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2004年12月19日 - 2004年12月25日

2004/12/24

「わたし改造」に成功しました

今年もまた、あっという間に過ぎて、もうちょっとで来年になってしまいますが…

って、言われて、ここでそくざに

「来年は永遠に来ない」

とか返せたら、あなたも筋金が入ってきたわねぇ、詭弁家として、フフ。
なかなかしぶいわねっ。

というより、こんなへなちょこパラドックス、かまってられっか、ってのが、本音ですか。
おみそれしやした。すんません。

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さて、今年はお正月のときから、わりに焦って論文書きしてたようにも思うけど、それも遠い昔だわ。

今年はね、じつは、けっこう悪い年で、そして、いい年だった。

あら、ここも若干矛盾してますか。

「矛盾」に「若干」という形容はないっ!
それに「悪い」と「いい」は、矛盾ではない。反対の関係。
それに「いい」が、ひらがなのままっ!

うるさいわねぇ!おだまり!話が進まんじゃん。

「悪い年」というのは…梶山先生が亡くなられたこと。わたしの大学時代の友人も亡くなってしまったこと。
「いい年」というのは…二人も亡くなったために、わたしの中で「ま、いっか」と思うことがふえたこと。(どういう意味?それにどうして「いい」ことなの?)

これは、詳しく説明すると、諸行無常を知ったってことだわ。
もう『方便心論』の論文も急がなくても「いい」ってわかったし、がんばりやさんの友達が亡くなったことで、がんばらなくても「いい」ってわかったのよ。だから「いい」年なのよ。

簡単に言えば「悟った」ってことよね。
そして、「悟る」ことは「いい」ことに決まってるわよ。
それゆえに、悟りの真理をしめす「いい」言葉、「ま、いっか」が生じたのだわ。

なんだか詭弁チックだな、ですって。
そんなことないわよ。
はからずも「わたし改造」に成功したと思うわ。

この真理のことば「ま、いっか」さえあれば、何でもできるような気がするわ。
最強のガンダム・スーツを手に入れたも同然よ。

永遠に来ない「来年」から、この「ま、いっか」の実践修行にはげむことにするわね。
「いい」年にするわよ、まぁ、見ててよ。

え?なに?どうでも「いい」年になりそうですね、ですって!

ったく、もう。でも、ま、いっか(ほほ、さっそく)。
余計なお世話かもしれないけど、あなたも、「いい」年でありますように、って言ってあげる。

ところで、さぁ、わたし、ほんとはこんな事書くつもりじゃなくて、「大変身したお釈迦さん理解」という題で、誰もが感動にむせぶすばらしい論考をしたためる予定だったのよ。
おかしいわねぇ。どこでくるったのかしら。

でも、

ま、いっか。

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2004/12/22

「欲しいもの」は「無いもの」よ

今までメールを調べるたびに、妖しいメールが山のように送りつけられてきてうんざりしていました。
広告のたぐいやクジみたいなものや妖しい系などなど。
開くまでもなく、どっから見ても妖しいので、「迷惑メール」というレッテルを貼ってポイポイ捨てていたのです。

まったく、もう!
こんなに次々来るなんて、迷惑至極!って思ってたのよ。
一日に何十件も来る。

それが、ここ数日、どうしたの?
すごく減ってる。来ないのよ。

え?
どうしたの?迷惑メールたち。
気になるのよ。何で来ないのよぉ?
わたしのどこが気にくわないのよ。
今まで捨ててたからなの?ひどいじゃない。来ないなんて。
めっちゃ、さびしいわよ。

おいっ!
まったく身勝手すぎるぞ。
来れば来るで文句言うし、こなけりゃこないで文句言うし。

しかし、人間の心理というのは、まことに微妙なものだのう。

仏教で言えば、これかな。
求めて得ざれば、苦である。求不得苦(ぐふとっく)。
いや、ちがうな、そんな簡単なものじゃない。

求めてなくても得られないとなると、苦なのである。

必ず無いものをねだるようにできているわけか…人間て、かな~り性格悪い動物だ。…え?なんすか?そんなに性格悪いの、管理人だけだって。いや、失礼しました。

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2004/12/21

論理学・反論理学

数日前から、論理学関係のシラバスを作りながら、悶々としておりました。そして、おります。

わたし、論理学って向いてないかも…

今さら言うな~ぁっ!

もう病膏肓にいたったらしく、どの論理学の教科書見ても、かならずどっか変だと思うようになっちゃった。
西洋の論理学って、はだにあわないのかも。
前から「おかしい、おかしい」と思いながら、しかし、自分をだましだましやってたんだけど、もう完全にごまかしが利かなくなってきつつある。

ほんとに正直にいうと、

西洋論理学って、どこかに必ずウソがある。
だから、
結局、現実の世界と折り合いがつけられない。
実際に、現実の世界に適用できてる論理って、ほんとないすよ。

前に帰納論理学の推論を試験に出したことがあった。

    これまで生まれてきた人はみんな死んでいった。
    だから、…

…を埋めて、帰納的推論の結論を導いてみましょう、っていう問題。
前提の文にも、問題があるが、それは、まあ、おおめに見てもらいましょう。結論は、いろんな教科書に載ってるし、一応、一般的な西洋論理学の知識にもとづいて教えてあるので、わかることになってる。

みんなの答え:
「これから生まれてくる人も死ぬ」
「わたしも死ぬ」
「わたしの母も死ぬ」
「どこにでもお墓がある」など。

「わたしの母」「どこにでもお墓がある」っちゅうのが奇抜でした。座布団1枚!
思わず出てきたんだろうな。
それはいいの。

これね、問題にもならないと思って出したのよ。みんなに点数とってもらおうと思ってさ。

「これから生まれてくる人も死ぬ」を見て、「うっ!」と思ったのだった。こっちの方がいい答えじゃん。
個別的な事柄を集めて一般化するのが帰納的推論といわれるが、この「これまで生まれてきた人は死んでいった」という前提から
「すべての人は死ぬ」を導くのは、そもそも構造的に相当の無理があるのではないだろうか、っていう気がし始めたら、もう帰納論理学は教えられなくなった。帰納論理学自体、考えてみなくちゃ、っていう気がするのよ。

演繹論理学でも同じ。
      すべての人は死ぬ
      ソクラテスは人である
    だから、ソクラテスは死ぬ

これだって、この推論の意味についてはずいぶん検討を重ねて、現代論理学では一番上の前提は「すべてのxにとって、xが人なら、xは死ぬ」という複合命題だなんて言われてる。一応、ま、むりやり納得してるけど、個体変項xが何かということについては、納得できてるわけじゃない。そもそも、推論が最初から正しいと決めておいて、その上で、この推論の意味を考えるという本末転倒を行っているんだけど、それについて文句をいう人はいまだに見たことがない。
まだ、他にもいろいろあげれば問題を感じるところはある。

論理の枠組みを知識として教え込むということは何を意味するのか?
理屈が現実にあっていないようなのに、むりに教え込むということは、これは「洗脳」なのではないだろうか?
ああ、まずっ!人類は、西洋論理学のウソを習ってる?!やばいすね。変なこと考えるのやめよ。

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さて、そこで、悩んだわたしは気分転換にサイトを検索して遊んでいました。manikanaでひいてみっか。
うわぁ、いっぱいあるぞ。大半うちです。
中に、掲示板のサイトがあって、わたしの論文をリンクしてくれて、これによって「龍樹が論理学を否定したことがわかります」みたいなことが書かれてあって腰がぬけました。

ちょ、ちょっと、お待ちくだされい!

なぜ、そのような、誤解を…ああ、『方便心論』を「反論理学の書」と書いているところから、そのように解釈したんですね。

「反論理学」って、正統派の論理学に対立する論理学という意味で「反」と言ったんだけど。
「反」は反対の「反」。でも、読んだ人は「反」は「矛盾」ということだと受け取ってしまって、論理学の完全な否定だと思ったみたいす。
よく読んでもらえばわかるんだけど…。

わかった!今度から、『方便心論』を「論理学書」にして、『ニヤーヤ・スートラ』を「反論理学書」にしておくことにきめたわ。
次の論文からだからね。

はぁ、めいっぱい疲れました。
西洋についても、東洋についても、とにかく「論理学」にいいだけふりまわされてる、哀れなわたしだった。
(なぜ、過去形かって?現在形だとつらすぎるって、ただそれだけの理由です。)

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2004/12/19

インドの哲学は癒し系?

日記書いてたのに、ちょっと他の用事が入ってそっちに気をとられていたら、全部消えてしまった。
アップ寸前だったのに、おしい!

もう一度、書くってのもね、って思うが、
でも、師走の暮れの喧噪を前に、しみじみもう一度書くか…締め切りの原稿放っておいて(こら)。

ま、暮れは何となくせわしないですね。
誰もが小走りに用を済ませようと、あせあせと動き回っています。

そこで、つい先日、ある人としたおしゃべりについて一言。
ストレス多く忙しい現代社会、ついつい目先のことにだけとらわれて、毎日毎日の暮らしに追われる。
これが現代人の生活です。
おしゃべりをした人には、かつて下宿人さまとの共著『ビックリ!インド人の頭の中』を差し上げたことがあります。

律儀なその人は、読んで丁寧にいろいろコメントをくれたのですが、いまだその本を読んでいて
「毎日あくせく目の前の事で精一杯だから、こういうインドの自由な思索の世界を知るとほんとにほっとするんですよ」と言ってくれました。

「空想の世界や思索の世界でこれほど自由に遊べるなんて」、っということで、西洋の哲学・思想とはまたちがったおもしろさもあるようです。
ほんとに素朴に、そして、限度なくいろいろ考えられるかぎり考えている、そんな姿勢が新鮮らしい。

さかんにほめてくれて、こちらもビックリ!
肩肘張らずに、読みたいところだけ、日頃の憂さを忘れて驚きながら読めるのがいいんですと。

ほお!そうなんすか?

そう言われてみれば、前にヨーガでみんなにインドの話をしていたときにも言われたことがあった。
「毎日、すごく忙しくて、考える間もなく日々に仕事をしているから、こんなインド哲学の話を聞くと、心底ほっとします。」
やつれたヨーガの人を見て、「そうかぁ、わたしもいいことしてるんだ」って思ったのよ。
「ヨーガやって元気出してね」って言いそうになったけど、ヨーガを教えていて忙しくて疲れてんですから…なんと言えばよいものやら。

話もどすと、つまりは、インド哲学って、現実離れしてるってことね。

ふうん、『ビックリ!』書いてるときは考えもしなかった。
この本が、こんなに癒し系だなんて。

めちゃたいへんだった。わたしはね。けっこう絞り出した感じはある。
どんな思想、どんなトピックが、インドオリジナルだろうか、って、けっこう悩んだんだけど。
だから、「ああ、はやく書いて癒されたい」と思いながら、書いたのよ、じつは。

世の中わからないわねぇ。
変なこと書いてるかな、って思ったけど、そうでもなかったのかしらね。
あ、変すぎて変に見えないのか…。

しかし、おしゃべりしたその人が『ビックリ!…』でほめてくれたところはね、大半というか全部下宿人さまの書いたとこだったす…さびしい~。

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