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2004年12月5日 - 2004年12月11日

2004/12/09

毎日書くのが日記なの

たいしたものだわ、わたしって。
毎日よ!わかる?今週の日記、休まずつけてるのよ。
感動だわね。

だけど、あしたから学会のためいないので、2~3日休みます、がくっ!
こうして、あっさり、日記は途絶えるのだった。
あした、授業もあるし、なかなか忙しいわね。ハードなスケジュールだわ。
まちがってうちに帰ってきちゃわないようにしなくちゃな。心配だわ。空港に行くんだぞっと。

それと、関係ないけど、『方便心論』の和訳、少し手を入れて改訂しました。
一応全体目は通して検討してあるけど、これは、まだまだ読むとこあるので、読んでは改訂し読んでは改訂しして、完成作品をめざします。

一応、全体像はつかんだとはいえ、まだまだ楽しめると思う、『方便心論』。
なんて、のんびり『方便心論』ながめてる暇はなかったわ。

あと、予習しなくちゃならないし、いろいろあるから、今日はこの辺で。

あ、それと、昨日の削除できなかった件、わかったわ。
別窓が開いていて、そこでOKをクリックするんだったのに、他のファイルの後ろに隠れて見つからなかったのでした。
ぜんぜん知らなかった。電源切ろうとして、ようやく変な窓があるのに気づいたのでした。
いつ隠れたのかしらね。おかしいわね、ぶつぶつ…。

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2004/12/08

しまった!アップされちゃった!

タイトルを考えながら、クリックしてたら、そのまんまアップされちまいました。

ま、まだ何も書いてないよ!っていうか、まだ、書くこと考えてないのにぃ。
それにどうやっても、削除できないぞ。
削除ボタン押しっぱなしにしてるのに、びくともしないわん。

こりゃぁ、困った。このまま、何か書くしかない!
焦ると何も思いつかない!パニックに弱いこと、バレバレね。

仕方ない。昨日の『小説聖書』の続きでも書いてごまかすしか手はないわ。
といってもなぁ。
そうだ!みんな、モーセの十戒でも見てよ!

思い出したわ。わたし見てびっくりしちゃった。
ビックリしたわけはあとで書くわ。
まずは十戒だから、厳かに聞くように。

1.あなた方はわたしの他に神々をもってはならない。
2.偶像を作ってあがめ、礼拝してはならない。
3.あなた方の神、主の名をみだりにとなえてはならない。
4.安息日をおぼえよ。そして、それを聖別すること。
5.あなた方の父母をうやまいなさい。
6.殺してはならない。
7.不義をおかしてはならない。
8.盗んではならない。
9.隣人に対して嘘の証言をしてはならない。
10.隣人の家をうらやみ、隣人の妻を密かに欲してはならない─隣人の妻、しもべ、家畜、その持ち物すべてを。

わたし、ね、聖書の中の神様って、ほんとにえらい神様だと思うわ。
自分の要求は少ないし、それに、どん項目もよく考えれば、信仰してようとしていまいと、守るべき道徳・倫理ばかりじゃない?
お釈迦さんの言ったこととおんなじこと言ってるもの。6~10はおおよそ五戒にあたるわ。
2と3は、なぜこんなこと言ったのかしら、って考えると、結局神様自身のためではないわね。
人々が、神の名の下に好き勝手をしないようにするためじゃないかと思うわ。

それにちゃんと安息日ももうけてくれているし、ありがたい神様だわ。
結局、神自身の希望は1だけよ。こんなに控えめなんて、信じられない。

それなのに、人間はこの掟を破り続けて今日に至る、って感じでしょ。

だけど、逆に人間の側から言えば、この6~10の五つの戒は、守るのが相当むずかしい戒律とも言えるわね。
無理難題を要求していると言ってもいいかもしれない。

満足に守れてる人ほんとうに少ないもの。

モーセの十戒にしても、お釈迦さんの説いた五戒にしても、正しいことは誰にでもすぐわかって言うまでもないのに、それなのに命令や規則として残しておかなければならないなんて、ほんと不思議な動物よね、人間て。

頭や身体でわかるのに、実行不能だものね。

よかった!ここまで何とか埋まったわ。よし、アップだわ。ほっ!

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2004/12/07

「伝承」について、コホン!

生きていくのがやっとの管理人、鎖につながれた奴隷のように、毎日、日々の義務をはたすのであった。
気分は、バビロン捕囚の囚人だい。

って、言うわりには、楽しんでるようだって?
ちょっとばれてますか。
今までほんとに忙しかった。ようやく一段落してきた。

今日は、出かける仕事がないので、久しぶりに読みかけの

ウォルター・ワンゲリン『小説聖書』(旧約篇)上下、徳間文庫

を読んでしまいました。旧約聖書の中の父祖たちの話、モーセの十戒、イスラエルの建国、サウル、ダヴィデ、そして、アッシリアの圧政、預言者エレミヤと全部もれなく入ってる。あ、アダムとイヴもいたっけ。おもしろいです。

「火宅の人なんです、あちっ!」というタイトルのところで書いた本ですが、まちがってました。本の名前。
正確には、上のようなタイトルでした。
ヨーガの人に借りたのですが、通勤途中で読んで、すっかり心をうばわれてその日はへまばかりしていたので、「やばい」と思って自粛していたのでした。
やったへまの数は数知れず、とっても、ここには書けないわ…思い出すだけでも…出席簿を持って帰るわ、配るプリントまちがうわ…やっぱり、これ以上は書けない!

ま、過去は忘れよう。
いろいろ書くことはあるけれど、愚かな人間の所行を書きつづったこの本は、とても魅力的ですわ。
愛すべき人々だと思います。
風土と生活様式、人々の暮らし、欲と裏切り、真実と信仰、いや、何でもありでほんと魅せられる。
そして、イスラエルとパレスチナの紛争の現在を見ると、彼らは全く変わっていないようだ。

だけど、今、書くことはこのようなことではない。これにしぼりたい。

歴史と伝説。

聖書の中のことは、たぶんほとんどほんとのことだろうと思う。
「伝説」の中には、たくさんの真実が入っている。
伝説や言い伝えを史実ではないとして疑う人がいるけれど、むしろ、この中にこそ多くの真実があるような気がしてならない。

なぜなら、人の目による認識や記憶、これらを通さない事実というのはないのだから、このような事実とされるものが、多くの人の見たものであり記憶である方が、より共有された「事実」としての資格をえるのではないだろうか。

言い伝えられているということそのこと自体が、言い伝えを真実にしてきている。変な言い方だけど。
事実と信じることが、事実を真実にしている、とでも言ったらいいのか。
認識されたものである事実は、客観的なデータとは違った語り方をされてこそ意味がでる。と言ったらいいのか。
わかるかなぁ、この気持ち。

つまり、マスコミなどが伝えるニュースより、実際見てきた人々の言葉の方が信ずるにたるという場合もある。より信頼できると思うことは多い。歴史は、実際は権力によって作られる場合が多いからね。たぶんゆがんでいる。

なぜこんなことを言うかというと、インド哲学研究も、例えば、龍樹の伝記などについて、歴史的事実かどうか疑わしいという意見がすぐ出てきてしまうから。
竜宮城に行っただの、身体が見えなくなる薬を作り出しただの、ちょっとふつうじゃない文面が出てくるからかもしれないが、それに気をとられてはいけないと思う。
誇張や脚色の中にある真実を見つけることが、わたしたちにとって大事だ。

伝承というものは、「客観的事実」とされる史実に対する信仰の陰に隠れてわからないが、わたしたちに、じつは多くの真実を伝えてきていたんではなかろうか。と思う今日この頃。

だって、龍樹の伝記なんだけど、たしかに誇張されたりしてるけど、話がどう見ても作品とうまく符合してる…。

って、聖書からさりげなく龍樹にいくとこが、やっぱ、わたしだなぁ。
あ、さりげなくない?失礼しました。

しかし、今回、まじめじゃん。

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2004/12/06

毒を盛るなら、気をつけて!

4時半起きです。眠いす。

降りましたわ、雪。
関東は暴風が吹き荒れてたいへんだったですね。しかも真夏のような気温で。

さて、と、今日は論理学、っと。
哲学やって、龍樹やって、サーンキヤ・ヨーガやって…
毎日日替わり弁当みたいに違うことやるんで、切り替えがむずかしいすよ。

たいてい前の余韻を引きずるから、なかなか割り切って予習できないのが、難点なのよ。

論理学も、ねぇ、まずいのよ、いろいろ。看護師さんと論理学って、ときどきとっても合わないの。

合わないのは、おまえの教え方が悪いせいだ。
そんな変な問題出したら、看護師さんの看護だましいに火がつくに決まってんだろ!
そんなにおいしい問題! だすなっつうの。

ふぇ~ん、ごめんなさい!ごめんなさい!

だってぇ、気がつかなかったんだものぉ、許してよぉ。
そんなに文句言うんなら、みんなにも問題出しちゃうから。

『天才スマリアンのパラドックス人生』からとった問題よぉ。ぐすっ。

問題
3人の男a,b,cがサハラ砂漠を横断していた。ある夜、彼らはテントを張った。aはcを憎んでおり、cの水筒の水に毒を入れて彼を殺害することにした。これとはまた別にbもcを殺害しようとしていた。彼は、cの水筒に毒が入っていることを知らずに、cの水筒に穴を開けた。水筒の水はゆっくり流れていった。この結果、cは砂漠で脱水症状になり数日後に亡くなった。さて、aとbとどちらが殺人者だろうか。論理的に説明してみよう。殺人者とする方の名前をあげ、しっかりと理由を述べてほしい。

みんなどんな答えをくれたと思う。

一応、ね、論理学の問題だからね。
作った人は、aとbのどちらが殺人者とするべきか、大いに悩んでもらおうって魂胆だっちゅうことはわかるのよ。
aは殺害の意志も行為もはっきりしている。しかし、運悪くbより先に事をなしたが故に、bにすっかりじゃまされた形になってしまっている。
bは、aほど殺意はない。度のすぎた悪ふざけと解釈できないこともない。しかし、直接,cを死に追いやった。
さあ、どうするどうする?誰が殺人者?

って、問題なのにさ、みなさんの反応はいかに?

ある学生は:
ゆっくり漏れていったのだから、cは水を少しは飲めたのではないか。そのため、毒も回って脱水症状に加えて重い症状が出て数日後に亡くなった。

また、ある学生は:
cは水を少しは飲めた。おそらくその毒は遅効性のものだったのではないか。脱水だけなら、他の人の水をもらったり奪ったりできるのではないか。ゆっくり効いて次第に体力を奪ったのではないか。

また、ある学生は:
その毒は、脱水症状をもたらすような毒だったのではないか。だから、脱水で死んだようにみえるのでは?

また、ある学生は:
脱水になっているのに、助けないというのはおかしい。一緒に行動していたら水を分けたりするのではないか。
そうなら、毒の効き目もあって脱水になり死んでいったというのならわかる。

論理の問題なんだってば。
お願い、ゆるしてください。勘弁してよ。ごめんなさい、もうしません。こんな問題二度と出すもんかぁ~。

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2004/12/05

サーンキャ思想説明できます

今週ほんとにハードだったなぁ。
金曜日は睡眠2時間だったから、起こっていることが夢のようだった。

昨日は、ヨーガのみなさまに古典ヨーガの思想的基盤といわれるサーンキヤ哲学について講義をした。

わっはっは。うまくいったのよ、これが。

今までは、過去に2度くらいチャレンジして、ま、それなりはわかってもらえるけど、どうもピンときたような感じではなかった。

わたしは、ヨーガはほんとにちょっとしかやったことない。
だから、ヨーガは頭から入ってる。つまり、文献から。

一方、

ヨーガのみなさんは、文献かじったことがほとんどない。
だから、ヨーガは体から入っている。つまり、実践から。

このように互いに欠陥のあるものどおしが、体験ベースの理論を知ろうってんだからどうしても無理がでる。

だから、この場合サーンキヤの説明の中にある、目の見えない人と足の悪い人の喩えを応用してそのようなイメージでやったら、うまくいったわ。

サーンキヤは二元論です。ちょっと変わってる。

プルシャ(精神的原理)とプラクリティ(第一質料因)
むずかしいわね。言葉が。

プルシャはアートマン、「自己」なの。それは、ただ「見る」だけの者。
あなたの中に一つ。わたしの中に一つ。みんなに一つずつ。だから、みんな「自分が見てる」って思うのだわ。
でも「思ってる」って部分は、「自己」じゃない。自己は見るだけ。つまり、ただ「主体」というだけ。もち、姿形はないからね。

プラクリティは、残ったもの全部、さっきの「思ってる」もここ。変化する精神世界と肉体の世界全部。
ま、身体と心と周囲の環境全部のこと。

変な分類だ、だって?

失礼しちゃうわ!これでいいの。みんながまちがってるのよ。
だって、こうすると何もかも説明できる。理性ある人も理性のかけらのない人も、赤ちゃんも死にかけの人も、キレてる人もキレのいい人も。
「目の見えない人と足の悪い人」の喩えによってうまく説明できる!るん!

「足の悪い人」はプルシャ、でもね、目は見えるの。
「目の悪い人は」はプラクリティ、でもね、足は丈夫。

目の悪い足の良い人は、足の悪い目の良い人を負ぶって、進むの。そうすると目的地に行ける。
何でも二つ合わせて、一つになるものは、一つになってるときをうまく説明できなきゃだめよ。

人それぞれの部分や変化する部分は、みんなプラクリティの中で説明できる、心も身体もね。
プルシャはみな「見る者」として共通。だから、どんな生き物も同じ生き物だなって、連帯できる。たくさんあるけど、一つと一緒やね。

現代では人気がなくなってきたけど、心と体に分ける二元論は、例えば、馬と車のようなもの。
あわせると馬車になるけど、馬は暴走するし、車はそれだけじゃ何にもしないし。
御者もいなけりゃ、馬車に乗る人もいない。何か足りないわよ。
これだけだと、まるで、押さえのきかない現代人…おっと、まずいわ。失礼、失礼。

こんな風だから、サーンキャ方式で行くと、
プルシャはわたし。見ることはできるけど動けない。
ヨーガのみなさんはプラクリティ。動けるけど見ることができない。
だから、わたしがヨーガの目になって、みんなに「こっちだぞ」って言ったら、みんながどんどん進んでくれて、わたしも目的地に行けたのだった。

いいわね!こういう説明。
しかし、現実見ると、鍛えられてない肉体はわたしだけってのが、ねぇ、異様にさびしい、っす。

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