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2005年1月9日 - 2005年1月15日

2005/01/14

医学と論理

とつぜんですが、仕事ですっ。っという感じに始まりました。

朝7時に家を出て4時前に帰宅。
その間、座れたのは汽車と地下鉄、あとベンチ。
ほぼ8時間近く立ってた計算になるのか。

休み明けで身体がなまっているので、きつ~。
鍛えなきゃダメだわ。

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看護師さんに教えている論理学は、最近どんどん変容してきている。
もはや、論理学とは呼べないのではなかろうか。

いや、そんなことはない。
西洋哲学からどんどん遠ざかっていることは確かだけど。
これは「ブッダが説いた論理学だから」と言いながら、因果律の見つけ方を伝授する。

やっぱ、これだわ、因果関係。まず、看護師さんたちに必要なのは、これよ。
医学の基礎におかれるのは、因果関係よ。

インドの医学の考え方には、因果関係が基礎にしっかりあって、それを補完するように演繹的な論理学が存在している…ような気がする。
インド論理学の構造(主にニヤーヤ学派)がだいたいわかってきた…ような気がする。
何か、看護師さんに教えながら、自分で教わっている…ような気がする。

看護師さんに論理学教えられて、ほんとにありがたい。
この「られ」は、受動と可能の両方の意味があるわね。
教えることができて、さらにわたしも教えてもらえてラッキーだわ。

なんか新たに開眼しそうな予感がしてきているのよ、論理学の分野でね。

いままでは西洋論理学は絶対的なものだと思ってきたけど、どんどん自分に西洋論理学批判の芽が育ってきているのはおもしろいことだと思う。
まじめに考えると西洋論理学は、けっこうおかしい。
なんて、こんなせりふ、去年なら絶対言えなかったなぁ。

西洋論理学は、西洋医学の役に立っているのだろうか。
西洋論理学は、科学の役に立っているのだろうか。

どうもあやしい。論理実証主義が出てきたのも、ある意味、必然だと思う。
印象では、論理学が使える領域を模索してたんじゃないかと思う。どうかな。
で、結局、西洋論理学は現実には使えない論理学だ。
これは、はっきり言って大丈夫だろう。だって、自分でさんざん使おうと苦労してダメだったんだから。

ここで、はっきり言えることは、これに対して

インドの論理学は、じっさいにインドの医学の基礎を固めているということだ。

ふーむ、もう少し勉強しなくちゃな。どのように基礎固めをしているかはっきり話せるところまで。
西洋論理学よりインド論理学の方が、この点では出来がいい…ような気がする。

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以上の文章から「…ような気がする」という部分を取り除くようにがんばるわ。

ところで、プラシーボ効果って知ってる?
薬理効果のない偽薬をプラシーボとかプラセボとか言うんだけど、これを患者に投与して「痛みに効きますよ」とか言うと、ほんとに効いてしまうのをプラシーボ効果と言うんだそうです。プラセボは、乳糖とかデンプンとか生理的食塩水とかです。これで効いたら、いいよね。

ところで、新薬の治験には、このプラセボを用いるグループを入れて新薬と偽薬で治験を行うのだそうだけど、そこにはどんな論理があると思うか、って、学生諸君に聞いてみた。
つまり、実験の中に、なぜ「偽薬を投与する」という条件を入れなければならないのか、とテストで聞いたんだけど、どんな答えが返ってきたかな。
言ってる意味最後までわかんない子もいたみたいだから、どうかなぁ。

むずかしいね。

新薬がほんとに薬理効果があるのかどうかを調べるためには、新薬そっくりの偽薬を使うグループを入れて、しかもお医者さんにも新薬か偽薬かわからないようにして(二重盲検法というんだそうで)、実験する。偽薬で治療効果がどのくらい出るかを参考にして、新薬の薬理効果を計るんだろうね。
偽薬が効いて、新薬を上回ったりしたら問題外だわね。
新薬が効果を発揮し、偽薬の効果があまりないというようなデータでも得られれば、新薬許可になるのでしょうか?

どんな基準なんだろね。それに、やっぱり知りたい、どんな論理がそこにはあるんだろうか。

行き当たりばったり風に見つけ出した方法ってこと、あるかしら?
患者さんの心理的な影響力を入れないで薬理効果だけ客観的に抜き出すというのも、ありかしら?

わかんないす。

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2005/01/13

整理整とんとんとん…おっとっと

こう、なんというか、だれてる日を過ごして、日々の雑事を片づけていると、整理整頓してきりっと目的をもった清く正しく美しい人生を送らなくてはならないような気がいつもしてくる。

そういう自分を見ると、「わたしって、ほんとうに清い性格なのね」って思う。

だれ?そこで吹きだした人!

わかったわよ!正直に言うわよ。
思うだけで、実際やってることはその逆よ。

ほんと整理整頓できないタイプだわ。ったく、何で、いつも本が雪崩れてるんだろ。
いろんなファイルだの、雑誌だの抜き刷りだのが山積みになってて、なんで、いっつも下から引っぱり出さなきゃならないんだろ。
たまには上に乗っかっててもいいと思うの。
必ず探しているものの中の一番最後に求めるものがあるというこの絶対的な原則はなに?

ほんと歌のせりふじゃないけど、「さがしものは何ですか」の世界だわね。さがしもの人生よ。

「探す」

なぜさがすか?わすれているからよ。なぜわすれているか?…う、言いたくないけど、記憶力がゼロだからだわ。
覚えていれば探さないわ。探すものは、忘れないようにと書いておいたものよ。あるいは書いてあるものよ。

なぜ書いたか?忘れるからだわ。
何だか循環してきたわね。

でも、書いたことを覚えていれば探せるわね。書いたことすら忘れてしまうようなら、もう探さないわ。

ところが、何を書いたかわからないけど、もしかして、忘れないようにとなにか書いたかもしれないと思うから探してみる、という「探す」があるのよ。

これこそもう究極の「探す」だわね。

すばらしいわ……?

つまり、何を探しているか、それを探すために、探しものをするという、自己完結型の「探す」こそ

真に「探す」といえるのでは……ない!そんなわけないでしょ!

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まじめに考えると、人生とはかくの如きものかと…

人生の意義を探す、それすなわち人生→自己完結→自己矛盾→パラドックス(でた!久しぶり)

ということは、人生って、なくてもいいのかな?

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2005/01/11

惰眠をむさぼるとろくなことを考えないの巻

昨日は、熱っぽくだらだら寝たり起きたりしてしまう。

家族は、当てにならないとわかるとテキパキ自分でし始める。げんきんなやつだ。
夫もテキパキポカリ○ウェットとバナナを買ってきて、わたしの枕元にお供えする。

まだ、はやい、死んでないっちゅうに。

そして、わたしはポカ○スエットで水分補給をしながら、まったく愛情表現に欠けると思うのだった。
わたしもげんきんかな。ははは。

することがないので、ぼうっと寝ながら思索にふける。
愛情表現で思い出したので、愛について考える。なかなかグーな話題だわ。

ブッダと龍樹には、愛をささやく能力があるだろうか、っという超難問に挑む!
なんだ、また、ブッダと龍樹か、ですって。
いいじゃない、いろんな可能性に挑戦しないと学問とは言えないわ。

そういう問題に取り組むと学問じゃなくなるような…って、ま、気にしない、気にしない。

さて、真剣!
ブッダは、ね、これは、経典の随所で背が高くてすらっとしてて姿形がよく気品があってたいそう美しいというようなほめ言葉が見られるから、単純に言うと、かっこよかったのね。
アジャータシャトル王が、沙門の群れの中にひときわ気品のある姿を認めて、あれは誰だとたずねるくだりがあったと思う。うろ覚えだけど。

そして、説法がとても上手。相手の説いた詩でも何でも、それを受け取って、ちょっと変えて返歌するようなことをよく行ってる。粋でおしゃれな詩人だわ。あんがいでしょ。みんなを感動させることしょっちゅうだから。
また、理論肌でもある。論争を挑む者には、情け容赦ない論理の矢で論敵を射るのよ。かっこええ!

だから、これらの考察により、
ブッダは、その気になれば、つまり、煩悩さえあれば、愛をささやいて、ヨンさまクラスには軽くなれたと思うわ。
惜しいわ。あ、間違えた。

すぐれたお方だわ。(とってつけたふう)

さて、一方、龍樹!あんたよ。
わたし、心の中では、けっこうマジにほめ言葉ないか伝記や因縁譚を探ってるのよ。
かっこいいの「か」の字でもないかなって、探してるのに、これがひとつも見つからないのはどういうことなの?
え?いったんさいよ。

だいたい隠れ蓑の術を使って王宮に忍び込むなんて、なさけない伝説からして、もてないタイプということは歴然としてるわ。
「君の瞳に乾杯」なんて気の利いたせりふ絶対出てこないわよね。

「瞳がとらえたものは幻である。この世には男もなく女もない」てなこと言って、嫌われそう。
「女性の身体は糞尿の器である」てなこと言って、ひっぱたかれそう。

だから、これらの考察により、
龍樹は、その気になっても、つまり、煩悩がいくらあっても、出家のみちしかなかったってことになる…よかったね…なのか?

すぐれたお方だわ(とってもとってつけたふう)

ああ、疲れた。こんなこと考えてたら、もっと熱でそう。

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2005/01/09

他人の痛みはとくに痛いのよ!

昨日今日とかなり冷えてます。
寒い中、遠くの郵便局に出かけたら、どうも風邪を引いたようだわ。
頭が働かない、体が動かない、やる気が出ないの3「ない」状態です。

そこで、柔道の嘉納杯を見る。
井上康生選手のやる気パワーをもらいたい。
が、見てると右肩を痛めたようで、何度も気にして顔をしかめたり肩を回したりしている。

痛いの痛いの飛んでけぇ~っと言ってみるが、わたしが言っても飛んでかない。
あたりまえだ。

結局、痛めた右肩を押して内股で一本とって優勝しました。ぱちぱち!ブラボー!
しかし、痛いぞ。

優勝インタビューで

「プチッという音がしたんですよね」

という井上選手の言葉をきいて、わたしは優勝の感激が肩の痛みに全部変換。

それで、気持ちが萎えて、やる気パワーなんかゼロになっちまう。

他人の痛みはわからない、他人の痛みを感じることはできないというのが、哲学のテーマになることが多いけど、そんなことない。

他人の痛みも痛いですぅ。
井上選手の肩の痛みは、あの会場のみんな感じてると思うよ。
わたひだって、いたひ、ひぃ、ひぃ~。
ほらね、痛いのよっ!

頭が働かない、体が動かない、やる気が出ないだけだったのに、これに

肩が痛い

がふえちゃって、4「ない」状態になっちゃった。だめだこりゃ。寝ようかな。

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