地。
「よし、みんな、隣の教室にかってに移動だっ」

もう快適にるんるんで授業をしたのでした。
他のクラスの人はごめんなさい。
人間は快を求め不快を避ける動物なのだ。
頭は使うものなのだ。
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さて、暑さを冷房で乗りこえたわたし、
帰りに列車の中で元気にラッセル『哲学入門』を読む。

おお!やった!
これは、ラッセルさまも気づかぬパラドックスではなかろうか!
おもしろいから、みんな。いくよ!

カントが言うところの「矛盾律は思考法則である」という意見に反対するラッセルさまです。

彼は、
「矛盾律を信じることは、ものに関して何かを信じることであり、思考に関する信念にかぎられはしない」
というの。
もう少し引用すると次のよう。

(わたしたちは)「私たちがある種の木をブナだと考えるならば、同時にそれはブナではないと考えることはできない」ではなく、「ある種の木がブナであるならば、同時にそれがブナでないことは不可能だ」と信じているのである。したがって矛盾律はものに関わるのであって、思考にのみ関わるわけではないのである。…」

さらに、問題の個所です。以下も引用よ。

私たちが矛盾律を信じているとしよう。そのとき信じている矛盾律が世界内のものについて正しくないとすれば、たとえ私たちが「矛盾律は正しい」と考えるよう強制されていたとしても、それが間違っていないことにはならないだろう。ここから矛盾律は思考法則でないことがわかる。

この文章、わっかるかなぁ!パラドックスを含んでいると思わない?

「矛盾律は正しい」をAとするわ。
私たちは、Aを信じてるのね。
だから
  A … ①
だけど、じっさいは¬Aだった、とするのね。(¬は「~でない」をさす)
だから
  ¬A … ②

そのとき、「Aなんだぞ、わかったな、それを信じるんだぞ」といくら脅されても(①を主張)、
じっさい事実としては¬Aなんだから(②が成立)、「Aが間違っていないことにはならない(=間違ってる)」、すなわち、¬Aだろ、それしかないじゃんと言っておるのよ。

つまり、彼は、自分自身、①と②が同時に成立してはいけない、って思ってるのよ。
だから、見事に

¬(A∧¬A)

を「信じている」ことをここで証明してるのよね。

「矛盾律が(思考法則ではなく)事実として成り立っている」という強い信念を、矛盾律それ自身によって表明しているのだわ。

おお!信念というものが、かくも、かくも、強固に抜きがたい、っつうことを自ら示しているのヨンさま。

感動だわ!
もう、事実と思考のみさかいがない…っていうと変かしら。
そこまで、信念は強いものなのねぇ。

したがって、ラッセルさまの証明により、
「矛盾律は思考に関わらない、ものに関わる」を証明するという彼の意図とはうらはらに
「矛盾律は思考に関わらない、ものに関わる」を信じているという彼の思考「法則」を

知ったのでした。

「矛盾律は思考法則である」

と言うか、

「矛盾律は思考の約束ごとである」

のだと、わたしは、思うわ。

だって、ある種の木がブナであって、同時にブナでないこともあってもいいよね。
知ってる人にはブナだけど、知らない人にはブナではない。
燃えおちたブナの木は、ブナの木であって、もはやブナの木ではない。

ラッセルさまには申し訳ないんだけど、
ブナの木が、ブナだったことって、
むしろ少ないかもよ。

はぁ、ラッセル大好き!

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2005/06/23

ほんとに、暑いって、やね。

何だったんだろうか?
昨日からずっとココログに入れず、悪戦苦闘していました。
パスワード再発行してもらったり、あっちこっち開いては閉め、閉めては開き、いろんなとこを読みまくり。

ウィンドウズのヴァージョン・アップしたからだろうか。
ココログの悪口言ったからだろうか。
暑いからだろうか。

何十回も試み、その都度裏切られる。

ほんとにあれこれ悩む。
とうとう、夫にヘルプ・ミー・サインを送る。

「ログインしてもぜんぜん開かないんだから」

っと、言いつつログインをクリックして

「ほらね」っと言いかけたら

あれ!開いたよ。
もう!
完全に立場ないじゃん。
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下宿人さま『仏教の謎を解く』(すずき出版)が明日発売ですね。
仏教の不思議が、これですっきり。

って、下宿人さまって、知らないうちに本を書いてるんですね。
下宿人さまの不思議
ですわ。

明日は、哲学の時間「認識」についてみんなと考えるつもりなんだけど、

実在論的な見方(外界がある)と観念論的な見方(観念がある)の他に、何か

おおお!

っていう、変わった理論ないかしら。

お釈迦さん、ってどうよ。

外界があるとも言わず、ないとも言いませんね。
ううん、むずかしすぎるか!
「幻のごとくである」なんて言ってもね、どうすりゃいいの。
なるほど、
やっぱり「空」の哲学って、むずかしいんだわね。

暑いせいで、頭がほんと空(くう)状態、つまり、からっぽでした。
今まで読んでくれてすんません。
空(から)思想を語ってみました(あ、おこらないでくれい)。

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2005/06/21

ラッセル菩薩本生譚

バスの待ち時間や地下鉄で、ラッセルさま『哲学入門』を拝読させていただいておりますが、
けっこう興奮するのでまずいっす!

敬語になっちゃったヨ。

ひとりで「うーーん」なんて感興の言葉が出てもまずいので、
5秒ごとに脳みそを冷やしつつ、読む。
だから、進まないや。

西洋人にしておくには惜しい!なぁ。
この頭は、インド人のもの。
絶対うまれるとこ、まちがってる。
そうか、だから、中国人の奥さんもいるのか…って、何の関係もないすね。

おお!見えます!みえます! 
彼の前世が…

じゃーん!ラッセル前世物語の始まり!始まりぃ~。

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過去世において、ラッセル菩薩はインドの地に生まれた。
彼は、インドのオウムだった。
横顔の似顔絵がそっくりだから、すぐわかるヨ。

彼は、森や林の中で日々精進する龍樹菩薩の頭に留まって、龍樹菩薩の口まねをするのがならいだった。
わけがわからなかったが、彼の論法を口まねた。

こうして功徳を積みながら

オウムの頭で習い覚えた「論法」をもって、幾世も過ごしてきたのであった。

ラッセルは、菩薩の生涯を幾重もかさね、ついに、この世に生を受けたのである。

ときは19世紀の終わり、

彼はとうとう人間界に生まれ出でたのであった。
龍樹の頭に留まった功徳により、彼のすぐれた智恵の断片を手にして。

が、

もとオウムの悲しさ、相手論者の説く論法と龍樹菩薩の説く論法との区別を忘れて、

さらには、龍樹の論法の微妙さを会得しきれず、

彼は、20世紀屈指のごりごりの実在論者として出現した。
彼の思想に、アートマンの残り香もあるのは、そのせいなのだ。

それは、反対論者の論法だっ、ラッセルく~ん!

それでも、

その鋭い論法は、迷妄の闇にしずむ20世紀人を魅了した。
彼の平和を願う菩薩行の実践は、称えられノーベル賞を受賞した。

菩薩の彼に欠けているもの、それは瞑想行である。ヨーガである。
これをプラスすれば、あと無量のカルパ(劫)の後には、ブッダ(目覚めた者)となれる…ううん、どうかな。

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しかし、まあ、管理人って、妄想癖があるのかしらね。
みなさん、ヨーロッパの人には内緒にしてね。
ラッセルのこと、誉めてるように見えないかもしれないから。
(誉めたの?そうよ、もち、誉めたんだったら)

彼のもの読むと、
ブッダの阿含経典や『ニヤーヤ・スートラ』にもわずか通ずるところがある…

けど

おおくは、4~5世紀の部派のアビダルマや唯識学派の思想、ニヤーヤ学派の思想、このあたりの議論と共通する内容をもっているように思われます。

どこが、どういう風に似てるか、そのうち勉強したいわ~。
おもしろそっ!だもん。

龍樹やって、ニヤーヤ・スートラやって、ブッダの阿含やって、その後、やるわ。
来世か、来来世か、来来来世にがんばってみるわ。
オウムに食われるミミズになってませんように。

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2005/06/19

「我執」の哲学

ラッセルの『哲学入門』がまた翻訳し直されて出版されたというので、買って読んでいます。
ちくま学芸文庫です。
字が大きくなってうれしいわ。読みやすい。

ラッセル節も、健在ですね。
ラッセルって、誰が訳しても、ラッセルなのね。ステキだわ。

好きです札幌、って、キャッチフレーズがあるんだけど、それにならって
「好きですラッセル」って、言いたくなる。
何か読んでると、合いの手が自然に入る。
(「愛の手」て、かってに変換したけど、それもいいかな)

「そうだ、その調子!」
「どんどんいけっ」
「負けるなラッセル」

っと、はげましのエールを送る。

内容的に賛成しているというわけではないけど、
論理を追求する態度が、首尾一貫していて気持ちいい。

気持ちいいラッセルの言葉の一つ「センス・データ」は最近どこに行ったんだろう。
感覚与件、感覚所与なんて訳されたっけね。どうだっけ?
使われないね。
その代わり、「クオリア(感覚質)」という、よくわからない説明のついている言葉が流行っています。

これがどんなものか理解するのに苦労したけど、最近ようやくわかってきました。
たんに「感覚」ということなんだけど、それに「この俺の」「このわたしの」という言葉のついた「感覚」のことです。

「(あんたのことは知らないけど、このおれの)感覚」を「クオリア」というのですね。
言い換えれば、「独我論者の感覚」、「自我意識つきの感覚」、「感受作用の自覚」ということかな。
そして、
「あんたのことはしらないけどさ」という意味を含んでるにもかかわらず、
そこには「誰でもあるだろ、『このおれの』感覚ってヤツは」という意味も含んでいるので、

どうにもやりきれない言葉です。
それが、どんな文脈でも顔を出すのは、勘弁してよ。

ラッセルは、自分の文脈では「センス・データ」と言い、「クオリア」というような、主体にかかわる意味を持ち込まなかった。やっぱり、彼は哲学の巨人だったのねぇ。

今は、科学の世界にも「クオリア」という語がもちこまれる。

今までの「科学の時代」は終わったんだ。

混沌とした「愚者」の哲学の世紀が幕をあけてきたようね。

「愚者」というのは悪口ではなくて仏教の用語です。

悪口にきこえる?
すみません、言い換えます。

「我執」の哲学、「我が儘(ママカーラ)」の哲学…なお、よくないか。

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