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2005年4月3日 - 2005年4月9日

2005/04/09

認識は世界を作る

人間というのは、おもしろいもんですね。一つしかないものは、喜ばれない。

東洋と西洋とがあるように、
男と女がいるように、
有と無があるように、
善と悪とがあるように、
昼と夜とがあるように、
楽と苦があるように、

この世の中のものは、対立する二つに分けられる。

そうなら、なぜ現代の思想にはただ一つ、科学的なものの見方しかないのだろうか。
それって、変じゃないだろうか。


春秋社が出している雑誌『春秋』4月号に望月海慧氏の「仏教と輪廻転生」という題のエッセーがありました。
その中で、
「苦である輪廻的な生存を引き起こす原因は渇愛であり、それを滅ぼすものが智慧であると言われている」とあって、次に

(1)「このことは智慧により渇愛を滅するという心理的な認識の変換により、物理的に身体が輪廻するという生存形態から脱することを意味してるのだろうか。」と疑問を出しています。

そして、
この疑問を否定して、
「わたしはブッダがそのようなことを意図していたとは思わない」と述べて

(2)「智慧により渇愛を滅するという心理的な認識の変換により物理的に肉体が輪廻するという認識を排除することを意図していたと考える方が整合性を伴うように思える」とありました。

ここを読みながら、「ほんとうに、そうだろうか」とふっと思いました。

(望月氏の表現はちょっと…「物理的に身体が輪廻する」とはふつう解釈されない(死ぬと腐って身体は使い回しがきかないため)ので、ここは、「認識が物理的身体に影響を及ぼす」という意味に理解しておきます。)

たぶん望月氏は、現代人に一般的な実在論的な立場に立って考えているから、認識は身体に影響を及ぼすことはありえないと思うのでしょう。(2)の方が(1)より確かであると思うのは、意識は物質に手出しできないと思っているからですね。
しかし、このような実在論的な考え方は、やはり一つの考え方です。

一つの考え方だけではさびしい。対立する二つの考え方があって、ようやく思想や哲学も活気づいてくるだろう。

だから
ここでちょっと発想を変えてみるといいかもしれない。

というわけで…

物理的な身体と考えているものも、それはしょせん認識の所産です。
意識の上で実在であると信じているだけなのかもしれません。
物理的な身体と思っていたものも、認識の上ではそれは「色や形」にすぎません。
感覚器官が働かないとそれは現れて来ないのです。意外と、あやふやなものかも…って気もしてきます。

また、一方、実在論では目に見えずはっきりあるかわからないと思われる心の作用も、
逆に
認識されるという点では、これほどはっきりその存在が知られるものもありません。
心の作用は感覚器官が働いていなくても、はっきりとわかります。

苦しみ・悲しみ・喜び・怒りなどについて、「そんなものはない」という人がいないようなものです。
これらがあるなら、これらによって生みだされてくるものもあるでしょう。
現実の世界は、これらの感情によって生みだされ作られている世界だといってもウソにはならないでしょう。

ここに、実在論と全然ちがった世界がみえてくるように思うのですよ。
科学的な実在論ただ一つの世界観の中に住むのではなくて、もう少しちがった世界を見ようとしてみるのもいいのじゃないかと思うのでした。

仏教の思想というのは、現代の思想とはちがった世界を築いているというという点で貴重かと…。
そう思ってみれば、(2)ではなくて(1)の方が、ありうるかも。
認識が世界を作るんですから、ね、ね。

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2005/04/08

一難去ってまた一難

龍樹について、泥沼脱出とお伝えしましたが、
龍樹沼というのは際限なく続くので、
一つ脱出すると
次の沼が「はまってくれ」といわんばかりにひかえているのです。

んで、

はぁ、落ちたぜ!新たな沼に!

とは言っても、

そこはそれ、落ち慣れてる管理人だい、学習してるのよ!
致命的なダメージは避けるように、呼吸だけは確保してるモンね。

完全にはまって身動き取れないことがないように、いろんなところにつかまるモン用意してるのよ。

アリストテレス棒とか、阿含座布団とか、現代論理学の投げ縄とかね。

こんなこと言っては、失礼かもしれないけど、
今までブッダの教説全体を正しく理解した人って、龍樹くらいしかいないんじゃないだろうか。
現代にいたるまでのたくさんの研究者たちは、みんなせいぜい部分にとどまっているような気がするわ。

やればやるほど、これは煩悩消さなきゃぜったいわからん、ってことがよくわかる。
ミイラにならなきゃ、ミイラ取れない仕組みらしい…

それで、がんばって「煩悩消し」の行を行いつつ、読んでるんですが、

煩悩って、モグラたたきのモグラそっくりね。
一つ消したと思ったら、別のところからすぐでてくるんですもん。
三つも四つも出てくんなっ!っつうの。

本気で、思うんだけど、

断食とか、瞑想とか、エアロビクス(?)とか、ランニング(?)とか

した方がいいかな?

こんなことまで考えるなんて、本気で追いつめられてると思うわよっ!

誰よ?底なし沼に入ったなっ、ていう人は。

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2005/04/07

快を求めよ

急激に暖かくなって、一気に雪が解け雪山はみるみる小さくなってきました。
春じゃのう。

弁証法について詳しいことが知りたいけど、なんかいい本ありませんか?
西洋哲学、論理学の弁証法といえば、誰のを読めばいいんでしょう。

いま、アリストテレスを読んでいますが、これは「弁論術」だわね。

「快楽」ってのがあるわ。

「快楽とは精神の一種の運動であり、精神が全体として意識的に本来の状態を回復することであり、苦痛はその反対であるとしよう」(「弁論術」第一巻、『アリストテレス』(世界古典文学全集))

へぇ、本来の状態にあるのが快適なのか。
習慣も快適である、だって。
習慣づけられたものはすでに自然的状態になっているから、ですって。

強制されたものは、つらいものだから、それらと反対のものは快適なんだって。あたりまえだわね、これ。
強制されない、自然的欲求の対象は、快適だとあるわよ。

くつろいだり、骨折りや気苦労のないこと、娯楽、休養、睡眠

いいわねぇ。ほんと、快適なものばかりだわね。
ギリシア時代も、今の時代も、快適なものはおんなじね。

でも、自然的な本来の状態が快適だっていうのは、ギリシア的かな。
インドじゃ、快適なものをこんなにたくさんあげないわね。

ギリシアの「快適」って、とてもささやかだわよ。
おもしろいわね。

あれっ!これって、インドじゃ、苦じゃないかしら。

ちょっと聞いてよ。
「たいていの欲望には何らかの快楽が伴う。人は起こったことを思い出すか、起こるだろうことを期待して、何らかの快さを楽しむものだから。例えば、熱のために渇きに苦しむ人はかつて水を飲んだことを思い出したり、これから飲むことを期待して喜ぶ。」(「弁論術」第一巻)

渇いてる人が水を得られないのは、インドじゃ苦しみなんだけどな。ギリシアじゃ、快なんだ~。

ほお、

「死んだ人に対する悲しみや歎きにさえ一種の快感が伴うものである」

こりゃぁ、目から鱗だわ。でも、当たっているわね。思い出しているときは、たしかに喜びがあるものね。

こうなると、失恋の悲しみも、ギリシア人にとっては、甘美な思い出というわけね。
求めて得ざれば苦しみである、なんて、仏教の発想はない!

仏教じゃ、恋が成就したって、苦しみなんだぞ。執着がふえるだけだから。
えらいちがいですなぁ。

でも、ギリシアの人間讃歌は魅力あるわねぇ。
「何でも快適」って考え、管理人のこのみだわ。

こっちの研究にしようかな…おいおい。


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2005/04/06

映画を見に行った話

数日前、映画を見に行きました。
なぜ、日記に書かなかったかというと…

「ハウルのなんたら、見に行こうよ」と下の息子を誘ったら、
部活に人生をささげている息子は忙しくて暇がとれません。
結局「ダメだ」と断られ、こんどは
上の息子を誘ったら、一言「行かない」と言われました。
そのとき、誘ってないのに、夫が「行ってもいいよ」というのです。
ええっ!誘ってない!さそってないっ!っちゅうのに。

やむを得ません、来世の功徳のためと決心して、夫と行くことにしたら、
こんどは、息子が「ずるい、僕も行きたい」と言いだし、
結局
三人で行くことに。

もう、この時点で、先行きに暗雲が立ちこめているのでしたが、
なんとかようやく日程を調整して、札幌駅のシネマなんたらという映画館の集合体のようなところへ行くことにしました。ま、そこしか映画館ないんだけどね。

人混みと都会が苦手の夫と息子は、駅のおしゃれなコンコースを歩いているだけでびびっています。
ようやく7階までエレベーターであがり、扉が開いたとたん、絨毯を敷き詰めた映画館の豪華な(?)券売所と人混みに完全に足が止まって進みません。

その上、ぎりぎりで行ったので、よく見るともう券がが売り切れで、「入場できません」と書いてあります。

夫とむすこは、これ幸いとそのままくるりときびすを返し、

「こんなところに来るくらいなら、もう一生映画見なくてもいいね」
「映画は場末の映画館で見るもんだよな」

といいつつ、すたこら家に帰って来たのでした。

わたしは、わたしで、もう二度と功徳を積もうなどと殊勝なことは考えまいと、
かたく、かた~く、心に誓うのでした。

それにしても、裏寂れた場末の映画館でイージー・ライダーやバスター・キートンなんか見るのが、
しみじみ映画っちゅうもンだよな…

って気もちょっとする管理人は、やっぱり同類かなぁ、ああ、やだわ。


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2005/04/04

論理は、しょせん論理だから、ね、まあまあ、こらえてよ。

それにしても、日記というのはおそろしいものだわね。
作者の心をうつす鏡だわ。

研究が泥沼化してくると、すぐばれちゃう。
すずしい顔をして、わかったふりしてようと思うんだけど、
うまくいかんわ。

さて、そこで、今日のわたしはどちらでしょう?

あいかわらず泥沼でもがいているでしょうか、どろんこだけど泥沼脱出でほっとしてるでしょうか。

なんて、こんな問題出せる余裕がでてきたってことは…

あたりです。
小さい泥沼突破しました。

三浦氏の『論理サバイバル』(二見書房)は、なかなかいい本です。
サバイバル競争に生き残らねばならないわたしには、けっこうバイブルになりそう。

クレタ人が言ったという

「クレタ人はけっしてホントのことを言わない」

という文についての問題の解説見てて、キリスト教の教えにいたりました。(なんでやねん、どういう思考回路や?)。
ま、ま、そう、つめよらんでよ。話すからさ、ちょっとだけ、あとで。

こういう、論理学に詳しい人が書くと、一般向けのお楽しみ本のような形をとりながら、
内実、分析哲学や論理学の学術論文の内容も伝えうる、っていうところがすごいと思います。
え?
そういうモンを読み取るアンタの思考回路の方が、もっとすごいって!
…うう、ごもっともで。

パズルやパラドックスを扱った本でも、出来の良いものと悪いものがあって、

本そのものがパラドックスになってるものと、

パラドックスそのものが本になっているものと

二種類あるんだけど、後者に当たるのはなかなかない。
この『論理サバイバル』って、わたしには後者に見えるわ。さんきゅ!

さて、「クレタ人はけっしてホントのこと言わない」ですが、このパラドックスについて中村秀吉氏は
『パラドックス』(岩波新書)の中で

「このパラドックスの表現方法にもいろいろあるが、クレタ人の逸話になって現れたのは、パウロ書簡『テトスへの書』第一章12が最初のようである。そこでは次のように書かれている、
『クレタ人の中なるある預言者曰く<クレタ人はつねにいつわりをいうもの、あしき獣、また懶惰の腹なり>』。」

っと、このように述べておるのよ。そして、パウロはこの言明のパラドックス性に気づいていない、とも述べているわ。

みんな、なにか感じない?
パウロはパラドックスと受け取らなかった。「ある預言者」の一見すると矛盾する内容に反応を示さないとすれば、これはパラドックスではないからだわ。預言者の中にある真意を読み取っているからでしょ、たぶん。
『新約聖書』の小説読んで、思ったのは、秘められた情報がここにはわんさか入ってるんじゃないかってことなんだけど、こんなところでも、確信するわね。何だかわからないけど、何かあるのよ。
だから、表現がパラドックスになるのだわ。
政治家が「ぜったい金は受け取っていません」といえばいうほど、みんなの心に「金もらったのか」という確信となって残るようなものね。否定は、じつは肯定を表すことがあることをみんなは経験的に知っている。
クレタ人の言うことには裏がある、っていうことか、クレタ人であることを確認したら情報が引きだせるということか、じっさいどうなってるのか、この一文しか知らないので、全然わからないんだけど、でも、キリスト教関係の書物って、謎解きだってことはわかるわ。世間一般をだまくらかしたい、みたい…?どう?

そして、いつの頃からか、この文がパラドックスとして定着したということは、その頃から、この文脈がもつ意味が誰にも分からなくなって、ただ表現だけにみんな気をとられるようになったということだと、シャーロック・管理人は思うわけ。

このクレタ人のパラドックスは、どこに純粋のパラドックスがあるか示してくれた三浦氏に感謝っ!

だって、ね、(純粋のパラドックスとしてみれば)クレタ人本人は、こう言ってる、って、彼三浦氏は言うのだわ。

「わたしのこの発言はホントではない」

そうだろ。そうだろ。
たぶんそれが重要なメッセージになるんだろうね、世の中何事も意味があるとするならば!だっ!と勝手に納得。

当たってるのか、当たってないのか、全然わからないんだけど、論理学からすれば、これしかないだろってことで。

なに?
解決したのか、解決してないのかわからん? …ははは、…ま、わたしも。

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2005/04/03

わかるって、わかんな~い

再び、龍樹に食いついて、数日たちました。

ちょっと立ち往生しているところです。

みんな!聞いてくれ!

龍樹は、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとに、

むずかしいんだよ!

昨日の日記「すり混ぜる」の次は「かみ砕く」「たたきつぶす」「きざみつける」「練り合わせる」という作業もいるなぁ。
まるっきり、力技ですわ!ふう。

彼のもの読むと、必ず現代論理学の本や分析哲学の本を読まなければならない。
それがわからないと、龍樹は理解できないだろうという予感がしてくる。

彼のもの読むと、必ず阿含経典を読まなければならない。
彼の初期の作品は、じつは、阿含の忠実な注釈書である。
とくに、『中論』と『方便心論』。
阿含経典と全然ちがうように見えるかもしれないが、それは、あなたの気の迷いなのよ。

『大智度論』は龍樹作ではないという意見もあるけれど、

その内容に深く入っていく研究をしている学者は、ほとんどの人が
龍樹作であると述べているようだ。

わたしも龍樹作なんだろうと思う。
『中論』と『方便心論』の理解にとても役に立つからだ。

でも

その内容のふか~いところで効いてくる、というように役立つので、
それを目に見える形で示すことはなかなかむずかしい。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
@ わかる人にはわかるが、わからない人にはぜったいわからない     @
@ しかし、誰でもが、分かりうる                         @
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

インド哲学のむずかしさって、こんなむずかしさだわ。
いや、哲学のむずかしさだわね。
いや、論理のむずかしさかな。

そして、インド哲学や仏教の教説は、出しゃばりでないのもこまっちゃうわ。
そのむずかしいことを、さらっと簡単に核心だけ述べて、あとおすまししてるんだもん。
だから、みんな気づかない。

で、困るのは、インド哲学や仏教が、分かる人には常にその核心を示しつつ、分からない人には何も言わない、という不親切スタイルを、わたしも踏襲すべきなのかどうかということ。

自分で分かったものを自分のものにだけしておくのは、良いことなのか、悪いことなのか、ってこと。
自分で分かったものを世間に公表するのは、良いことなのか、悪いことなのか、ってこと。

わからないわね。

わからないので、
迷惑かもしれないけど、発表してみることにしてるのよ。

一つ思うのはね、

わかりやすいことは必ずしも良いことではないし、
わかりにくいことは必ずしも悪いことではない、

ということだわ。
そしてね、本を読むときは、とくにインドの文献は、

他力本願はぜったい効かない、

ってことは言えるわね。

それにしても、
龍樹と戦うってことは、
朝青龍と相撲とるようなモンだよな…とんでもねぇ、こった!

だけど、土俵にあがっちゃってるし…

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