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2005年1月2日 - 2005年1月8日

2005/01/07

お釈迦さんとダイエット

またぞろ忙しくなってきましたよ。
北海道は、冬休みというのがあって、大体1月半ばから下旬まで休みが続くことになって、おる。
この「おる」という文末の表現は、増谷文雄流の言い方です。
『原初経典 阿含経』読んだら、移っちゃった。

さて、いつもなら、まだぐだぐだと正月気分を引きずって「おら」ねばならんのだが、こどもが部活でがっこに行ってしまうので、もう5日からふつうの生活に戻ってしまって「おる」。すっかりはまる。

だから、内地(ないち)感覚です。(注 「内地」とは、北海道以外の日本のこと。管理人の辞書による。)
せわしない感じですね。仕方ないす。

さて、下のお話は、札幌のF・E・ヨガライフ協会で毎月発行している新聞「未来」(2005年1月5日発行)に寄稿しましたものです。
著作権とかどうなってるかわからないけど、自分で書いたもんだからいいかな。

このダイエットのお話は、印象に残っていて、いつか書きたいなと思っていたのですが、ちょうどヨガ協会の人から依頼があったので、ほいほい書いてしまいました。
短く書かなければならなかったので、こんなになっちゃった。

さらに、このお話は増谷先生も印象に残っていたようで『原初経典 阿含経』の中にも二度ばかり登場するお話です。先生の訳の方がいい訳だなぁ!しまった。もっとはやく気づいていれば、先生の訳を拝借したのになぁ、くやしっ!

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お釈迦さんとダイエット
                          
 あけましておめでとうございます。今年もヨーガとともにインド哲学もよろしくお願いいたします。
 「一年の計は元旦にあり」と言われますが、今年こそはダイエットしようと思われている方に、こんなお話はいかがでしょう。東南アジアに伝わる古い仏教聖典(『サンユッタ・ニカーヤ』)の中にあったダイエットのお話です。

 コーサラ国のパセーナディ王は、一ドーナの量のご飯を食べるのがならいだったそうです。一ドーナとは、あまりよくはわからないのですが、およそ七ポンド、つまり三キログラムくらいのようです。カレーと混ぜて食べていたのかもしれません。それにしてもすごい量ですね。だから、王様は食べ終わってから、大きなため息をついたのでした。苦しかったんですね。そのとき、お釈迦さんは、ため息をついたのを知って王様に次のように言いました。

 「常に心を落ち着けて食べ物をえても食事の(ほどほどの)量を知っていれば、苦痛の感覚は弱く、ゆっくりと消えていき、寿命を保つのである」

 そこで、王様はスダッサという若いバラモンにこの詩偈を習って暗記するように言いつけました。そして、食事のたびにこの詩偈を唱えるように言ったのです。そして、詩偈を聞いては、徐々に食事の量を減らし、最後は一ナーリカーにまで減らしたと言います。これは細い管につめられる量でとても少量を意味しています。王様は、すっきりした身体をなでながら「尊師は、二つの利益を与えてくださった。現世の利(このスリムなボディ)と来世の利とである」と言ったそうです。お釈迦さんはむずかしいお話をするだけではなくて、こんな悩みも解決してくれていたんですね。
 今年こそは、わたしも、ダイエット、三日坊主になりませんように。

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それにしても、インドの人は山ほど食べますよね。
むか~し、インドで汽車に乗ったとき、昼ご飯を頼んだら、ターリという、お盆にカレー数種類とスープとチャパティとご飯とあと塩、レモン、ヨーグルトなどを盛ったものがでました。
チャパティは、ぺちゃんこの無発酵のパンです。それ2枚とご飯(けっこうどっさり)を食べると、お腹がいっぱいになり、どっちかというとはち切れそうになりますが、同席していたインドの人は、さらに2枚チャパティをプラスして、それからご飯を同じ分量おかわりしてました。すごい!

ごはんとチャパティはお代わり自由だったので、日本人の実力を見せようと、内心、インドの人に対抗意識を燃やしておかわりをねらって食べましたが、完食したら、もう苦しくて死にそうだった。パセーナディ王よりひどいありさまだわよ。
小食の日本人なら、チャパティ2枚でも、十分かもね。

だから、ごはん3キロと聞いても、軽くうなずける。
ちなみに、お釈迦さんはスリムなのよ。経典のどこかに書いてあったわ。

さて、ところで、
「お釈迦さんとダイエット」に書いた最後のせりふ、いかにもとってつけたふうで真剣みがありませんなぁ、われながら。
これじゃとってもやせられないや。

え?三日坊主になってるだろ。ってんですか?

残念でした。なってません!失礼なっ!

だって、…だって、まだ、はじめてないもの…

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2005/01/05

一応、おとぎ話のつもりなんすが…

この日記の頭に日付がはいることがわかりましたので、日付を入れます。

「バックナンバー」って、どうやってみるんだろ、っといろいろ探りを入れてる最中です。
あ、「バックナンバー」っていうとこ、クリックするのか~。

少し使いこなそうと考えてますが、使いこなせそうもないような。
ダメだったら、「ロゴスの穴」に逆戻りしちゃうなんてことは、いくら管理人でも避けたいかも。
なさけないすね。

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さて、今日はね、仕事してるから、飽きちゃったのよ。
何で「仕事してるから」と「から」がつくかというとね、仕事すると自動的に飽きちゃうように管理人には制御装置が付いてるからなのでした。

飽きちゃったので、ひとあそび。

それでね、いっつも、このつまんない日記読んでもらってる、読者の皆様方に、新春のお年玉をプレゼント。
おとしだま…落としだまし…おとしばなし…おとぎばなし(ほお、やっと、たどりついたわい)をプレゼント。

は~い、始まり、始まり!

カニシカ王のお話をします。カニシカ王はおよそ二世紀の人。月支国の王様です。人並みはずれて勇ましく、志は雄々しく、向かうところ敵なし、征服すべき国があればこれを征服しました。

といえば、聞こえはよいが、つまりは

たくさんの人々を殺し、その数三億余人にも登りました。さすがに、王様、将来の罪は重いことを知り、心におそれを生じたのでした。そこで、懺悔を行い、布施を施し、戒を保って、僧房を建ててたくさんの僧侶を供養し、功徳を積むのに一生懸命でした。

そのとき家臣たちはこんなことを言いました。
「あんなに多くの罪をなして無軌道に人を殺害したのに、いま福をなしたとしても、もう行った罪咎には何の益にもならないだろう」と。

時に、王様はそれを聞いて次のように言いました。
「大釜に水を入れ七日七晩熱し続け湯をたぎらせ。」

王様はそれから指輪をひとつ釜に投げ入れ
「この指輪を釜から取れ」と命じました。

臣下は
「とても指輪は取れません。どうかわたしを死罪にしてください。」
といいました。

王様
「それなら、何かうまい方法でとることができるか」

臣下
「下の火を止めて、上からは冷たい水を注ぎ入れれば、やけどせずに取り出せます」

王様は、そこで、答えて言いました。
「わたしが最初に悪をなしたのは熱した大釜のようなものだ。しかし、いまは、後悔して懺悔をしたくさんの善をおこjない悪行を行ってはいないのだから、どうして罪が滅しないことがあるだろうか。地獄にいくことはなく、人間界、天界も得られるだろう。」

臣下はみな感動して喜びましたとさ。

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『雑宝蔵経』巻第7の94から、アレンジしてお届けです。
何か、虫がいいお話ですね。いかにもインド人の考えそうな善悪の損得勘定が、ドライでステキ。
これは「よい子のための仏教」ではなくて、「悪い子のための仏教」って感じでしょうか。

このあたり、大乗仏教華やかなりし頃だと思いますが、けっこう、話が陰惨なのよ。
戦争や飢饉などがひどかったらしく、時代的には暗いんです。だから、『雑宝蔵経』読むと、ううっと暗くなります。
人殺しや強盗や、他にもいろいろ近親相姦っぽい話まであったりして、おとぎ話とは言えないんですけど。

歴史とも伝承ともおとぎ話ともつかない因縁譚が、インドインドしてますね。
けっこう、こういう話の中にほんとのことが隠れていたりすると思うんだわ。
インドだと何でもありだし。

この時代あたりの経典などなどを見ていくと、なんとなく現代も似てるかな、なんて思ったりしてね…

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2005/01/04

忘れものには気をつけて

1月4日(火)
この「ココログ」って、どうも信用おけないわねぇ。
1月に入っているのに、左のカレンダー昨年の12月のままだったりして、直すのに悪戦苦闘しちゃったわ。
いろんなとこ、やみくもにクリックしまくったら直ったんだけど。
どうして直ったのかしら。わかんないわねぇ、ははは。
それに、「ココログ」に書き込もうとしたり、読もうとしたりすると、入れないこともよくあるし…宣伝文句ほどよくないわよ、みんな。

だから、最初に日付書き込むことにしたわ。

昨日は、よく勉強したわ。日記書く暇なかった。
『瑜伽師地論』関係の文献やテキスト調べて、読んで、定方晟氏の『カニシカ王と菩薩たち』を完読して、捜し物してたら増谷文雄氏の『原初経典 阿含経』を見つけたのよ。知らなかった、この本もってたの、もう、ばかだわ、わたし。
それで、思わず、これも読んでしまい、感動!
お正月そうそう、ほんとにいいものを読んだわ。すごい先生だと思う。
「来たれ見よ(アヒパッシカ)」という言葉について、勉強する。ここは、前からよくわからなかったからありがたかった。感謝感謝。

それで、サンドイッチ作って、冷凍ご飯で炒飯いためて、戸棚整理して、去年の暮れに買った紅茶見つけたと思ったけど、それは、もう一昨年のまちがいだったことに気づいて、みんなでむりやり古い紅茶を飲んだのだった。
わけわからない試供品のお茶は、わたしの脅しもきかず、みんないやがったので、仕方なく捨てる。

買った本も忘れて読んでないんだから、買った食料品だって、ほんと忘れるわよ。

感動したついでに『ブッダのことば』や『神々との対話』など岩波文庫の原始仏典をあれこれ拾い読みし、『廻諍論』読みながら、自分の論文読んで、自分で書いたことすっかり忘れていることに気づいて復習する。
ああ、勉強になる、自分の論文て。
こう言っちゃ何だけど、わたしの知らないことがいっぱい書いてあるわ(おい、だいじょぶ?!)。

それから、冷凍庫に忘れかけの去年の肉でカレー作って、忘れ物はするまいぞ、っと心に誓う「かしこい主婦、兼、かしこい研究者」だった。

ったく、なあ、どこが「かしこい」じゃ。

おめでたい物忘れ人生を送ってるだけだわ。

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2005/01/02

なぞとはなんぞや?

正月だ!っと思っていましたが、何だか昨日から仕事をし始めてしまいました。
数え上げると、やるべきことが3つ4つすぐ思いついてしまうので、どうしてもやらねばならないような脅迫観念におそわれてしまうのよ。貧乏性だわ。

脅迫されつつ、とにかく学会誌『印度学仏教学研究』がきたので、それをぼつぼつと読んで、頭が混乱する。
いろいろ読んだからかもしれない。とても頭が疲れる。

じつは、ここのところ、本の読み方を忘れてる。
『方便心論』を読んで以来、です。

この本は究極の「なぞなぞ本」だった。
そのまま読んだだけでは、絶対わからないようにできていた。

詳しく書くと10倍くらいにふくれあがる内容を、コンパクトに詰めに詰めて読者に謎解きをさせながら、自力で解明させる本だった。目次だけ与えて、自分で本一冊書きなさい、って言ってるような本だった。
本それ自体が迷路になってるような、そんな本は初めてだったから、とんでもなく混乱しながら、ありとあらゆるところから知恵を借り、そして自分のわずかな知恵をしぼって進んでいったのだった。

最終的には、この本を解読できたと思うのだけれど、ゴールにたどり着いて思ったことがある。

「なぞなぞ本」には、じつは、なぞはない!

もし『方便心論』を書いた人の中に、何かわからない部分やなぞの部分があれば、このような壮大な謎解き本は書けなかっただろう。自分がわからないことを相手にわからせることなどできはしないからだ。

だから、「なぞなぞ」の本は、あんがい安心して取り組める。その中には、じつは、なぞなどないのだから。

ということはだよ、ここから本題。

真理に直結する本は、言い換えれば、真理を伝える本は、みな、謎解き本の体裁をとるということだ。

え?どうしてそうなるの?って。
だって、その中になぞの部分はないんだから、全部わかったことだらけでできているから。
わかったことだらけでできているのに、ふつうの人が読んでよくわからないなら、本の問題ではなくて、その人の中になぞがあることになる。でしょ?
その人は、自分の中にある無知と格闘してなぞを解いて理解しなければならない訳なのです。
だから、真理の本は謎解き本なの。

仏教の経典は、はっきり言って謎解き本である。
大乗の仏典も、ブッダの直説ではない、などと言われたりして軽んぜられたりすることもあるけれど、これらの経典がやはり経典として信じられているのは、この中に謎解きの要素が濃厚に入っているからだと思う。
おそらく聖書も謎解き本にちがいない。

パラドックスを扱った本はどうだろう。
答えがついていれば、答えしだいでは真理の本かもしれない。
また、数学の問題を扱った本も、答えしだいでは真理の本だろう。

さて、また一方、この世のほとんどの本は謎解き本ではない。
ふつうの場合、とても読みやすくて、すらすら読めちゃうようにできている。
読めちゃうけど、読み終わったあとに、何かわかるかというとたいていはちがう。
とても大きななぞが口を開けて待っている。

「すらすら本」は、じつはなぞ書き本なのだ。
わたしたちが読んでるほとんどすべての本が、「すらすら本」で最後に深淵が待ち受ける。
だけど、すらすらにだまされて読み進み、結論をほのめかして終わったりするのはより深い内容を含んでいるからなのだと思ったりするのである。
「すらすら本」は、あんがい、「やさしい○○」なんていう名前のついた仏典解説書だったりすることもあるかも…ゴメン。
また、はっきり「すらすらわかる○○○」なんて本も、題名に「すらすら」がついているので謎書き本だとわかるわね。
そういうもん?

「なぞなぞ本」は謎解き本。
「すらすら本」は謎書き本。

あんがい当たってない?どう?ね、どう?

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