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2005年3月6日 - 2005年3月12日

2005/03/12

へいわな一日

3月も半ば近いというのに、吹雪いてますよ、マジですか。

今年は雪も多くて、机の脇に窓がありますが、窓の半分が雪に埋もれています。
最盛期(?)は、窓がほとんどぜんぶ雪でふさがっていました。
夜になってもカーテン閉めなくていいから、楽だったが…無精モン。


それにしても、へいわだ!

誰がなんと言おうと、悪戦苦闘の論文をやっつけたからです。

論文原稿は、編集作業のために特殊な入力を要求されるのです。
管理人の事務処理能力ゼロ、という特技をいかんなく発揮しましたけど、
なんとかいわれたとおりにやったと思う。
そう信じたい!

やり方や要領が「わからないときはそのままの形式で出せ」とある。、
「わからないとき」というのは、わたしのようなケースだということはすごくよくわかる。

でも、次の「そのままの形式で」というのが、もうすでによくわからない。
どういうのが「そのまま」なんだろ?

「そのまま」って何?

こういうところで悩んでいるようでは、もうすでに終わってるのです。
それすらわからないのでは仕方ない!

要領説明のとおりにやるしかなくなったのでした。
わかっても…わからなくても…(まずいかも)。

もう提出しましたから、管理人にはあずかり知らぬこととなりました。


とりあえず、へいわだ!

あらしのまえの静けさでありませんように…

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2005/03/11

はしをとおるな

昨日、書いたらすっきりしたんですけど、論文のネタをばらしているような気もする今日この頃。

ま、いいか!
忘れたら、日記を探ればいいのは、便利だし。

じつは、こんなネタとかアイディアとか、
考えはじめると山のように出てくるので、
思いついたときになるべく書き留めるようにしている。

書き留めることも忘れるのが、なさけないところなんですが。

掲示板にある、ヘンリーさまのreasonsに相当すると思う。
あんまり速いスピードで出てくるもんだから、ヒントみたいにメモしか書いてないときもある。
もちろん、詳しい論文みたいのもある。

昨日、PCのファイルを探っていたら、「龍樹関連」のメモがひょんなところから出てきた。
それにはこう書いてあった。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

パズルはどうして生まれるか?

論理のすり抜け

メタ言語
西洋のパズル
東洋のパズル

詭弁論者を作るには?

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
まだ、まだあるけど、おもしろそうなとこだけピックアップ!

すごくビックリ!はじめて見たわ、こんなの。
何考えてたんだろう?
自分で考えただけあって、項目見るだけで、すごくわくわくする。

んで、項目しかないから、もどかしいんですが。
きれいに忘れてるので、新鮮すぎる。

ふうん、項目から見たところ、パズル作家をめざしていたのかも…ンなわけない。

アイディアが枯渇するときもあるから、採っておくのはいいことだわ。

わたしの中には、二人の「わたし」がいて、常識人と非常識人に分かれてる。
3月9日「死後の世界は???」の例でいえば、(  )の中が常識人。そうでないのが、非常識。

「非常識」がわたしの大半を占めるが、楽しく「非常識」してると必ず最後に「常識」が出てきて文句を言う。
これがよくない。そこで一気につまんない考えの方に行ってしまう。

なんでこんなこと言うかというと

アイディアがいっぱいで楽しく考えてるときは夢中だけど、それをまとめたり、いじったりしてると、
「常識」が顔を出して、必ず

「そんなつまんないこと考えるヤツはおまえくらいだ」
「そんなバカなこと誰がとりあうもんか」
「世の中みろ!少し常識ってもんをわきまえたら」

とか言う。
そうすると一気に萎えてしまう。
そうか!やっぱりつまんないのか…そうかもなぁ。

こうして、「常識」と「非常識」のはざまをぬう「中道」をいくのでありました。
個人的には「常識」は嫌いだが、ないと困る気もする弱気なわたし。

ここんとこ、さいきんなんでも「中道」で、済ませてるな。
「中道」を己の道とした龍樹やってんですから、仕方ないか。

「マディヤマ(madhyama)」は、「真ん中の」という意味のサンスクリット語。
ここから派生した「マーディヤミカ」は「俺たちゃ、真ん中(中道)を行くぞと主張する学派」の意味のサンスクリット語。

別名、「中観派」と申します。

一休さんと同じです。

「はしをとおるな」

この言葉が中観派の合い言葉よ。
「中観派」という言葉がむずかしい人は、この言葉で覚えるといいわ。
わたし、こっち。

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2005/03/10

煩悩除菌剤売ってませんか

朝飯前に(ホントは済ませた)、試験の採点の仕事を二つ片づける。
なんか、一生懸命働くサラリーマンのような気分がするが、その後、ココログの操作方法を誤り、同じページをあれこれ何度もあけて混乱する。
ヘルプを一度見て閉じたら、二度とヘルプにいけなくなる。
どこ押したんだっけ?

ココログって、何だかよくわからないな。
トラックバックというのも説明読んだけど、意味がよくわからない。
トラックとくれば、バスでしょう。
トラックバスならよくわかる…トラック型のバスだってさ…どんなバスじゃ?

ここで時間を浪費してはむなしいので、ココログ研究はさっさと止めよう。

比較的今日はラッキーな部類に入る一日の予定なのです。
なぜかと言えば、炊飯器のタイマー忘れてるのを朝7時に気づくという、幸運に遭遇したからです。
おべんとがフイになるところを危うくセーフ。
ついてる!

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
いろんなことしながら、自分の研究のことを考えるものだから、
必ずどちらかおろそかになるのは…

やむを得ん。(おい)

論文書きながら龍樹のことを考え、
おべんとつくりながら龍樹のこと考え、
ジャージを洗濯機に放り込みながら龍樹のこと考え、
ほうきを振りまわしながら龍樹のこと考えてたら、

うん、とうとう、わかった!

ずう~~~っと考えてたんだけど、ブッダを一番よく理解したのは、やはり世界の中では龍樹だろうと思うのよ。
ブッダの理論と実践のすべてが、手に取るようにわかってた、と思う。

ブッダにぞっこんの龍樹なのに、だけど、ブッダと同じことしたわけじゃなくて、
むしろブッダがいけないと言ったことをあえてしているところがある。

例えば、他学派に論争を挑んでいる。
論理を隠したブッダに対して、論理全開で挑んでいる。

なぜだろう?
なんで、ブッダに言われたとおりにしなかったんだ!
部派の人たちみたいに。
(だけどね、実践はブッダの言うとおりだったけど、理論ははずしてるのが部派の人たちだとわたしも思う。ゴメンよ。)

って、思ってたけど、なるほど!そう言うことか!

ブッダに言われたことをそのままやってたら、じつは、ブッダの教えを実践できないのか。
龍樹がつかんだブッダの教え(理論)を広めるためには、
実践はブッダの勧める方法ではないちがう方法をとらなければならなかったのだった。

ブッダが勧めた実践方法は、自分の教えを守ると誓いを立てた弟子たち専用のものです。
つまり、阿羅漢への道のへのセッティングなわけ。

そして、ブッダは、自分自身は、と言えば、弟子ゲットのために(露骨にいっちゃうとネ)他の思想家や沙門たちと丁々発止の論戦を行っているのです。
見かけは、論争のようには見えないかもしれないが、じっさい、かなり巧みな方法で論理を背後に潜ませて、
討論を行っている。
問答を行っている。

「討論」といい、「問答」といい、それは「論争(ブッダの説明では無益の意味が含まれる)」という語とはちがうように用いられていますが、このちがいはかなり微妙です。

たしかにブッダの立てた「人々の幸せのため」という目的に適ったものを「討論」「問答」と呼ぶならば、
暇つぶしのため、名誉のため、金銭のための「論争」「論戦」とは一線を画すことになるだろう。

このような目的をもった「話し合い」や「でぃすかっちょん」を「討論」というのであれば、
弟子たちに「討論」をまかせることがなかったのもわかる。
弟子たちは、ブッダの教えの真髄を心底理解できていないのだから、「話し合い」のつもりでやっても、
悟りの役に立たない「論争」へと変化する、なんてことはすぐ起こりうる。
だから、ブッダは、
「止めなさい、それは、わたしが専門にやるからね」
といったんだと思う。

だって、さ、他の思想家たちのうちには、「ほとんどプロだぜ!論争の」って、輩がごろごろいるんだから。
かわいくって回転の鈍い弟子が言いくるめられることなんて、いかにもおこりそう。
まだ煩悩残ってるしね。

煩悩のない(これ必須)・論理を十分熟知した・自分の体系をもつブッダだからこそ、
他の思想家を「じつは論争しながら」、論争に見せかけずに論駁し、
自分の教えに引き入れることができたのである。

(これは自分のためではない、煩悩ないんだから。
「人々の幸せのため」だけどこれも押しつけてるわけではない。
そして、というか、だから、というか、人も自発的にブッダの教えに入門している。)

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
ブッダがいたときは、ブッダの役割はブッダがすればよかった。
龍樹のときは、もうブッダはいない。

龍樹が自分でブッダの役目を果たさなくては誰がやる。教え(法)が廃れちゃう。
理論はぜんぶ手に入れた。実践修行も積んだ。煩悩もない。

自分がブッダやらなきゃ、やる人いないじゃん。
こうして、大乗仏教は、ブッダをめざす菩薩の道へと進んでいくのでありました。

龍樹とブッダでは、やり方ちがうんじゃないの?とおっしゃるあなた。

たしかに、ちょっとちがうように見える。
ブッダの時代にはまだ、ブッダのすぐれた論理体系・理論体系は気づかれてはいない。

しかぁし、

部派時代になると、ブッダの理論は全体ではないが部分的には知られてきている。
ブッダと同じ手口が使えないのよ。

なるほどね、そういうわけで、論理をかなり表に出さざるをえなかったってわけか。

わたしの龍樹研究は、誤解の研究史なんですが、最近、ようやく龍樹の本心見えてきたかなと思います。
というのは、どんどん、龍樹に煩悩がないことがわかってきて、なぜどうしてそんなことやったか、ってことがわかってきたからです。

龍樹は、
部派の人たちや
バラモン教(最近使わないけど、訳あって採用)の人々をも
さらには、なんでもないふつうの人々をも
救おうとしたんだ、ってことがわかったからです。

いままで、部派や他学派を救おうとした点は意識しないわけではなかった。
だけど、わたしは、結果としては、
「龍樹のもくろみは失敗した・余計なお世話をしただけだ」
と思ってたけど、

ちがう、まちがってた!

「煩悩ぬき」で見れば、完全に成功してる!
ブッダの思想は龍樹以降、あらゆる学問に影響を及ぼしていることが認められるからです。
ブッダの教えと知られることなく。

えらいんだ!龍樹って!

ゴメンね。悪かったわ。
わが煩悩のシミを抜く、漂白作業もまだまだのようですわ。
(煩悩除菌剤、ってのありませんか?)

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2005/03/09

死後の世界は???

たぶん、こういうことだろう。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
「人間、死んだらどうなるか」という問題は、永遠の課題としてわたしたちの前にあるように思うけど、
この問題の考え方としては、

より効果的な(?)結論をねらうなら、

「死んだら、わたしはどこに行くんだろ?」

という問題としてではなく、

「死んだのち、いないわたしがどの程度生きられるか」

という問題としてとらえた方が、実際的なような気がする。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

っと、ここまで一気に考えました。
ハァ、疲れた!文が長いから、いっぺんに考えると、たいへんよ。

どう考えたって、

「如来が死後存在するのか、存在しないのか、…」という問題に答えて、
「このことはわたしによって説かれないことである」といったお釈迦さんといっしょで、

「わたしが死んでも存在するのか」の答えは、わたしによっては説かれないことである。
だけど、考えられることは、わたしが死んだあとも、みんなは毎日楽しく暮らすだろ、ってことです。

ずるいわ、

ってんじゃなくて、もち、楽しく暮らしてほしいけど、
どうせなら
「死んでるわたしも、みんなといっしょに楽しく生きていたい」

そのためには、どうすればいいかというと、
死んでも死んでなくても、いつも普遍的になり立つような生き方をしておけば、
生死にかかわりなく、みんなといっしょにユートピアの世界で遊べるのではないか

という、

えらく実際的(?)な考えが浮かびました…(どこが?矛盾だらけだぞ、表現が!)
普遍的すぎて、みんなわたしが死んでることに気がつかないかもしれないが…(ありえないだろ!)
ま、それなら、それでいっか…(ありえないっちゅうに!)

うっ、うるさいわね。(  )内は無視して、それで、結論です。

普遍的な生き方をするために、わたしがしなければならないこと。

それは、

この日記を書くこと…(問題でかいわりには、やることが小さい!それに、自家撞着おこしてるぞ!)

うっ、いたいわね。(  )内を重視して、それで、再度結論です。

自分の日常を書くだけなら、自己完結してしまう。
普遍的かもしれないが、それは自己一人の世界での普遍性である。
これは、別名、「おもいっきり個別的」ともいわれる…まずいんでないかい。

んで、わたしがしなければならないこと。

それは、

この論文を書くこと…(なんだ、やっぱりそれか!ごたごたいわんでさっさとやれぇ~!)

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

わかったわよっ!(  )の声は、人ごとすぎるわよ。
論文の内容ができるだけ普遍的であるように書けば書くほど、それだけわたしも長生きできると、
けなげに思っただけじゃん。

なすべきことをなし終えたお釈迦さんじゃありませんが、
なすべきことをなし終えませんと、ごたくも並べられないわ。
(  )の声って、ほんとにうるさい!

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2005/03/08

にんじん、ジャガイモ、レンコン、タケノコ

やっぱり、甘かったわ。
論文には悩まされるわ…まだ終わってなかったのよ。

…仕上げは、おかあぁさん!
(わかる?テレビの「おかあさんといっしょ」の歯磨きのシーンで最後に言うせりふだっちゃ。
ここから、歌にあわせておかあさんが子どもの歯を磨いてやるのだ。
この巧みな技により、歯磨きいやがる子どもも喜んで磨かせる。)

論文にも、これがあるとは思わなんだ。
論文も歯磨きして、体裁を磨け、っという指示がある。

だれか、「は・み・が・きっ!じょうずかなぁ~♪」って、歌ってくれんかの?

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

このように論文磨きに集中しなけりゃいかんので、おべんとのおかずがめちゃくちゃワン・パターンになる。
あるもの使って作るから、仕方ないかも。
子どもが覗いて

「緑黄色野菜、ってのが全くないネ」

かあちゃんも、そう思ってましたよ。
だけど、これににんじんを入れたら、ジャガイモ、にんじん、レンコン、タケノコ、って、似たものどおしが勢ぞろいしちゃうだろ。

サヤエンドウが緑なんだから、いいじゃん。
ミニトマトは赤だし。
卵焼きは黄色だ。
ノリの佃煮で黒っと。
体裁さえ整っていれば、おべんとの中身なんて、なんだっていいのよ!

だから、ね、

体裁さえ整っていれば、ろんぶんの中身なんて、なんだっていいのよ!

って、いう気も…してき…

ちゃ…

いかん!いかん!

さぁ、やるかな!論文歯磨き。

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2005/03/06

本気で悟りたい?てやんでぇ、べらぼうめぃ!

最近、自分の才能に気がついてきてる管理人です。
「ロゴスの穴」を書いたり、また、日記みたいなものをつけたりしてきて、思うんですけど、

わたしって、

考察が巧みだと思うわ………とくに、インチキくさいとき。

書き始めてるときは、結論は自分でもわからないことがしばしば。
書いてるうちにどんどん勝手に筆が進んで、結局何となくおさまる

……というペテン師も真っ青の仕上がりぶり。

まずいわねぇ。

一方、本気出して書くときは、筆が進まないのよ。
ぎくしゃく、ちぐはぐ、行きつ戻りつ

わたしって、

考察下手だと思わざるをえない………とくに、確信してるとき。

書こうと思っても、言葉が出てこない、言葉じゃ言い足りない。
ああもどかしい、結局、一言もいえず沈黙するのみ。

……お願い、わかって、わたしの気持ち。

これじゃぁねぇ。

従って、確信とペテンのあいだの「中道」を行くことになる。
って、これまた、まずい。
自分でも、ウソかホントかわからんもん。

で、何が言いたいかと言いますと
昨日の、「主婦」と「沙門」の話、軽く考えたのに(インチキくさいぞ、我ながら)
案外あたってるかなって気が今ごろしてくる(確信できそ、我ながら)

まずっ!ウソかホントかわからんくなっちゃったっ。どうしよ。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

さて、そこで、たまに本気出してみますか。
行きつ戻りつしちゃうかな。どきどき。

ゴータマ・ブッダが悟りを開いたとき、こんな思いが生じたのであった。

「苦労してやっと証得したものをなぜまた人に説かねばならぬのか
貪りと怒りとに焼かれる人々にはこの法を悟ることは容易ではない
これは世のつねの流れにさからい、深甚、微妙、精細にして知りがたく
欲望の激情にまみれたるもの、暗闇に覆われしものには悟りがたい」
(増谷文雄『阿含経典』第六巻より)

何もしたくないと思って、法を説こうという気持ちが出てこなかったわけですが、
この時、ブッダのもとに梵天が現れて法を説くように頼むのです。

ブッダの人生の重大局面なのです。

悟りの境地についたのだから、彼はもはや悩みもなく平安の中に住するのみ。
何も望まず、何も欲せず、そのままごろんとしていれば、静かに消滅するのである。
もはや輪廻の束縛もなく、迷いの人生もない。

だから、このまま…

と、思う一方、

梵天に請われて、世界を見ると、世には苦しみもがいている人々がたくさんいて、
よい人もいれば悪い人もいる。教えやすいのもいるし、教えにくいのもいる。

どうしよ。教え…説いちゃうか…

ブッダは、自らの意志で、一つを選び取ったのだった。

人々に教えを説こう。

完全に、後戻り人生ですよ、これは。
ようやく牢獄から逃れた人が自ら牢獄の中に戻っていくようなものだ。
もはや悩みをもたない人間が、悩み苦しみのまっただ中に入っていくのですから。

それから45年間、教えを説き続けて亡くなった。
この間、彼には煩悩があったのではないか、とか、悩み苦しみもあったのではないか、とか、言う人もいる。

だって、生きて乞食(こつじき)遊行しながら、弟子に教えを説き、人々に説法する中には、
やっぱりつらいことや苦しいことや楽しいことやうれしいことがいっぱいあったんだろうと誰でも思うからです。

飢えや寒さや病気や怪我。こんなものにも苦しめられることがあったんではないだろうか。
人々が意地悪く辛い仕打ちをすることも、逆に、たいそうもてなし、こぞって教えを受けようとすることもあったろう。

そのときどき、何も感じないということはありえない。
いくらブッダと言えども、生きているかぎりは。
人々の気持ちや周囲の出来事に無関心では適切に心を打つような法を説くことなど無理だからだ。

そうあなたが主張するなら、そうかもしれない。
たしかにブッダは弟子たちや人々のことは気遣って暮らしただろうから。
そして、ブッダは人々の悩み苦しみを知って、それをよく理解できたのだから。

でも、こう言えたとしても、やはり覚者であり悟った人だと思わざるをえない。

それは、

45年間も同じように乞食し遊行し雨期に定住しという生活を続けて
一度も、35歳の時に立てた「教えを説く」という決定を

後悔

したことがない、
という一点に尽きるのです。
ただの一度も迷ったこともない。
「やっぱりあの時止めりゃよかった」というせりふが残っているということはない。

老い朽ち果てて、古い車が革ひもの助けでやっと動いていくように、
自分の身体も革ひもの助けでもっているありさまでも、

「わたしは出家してから五〇年余となった。
正理と法の領域のみを歩んできた
これ以外に沙門なるものは存在しない」

と、語ったのである。

ああ、もう、何を言っても関係ない、って感じですよ。
「一度決めたことはとことんやりなさい」を実行できちゃう男。
しかも、世俗の欲望一切振り切る人生を全うできる男。

思いっきり、自由人の人生送れていうことないぜ!
これで、悟れてなきゃ、いったい誰が悟れるってんだ、べらぼうめぇ!
めでてぇよ、お釈迦さんよぉ。

ちくしょう!しあわせものぉ~。

以上、考察を終わります。m(_ _)m

やっぱ、本気出すと、考察べたねぇ、チキショ!(ゴメン遊ばせ)

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