2018/09/08

地震発生

9月6日 午前3時8分
大きな揺れで目を覚ましました。

地震だっ!

慌てて階段を降りて、母の部屋に。

「ゆれたね」
「うん、ゆれた」

「けっこう大きいね。
東日本大震災のときほど大きくないけど、
案外近いんじゃない。揺れ方がちがうよね。
揺れがゆっくり大きくないから、案外近いところが震源かも。。」

などと家族と話しながら、
テレビをつけました。

「地震速報です」とテレビは言ってました。
震源地は、胆振地方。震度6などと言っています。

みんなで、かたまってテレビを見ていたら、
突然電気が消えました。

「あれ、珍しいね、停電した」

と、その時は大事になるとは知らず、のんきにかまえて、
懐中電灯を探したりしていました。

うちは、けっこう原始生活派なので、
懐中電灯は、その辺にあります。

懐中電灯のあかりを頼りに、
電動器械の酸素吸入ができないから、
酸素ボンベに変えようと、
一本あったボンベに切り替えました。

ベッドを持ち上げようと、無意識でリモートコントロールのボタンを押してしまう。

あ、電気来てないんだった。。

後で聞いたら、
身体の傾きを自動で変える電動ベッドの作動中に停電になって、
ベッドが斜めに傾いたまま止まったお家もあったのだとか。。

うーん、便利なものは、不便です。


      ◇◇◇


そうだ、気を取り直して、お茶でも飲もう。。

あれま、ガスが止まってる
でも、水は使える

昔キャンプのとき使った携帯用のガスで、
お湯を沸かしてコーヒーを入れる。

ガスは、地震の後、一時的に止まるけど、どこかを操作すれば、
使えるようになるはずだ。。

そう言えば、地震前日、買い物に行って、
母の飲むオーエスワンという経口補水液を
16個買ってきていました。

虫の知らせか

その時、どういうわけか、
乾電池を買いたい欲求が起こってきて、レジのところで、
思わず乾電池に手がいきそうでしたが、
うちにいっぱいあったことを思い出して、こらえました。

ガスは、電話して、外の黒いキャップをはずして、五秒くらい
長押しする、と使えるようになる、という情報をもらいました。

お米はいっぱいあるし、
水も大丈夫。
みそがあって、醤油があって、塩がある。
母の栄養剤もたくさんある。

ラジオを聞きながら、
おとなしくしていれば、
なんとかなりそう。。


     ◇◇◇


そう言えば、書斎の天井付近の棚から本が落ちてたっけ。
本は、猫が寝ている椅子の上にたくさん落ちてて、
猫がいない。

サムはすぐよってくるけど
ダン?ダンはどこ?

机の下でじっと潜って動かない。
エサも食べずに、じっとしている。
その後、丸1日、おびえていました。


夜が明けて、午前中外に出てみると、
歩いている人はほとんどいなくて、
子供が一人自転車に乗って遊んでました。

そういえば、全道の小中学校は休校です。

犬を連れた人が散歩していました。

どこかでひっきりなしにサイレンがなって、
救急車などが走り回っているようです。

車は、ほとんど通らない。


一見のどか風だけど、何かざわつくおかしな感じです。


昼過ぎに、訪問看護のマッサージの人が見えて
いろいろ教えてくれる。

信号が止まってしまって、車で走ると怖いです。
コンビニが長蛇の列です。
スーパーも並んでましたよ。
公園の水道のところで、みんな水を汲んでいました。
断水のところもあるみたいです。

JRは止まっていると聞いたけれど、
バスは動いているんでしょうか。

バスも走っていないんじゃないでしょうか。

そうですよね。
ガソリンが給油できないですものね。


電気がないと、何もできないことを知りますね。


     ◇◇◇


明るいうちに、本を読もう。
よく考えたら、することないし。。

パソコン使えないから、仕事にならない。

紙の本も、けっこうありがたいものだ。
すぐに読めるし、電気もいらないし。


太陽が出ている時に、活動して
日が沈んだら、寝る

昔の人は、こういう生活をしていたんだ。

何と精神的に落ち着くことだろうか。
情報がないことで、みょうに平和です。

夜、真っ暗な周囲と対比して
星空がきれいです。

こんなにたくさん星があったっけ、知らなかったよ。


出家の行者は、夜の闇で星を見上げていたのかな。

食べる
寝る
排泄する

この三つを、どの時代の人も、みな共通に行っていたんだなあ。

生きる基本は、これだけなのか。。


地震がくれた贈り物は、この知識です。

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2018/08/19

第一次結集

大谷大学の仏教講座、第二回目、

毎回、何をお話ししようかと、悩みに悩むが結局、
土壇場で、自分の一番関心のあることになってしまう。

今回の講座のタイトルは

「経典と仏弟子たち ―師の教えに出会う―」

マハーカッサパとアーナンダの二大弟子たちを取りあげて、
ドラマ仕立てでお話ししました。


よくよく考えてみると


仏典の編纂会議である
第一次結集は、ある種の奇跡と言っていいのではないか。


あらかじめ決まっていたのではない。

お釈迦さまの葬儀に付いては、アーナンダが、
あらかじめ聞いていたことがあって、
それによって執り行われたし、

(といっても、「比丘たちは関わるな」というのだけど)

仏塔を建てて人々がお参りすることも、
お釈迦さまは語ってくれていた。


でも、法については、そう言えば聞いてないな。。どうするか。。


あれ?ほんと、こんな大事なこと、何にも決めてない。
あたりまえだったのかしら???

気を静めるために、ナデシコでも見よっと。
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       ◇◇◇


マハーカッサパ尊者は、スバッダという比丘が、
みんなの中で
「これからは好きにしようぜ」
と言っているのを聞いて
危機感を覚えるのです。


(マハーカッサパの気持ち)

教と律を守ろう!


非法が輝きだし、法が廃れてしまう前に!
非律が輝きだし、律が廃れてしまう前に!

法を守るのは誰か?律を守るのは誰か?

お釈迦さまの教えにつながる阿羅漢たちである。

阿羅漢たちで構成したメンバーで
教と律を編纂しなければならない。


しかし、世の中というのは皮肉なもの。。

一番入れたい多聞のアーナンダは、まだ阿羅漢未満。。
アーナンダは入れるわけにはいかん。

いじわるしているのではない、
泣いて頼んでもダメだ。アーナンダよ。

阿羅漢じゃないと
煩悩が混じってしまう。。

アーナンダよ、煩悩を尽くしてからでないと
この会議に入れるわけにはいかん

出ていけぇ~~


うーん、他には、誰かおらんか。
法を誦出できるものが?

ガヴァンパティという比丘がいます。
かれに頼んだらどうでしょう。

よし、そうしよう。急ぎ伝えてきなさい。


はい!!


ガヴァンパティ比丘に頼むも、

仏の般涅槃を知ったガヴァンパティは、

親象に従う子象の如く
自らも、滅度をとってしまうのです。
つまり、世俗の表現では、
身体を捨て亡くなってしまうということです。


マハーカッサパのことば

「仏の諸弟子、もし仏を思うならば、
まさに仏恩に報いねばならない。
涅槃に入ってはいけない


     ◇◇◇


一方、阿羅漢ではないということで、
仏典の編纂に加えてもらえないアーナンダ。。

泣くな!嘆くな!
恨むな、カッサパを

(アーナンダの気持ち)

「わたしには覚る力はあります。
ただ久しく道を得ることができませんでした。
諸仏の法により阿羅漢になる者は、
左右に供給して使令することはできません。
このため、わたしは煩悩を残して
全部断ってしまわなかっただけなのです」


って、言っても言い訳無用。。
仕方ない、後は本気で覚るしかない!


心をこめて一心に、禅定修行に入ります。

が、

覚ることはできません。
とうとう疲れて休もうと
枕に頭をつけんとするとき廓然として
覚りに達します。

ヘェイ!間に合った。

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     ◇◇◇


仏典が、現在あるのは、

もちろん、マハーカッサパとアーナンダだけの力ではない。

しかし、象徴的なのです。


涅槃に入らない阿羅漢がいなければならないのです。

でも、
それだけでは
経典は生まれない。

覚りに入らない阿羅漢がいなければならないのです。
(ちょっと変な言い方だけど)

覚った人も、すぐに涅槃に入るなら、
仏典のためには何もならない

また、

覚る力があっても、覚らずにいないと
仏典のためには何もならない


涅槃に入らず、第一次結集を指導した

マハーカッサパ尊者

覚りに入らず、多聞となって法を集めた

アーナンダ尊者


「付法蔵因縁伝」は、

法を受け継いだ
第一祖を、マハーカッサパとし
第二祖を、アーナンダとしています。

仏教の教えを守ってくれて

ありがとう

マハーカッサパ
アーナンダ

(『大智度論』(『大正蔵』25、pp67-68)を
用いました.。

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2018/08/11

“輪廻する”

毎年、毎年、生きるということはくり返される。

草木や虫けら、生き物たち、

寿命の長いところでは、ガラパゴス島のゾウガメ。
何百年も生きるそうだ。

======
「尊師よ、何が老死なのですか、誰にとってこの老死があるのですか、
(=老死と この老死をもつものとは、同じなのですか)」
======(『サンユッタ・ニカーヤ』12.35)


わたしたち風にいうならば、
命があって生きていると思っているので、その場合、

「命と身体は同じなのですか」
「命と身体は異なるのですか」

といってもいいかもしれない。

神をもたない仏教では、この問いが、ブッダに向かって投げかけられる。

神をもつ宗教では、この問いは、神に向かって投げかけられるだろう。
答えてもらえるかどうかは別にして、
神が答えるべき問題だと考えられることだろう。

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       ◇◇◇


わたしたちの心の中には、どこか
「死んだら終わりなのだ」という風に思う「信念のようなもの」がある。

「信念」 なのでなく
「信念のようなもの」なのだ。

なぜなら、根拠がないからだ。
だから、「死んでみないと、どうなるかわからない」という。

ほんとうは、死んでしまえばわかりようがない、とも
心の隅で思いながら、
「わかりようがないのだから、どうでもいいや」とも思う。

「輪廻する」という人もいるけど、そんなこと、わかりようがないだろ、

だいじょぶだ(なんだ、これ?)、だから、輪廻するなんて嘘っぱちだ。。
するわけないだろ、迷信信じるのかよ、死んだらそれで終わりさ。。


って、思いながら、不安になる。
死んだらどうなるかわからないからだ。。やっぱり。。


で、怖くなる

夏の風物詩、幽霊におびえるのと同じように、

ずっと心に引っかかっている「死んだらどうなるの」という思いに
悩まされる、

死にたくない

死ぬことを考えるなんて縁起でもない
まだ、死なないんだから、忘れよう。。輪廻なんて、嘘さ。。

そうだ、今を “楽しく” 生きるんだ
享楽的な人生。。けっこうじゃないか。。それでいいよ、自分は。

花のある人生を生きるんだっ!
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        ◇◇◇


普通の人の気持ちを、綴ってみました。
どうでしょう、みなさま、こんなところじゃないでしょうか。

ちがうかしら。
たとえ、多少ちがっても、

「死んだらどうなるか、誰もわからないだろ」

と、強固に思いながら生きているのは、だいたい同じではないでしょうか。


わたし自身は、もう、こういう考えを捨てました。

「死んだらどうなるか、なんて、誰もいえないだろ」
という「強力な信念(のようなもの)」に、飽き飽きしたからです。 


キリスト教やイスラム教の

神さまが天国を用意してくれている

というのも、わたしにとっては、魅力のない話です。

神さま、神さま、
わたしが、そんな答えに満足するようなクリーチャーに見えますか。
創造主なんだったら、被造物の気持ちも分かってよ。

「おまえを試しているのだ」っていうのは無しよ。
そんな “(神さまの)言い訳” はわかっているのだから。

枯れて来たラベンダーみたいに、そんなの、虚しいのよっ!
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        ◇◇◇


そこで、考えるべきは何か?

こういう 「死んだら、どうなるの?」という 問題を
解決することでは、ないでしょうか。

それも、神にたよらず、自分で。


こうして、結論を得た人が、ブッダだと思います。

死ぬことを厭いながら、人は死んでいく。

なぜ死ぬのだろ?
なぜって、生まれてきたからさ。
生まれなければ死ぬこともない、これは、事実でしょ。

だったら、「生まれないこと」を求めるしかないだろう。
でも、もう生まれちゃった。。嫌でも、死ぬしかない。。

こうして
死ぬことを厭いながら、人は死んでいく

人は、みなそうだ。そうなんだから仕方ない。。。
でも。。でも、ほんとは人のことはどうでもいい。

問題は、自分が死ぬことなんだから。
人の死はいっぱいあっても、自分の死はオンリーワン、ワン。

なぜ自分は死ぬのだろ?
なぜって、お母さんが自分を産んでくれたから、
生まれちゃったんだよ。
生まれたら死んでいくだろ。。
じゃ、お母さんを恨むか。。

っていうのもなぁ。。

ありがとう、お母さん、生んでくれて、って言いたくなる。

死んでいくのに、死にたくない、ってことが、
実は一番、問題なのかもしれない。

なぜ、死にたくないかといえば、
「死んだらどうなるか、誰もわからない」って思っているからだ。

ああ、なんかぐるぐるしてきたなあ。頭が、混乱してきた。。
考えるのやめよ、怖くなってきた。。


       ◇◇◇


だいたい、こんなでしょうか。

このような思いにとらわれることを
仏教では、 「輪廻」 と呼ぶのです。

なぜって?

ぐるぐる回っているでしょう。

思いは巡って、果てしないでしょう。

こういう考えにとらわれている者たちは、苦しいでしょう?
ちがう?

今だけ、1回こっきり、生まれてきたんだから、って考えたとしても、
「ぐるぐる思い」にとらわれて、「死ぬのが怖い」とか思っちゃう。。

「なんで、今、この1回だけ、自分は生まれてきてるんだ」って思うと、
悩ましい。

1回だけ生まれてきても、何度も生まれてきても、
死ぬのが怖いことには、変わりがない。

だから、なんですよ、
ブッダが生死を乗りこえようとしたのは、(とわたしは思うな)。


気持ちが定まれば、死は怖いものではない
自分自身がどうなるかを知れば、何も畏れることはない。

神さまにすがらなくても、
自分で納得できる。

「死とはなんぞや」に対する答が得られる。


この問題に命をかけても、いいでしょう?
どうせ、することないんだし、ね。
知りたい人にとっては、安心がある。

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       ◇◇◇


======(『サンユッタ・ニカーヤ』12.35)

尊師は(次のように)言いました。

適切な質問ではない、
「何が老死なのですか、誰にとってこの老死があるのですか
(=老死と、この老死をもつものとは、同じなのですか)」と、
比丘たちよ、言うならば、

あるいは、

「老死と、この老死をもつものとは異なっている」と、
比丘たちよ、いうならば、

両者は一つであって、ただ表現が種々であるだけである。

「命と身体とは同じである」という見解によっているとき、
比丘たちよ、清浄行に住していることはない。

「命と身体とは異なっている」という見解によっているとき、
比丘たちよ、清浄行に住していることはない。

これら二つの極端に近づかず、中道によって、如来は説くのである。
生によって老死があると。

======

難しいね、尊師のことば。

命あっての物種だ、というけど、
この命のあるこの身体、って気持ちがしても、
それは表現がいろいろにあるだけ。

自分の命だ、
自分の身体だ、

だから
命と身体は一つだ、
いや、
命は命、身体は身体で、二つは分かれてばらばらになる

死んでも命がありますように。。何、言ってんだろ。。


こういう風に考えていると

ぐるぐる回るよ

って、ブッダは言ってる。


生まれてくるから、死んでいくんだ


これは、その通りでしょう。
これを見つめるなら


生まれてこなければ、死んでいかない


という理屈に、納得できるでしょう。


今の生が、この1回こっきりの生なのかどうか、わからないのだったら、

これから、また再び生まれることがない、という道筋を
検討しておくのも悪くないでしょう。
どうですか?

ぐるぐる回って、悩むのも嫌でしょう?


「誰にとって老死があるのですか」と考えるから、
混乱するんだよ。
「自分にとって」、「他人にとって」、と考えなければ、

生があるとき死がある
生がないとき死がない

これで納得できるでしょう。


科学の目をもつあなたなら、わかるはず。

「生がないとき死はない」理屈が。


ここを見つめて生きるとき

「不生」を心において生きることになる

「不生」を知れば「不死」も知る

「不死」を心において生きることになる


生死を乗りこえた人々は、仏教には、
たくさんいるのです。

そうでない人たちを、
「輪廻している」と呼んでいるのです。
迷っているからです。

こうやって、世間はぐるぐる、ぐるぐるするのであります。
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この花、天人菊っていうらしい。特攻花ともいうのだそうだけど、そのなぞは検索してみて。


ブッダは、「来世」の話をしているようで、実は、していない。

今生きているあなたに、今、納得を与えるために答えている。


難しいね、“輪廻する”のも、しないのも。


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2018/07/22

暑いですね。アニメな世界とアメニな世界

猛暑続きで、日本列島が真っ赤に燃え上がっているようです。
ほんとに、お見舞い申しあげます。

「学校のネタ」というカテゴリーで閑話休題。


この前、「クレヨンしんちゃん」の動画を、学生と一緒に見ました。
「大人帝国の逆襲」という題だったような気がします。


大人が、子供の頃&青春時代(昭和の時代)に戻りたがって、
「子供化」するというお話しでした。

大阪万博の太陽の塔が出てきたり、昭和の風景が出てきたり、
登場人物の男性と女性が、ビートルズファッションとミニスカートだったり。


画像がノスタルジィをかきたてる夕焼け風景で、
昭和の時代が、かげろうやまぼろしのように再現されていました。

学生が
「せんせ、昭和の時代ってこんなだったんですか」
って言うから

わたし
「こんなだったよ、このまんまかな」
って言ったら

「へぇ~~~」
って、驚いてました。

「この頃、マンションじゃないんだ、セキュリティもないよね」
「駄菓子屋さん、ってあこがれる」

ふうん、そんなところに驚くんだ。
そういえば、登場人物の男性、どこかで見たことあると思ったら、ジョン・レノン風だった。

「せんせ、今頃気がついたんですか。
イエスタデイ・ワンスモア、って言ってたじゃないですか」

「あれぇ、ごめんよ、ようやく気がついた」


「せんせ、『クレヨンしんちゃん』って、子供向けだと思ってるけど、
けっこう “見せる” んですよ、これは、シリーズの中でも傑作かな」

っていうから

「小さい子供だけじゃなく、親もつい見てしまうよね」
って。

「子供の時は、これはこれでおもしろいし、
大きくなったら、また、違う内容だったって気づくんですよ。
子供でも案外わかるし、わかりやすいです」

なるほど、大人が感じる無常感、
それを子供もどこかに感じるのかな?

どこか、子供にも大人にも共通の通ずる部分がある、
ということかもしれないですね。


           ◇◇◇


この、「わかりやすいです」の一言に大きく反応したわたし。

わかりやすい、か。。。なるほど。。

では、もう一つ、違うアニメでもいってみよう。


           ◇◇◇


最近、学生と何回か観ているアニメ 「ブッダ」 について。

アニメと、経典の違い(いや、共通点かな)を実感しています。

手塚治虫原作の「ブッダ 赤い砂漠よ!美しく」(アニメ)を、学生と毎年見ます。

Photo_2

こんな絵柄です。
イケメンのゴータマくんです。

さてさて

何回か見たので、ようやくストーリーについていけるようになったわたし。
ところが、
学生は、1回しか見てないのに、けっこうストーリーについていけてる。

けっこうなアニメ評論家もいて、
手塚の作品はについて、あれこれ蘊蓄を披露してくれる。
また、声優やセル画などの細部にも気づいて評論したりするほどの子もいる。

でも、

中には、わたし並みに、アニメについていけない子もいる。
「残酷なシーンは見ていられなかったし、何が何だかわかりませんでした」
っていう子も。。 

だよねェ。。わたしもだよ。

何回か見て、気づいてきたのは、
制作者(手塚治虫?)は、実は 「 わかりやすく 」 作っているのだ、
ということです。


アニメの基本は、「 わかりやすい 」ことなのです。

(などと知ったかぶりで言っていいのだろうか)


でも、それだけだけだと、おもしろくない、エンターテイメントなんだし。。

ということで、

二つのストーリーを交互に組み合わせる、という手法になる!
のだ。。これで、正しい?

一つは、   ある奴隷の少年の物語
もう一つは、 ブッダの少年時代の物語

奴隷の少年の物語は、「手塚」オリジナルの物語。
ブッダのお話しは、「仏伝」「経典」から採ったもの。


わたしとしては、こんな理解になってしまう。


だから、一つ一つのストーリーは「わかりやすい」のです。
一つは
奴隷の少年が、カースト制度を超えて這い上がっていこうとする姿を描くもの。
だけど、
もう一つのストーリーが、謎なのです(わたしにとって)。
ゴータマの煩悶と出家。。

ここにまったくのメスが入れられていない(ようにみえる)ので、
ただのきれいな絵になっている(ようにみえるのよ)。。でも、違うのかな?

もしかして、学生諸君はみんな、けっこう納得しているのかもしれない。
ゴータマは、人々の苦しみを見て何とかしようと出家した。。みたいに。

たぶん、お釈迦さまは人々のために出家した立派な人(?)なんだ。
コンセプトは、シンプルのはずだし。。

として、学生は納得しているのかもしれない、
(と、最近ようやく気づいてきました)


        ◇◇◇


ここから、とりとめなくつらつらと考察。


コンセプトは、シンプルに。
なぜなら、わかりやすくないとついていけないから。
しかし、
意外性はほしい。
なぜなら、わかりやすいだけだと飽きてしまうから。

だから、
シンプルなコンセプトのものをいくつか組み合わせることになる。


何となく、これまでわたしがつかんできた「 現代思想風景 」です。

だから、コンセプトをつかめる人には、
なんてことなく、「わかりやすい」「おもしろい」と言えるのです。

すでに、どこかに「答えを得ている・わかった」という感覚があるのでしょう。
現代という時代の流れをつかんでる、という感じもあるのかも。


でも、コンセプトがつかめないと、
何が何だかわからない、ただただ断片的に印象に残るのです。

今の時代には、ついていけないや、時代に遅れたかも。。
って、思うかもしれないですね。

以上は、世俗諦での、ものの見方の一例です。

わたしも、実は、ブッダの少年時代で、引っかかったので
自分自身としては、わかりにくかったです。
ブッダの時代が、仏教以外の決まり切った思想によって切り取られているなあ、って、ちょっと不満。


        ◇◇◇


では、ここから「経典」に考察を広げよう。
世俗諦から、勝義諦へと移行してみよう。

いってみれば、経典も、アニメと同じ手法なのかも。


コンセプトはシンプルに。
しかし、それは、組み合わさって現象している。


アニメよりももっと緊密につながり、また、細部のすみずみまでつながっている。


ゴータマの出家は、奴隷少年の下剋上物語と、もっと親密に連関しているよう。
同じ道の上にあるはずなのだ。

コンセプト1
一切皆苦

コンセプト2
諸行無常

コンセプト3
諸法無我


この三つが、一つの大きなコンセプトにまとめられることがわかると、
このアニメな世界は、勝義のアメニな世界になるのかもしれない。

アメニ? なに?

飴煮?

Photo(コトバンクから取りました)

並んでますね。
味もしみてる。

現象する風景に、コンセプトがしみてるの図。

これが仏教のアメニな世界なんだろね。


勝義諦では、「縁起」コンセプトが、シンプルに、
現象にしみこんで、どこを食べても飴煮なアメニ。。うまい!


こういう仏教コンセプトの行き渡る
アメニな世界は、一つには、マンダラがそうかもしれない。

イケメン・ブッダの代わりに、カラフル・ビューティな円満世界。

ブッダの目線、菩薩の目線が生きる世界。
Mandalafinal_m

世俗の世界
煩悩具足の 普通の人々は、
できるだけ 覚った人ブッダを
理想の姿、美しい姿で描こうとする

聖者の世界
悟りを得た聖者たちは、
縁起するこの世界に
清らかな理想郷を観ている

どちらにもあるのは、
もてる限りの力で
美しく描こう、荘厳しよう、という心。

アニメの世界とアメニの世界の共通点は、
これかな。

けっこうむりやりまとめたところで、

おしまい。


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2018/06/19

アルボムッレ・スマナサーラ著『スッタニパータ 第五章「彼岸道品」』サンガ

前の「日記」が4月ですね。

はや、二ヶ月以上が過ぎました。季刊雑誌みたいなってきた。。

でも、今回、頑張って日記を書きましょう!
『スッタニパータ』の解説本が出ました。

アルボムッレ・スマナサーラ
『スッタニパータ 第五章「彼岸道品」』サンガ、2018年

そのご紹介です。

Photo

帯をしっかと、確認せよ。


21世紀、私たちが初めて出会う『スッタニパータ』がここにある。

「ブッダのことば」を確実に理解する


力のこもった帯のことばですね。
帯の最下段には

歴史に残る講義録をまとめた全四巻シリーズ、第一巻!

とあります。
これは、読まないわけにはいくまいぞ、と思わせる、ことば群です。


では、読んでみましょう。
まずは「まえがき」から。
スマナサーラ長老さまの覚悟のほどが語られています。


=====
一流の学究者たちと、智慧の完成者たる
ブッダとの会話なので、
内容は一般人が興味を抱くものでもないし、
簡単に理解できるものでもありません。
そこで、とことん解説することに挑戦して、
我々一般人にも大物同士の対話を
理解できるようにしようではないかと、最終的に
解説者が敗北することは覚悟の上で試みました。
=====(p.4)

わかることは、スマ長老さまでも、難しい経典なのだ、ということです。

そもそも、仏教の難しさは、
一見すると難しく見えない、というところ、
ここに何かが潜んでいるようです。

私たちのような普通の読者ですと、

「彼岸道品一章を扱うのに、四巻もかかるんですか?」
という、疑問も出てきそうです。

「わたしも読んだけど、そんなに難しくなかったよ」という方もいるでしょう。

「長老さま、そんな内容なだなんて思いもよりません」と驚く人もいるでしょう。


しかし、


このような語りこそが、ブッダの語りでもあります。

どんな立場の人でも、どんな年齢の人でも、普通に読めて、
それぞれが理解できる内容をもっているのです。

言ってみれば、ブッダのことばは、無限の相をもっているかのようです。

高度な修行をする修行者にも、

学問研究に余念のない学者にも

生きていく上での指針にしたい一般の人々にも

どんな人でも読めて、それなりの答えを見いだせる

そんな経典の極致が、この「彼岸道品」であると言えるでしょう。


それを知った上で

長老さま なら、どう読むか?!!


そこのところを、全身全霊をこめて語っている書、ということになりましょう。

          ◇◇◇


ふむふむ。。ふむふむ。。なるほど。。そうか、そうきたか。。ふむ。。

いや。。ふむ。。そこは、それ。。そうなるか、うむ。。うむむ。。


何言ってるんだ、って?

読んでるなら、感想を述べなさい、って?


うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーむーーーーー!


確かに読み方いろいろある中の、一つの読み方ではある、

と思います。

スマ長老さまのたいへんさもわかるし、
スマ長老さまの読みの鋭さを察知できるところもあります。
しかし、正直なところ、
どうして、そう読むのだろう、というところも、
たくさんあるのです。


全体量の、半分は「なるほど、なるほど、さすが!」と思い、
残りの半分は「なぜ、どうして、そうなるの???」と思い、
両者合わせると、

「そうか、長老さまの読みだなあ」

という気がしてきます。


長老さまの読みが、『スッタニパータ』の
唯一の読みではない
ということを、よく了解しているならば、

この読みを提供してくれたスマナサーラ長老の
深い智慧の解釈は、
仏教全体に大きく利益をもたらすだろうと思います。


そういう視点に立って、読まなきゃ、
なかなか読後感は書けないなぁ。。
などと、ごちゃごちゃ言ってます 


          ◇◇◇


ご紹介文としては、まず、こう言いましょう。

長老さまの読みは、

テーラワーダ仏教の特徴を、
はっきりと
打ち出す読みです。

厳しい実践行に裏付けられた、
明確な経典解釈の表明です。


そういう意味で、ありうる一つの解釈だと思います。


では、その特徴は、どこにあるのか?


これをお話しすると、テーラワーダ仏教の立ち位置や特徴が
はっきりしてくると思います。

そうだ、こういう客観的な視点がほしいですね。
長老さまの読みを客観的に見てみよう、
ということではじめましょ。


       ◇◇◇


ではでは、仕切り直して、
 【長老さまの読みの特徴】 
と思うところを挙げていきましょう。

☆☆(一)
まず、「序品」は省略されていること。
すぐさま、最初の学人(マーナヴァ)アジタが登場し質問すること。
アジタさんには「仙人」という呼び名が与えられていること。
マーナヴァの呼びかけを使うのをやめてるみたいね。

☆☆(二)
アジタら学人の質問やブッダの答えは、参考訳として
中村元訳『ブッダのことば』(岩波文庫)を、そのまま使用していること。

参考訳のわりには、目立つので、読者はそれに引っ張られてしまいそうになること。
長老さまの訳は、解説に埋もれるように見えて、太字のわりには目立たないこと。

☆☆(三)
アジタの問いは「世界、世間(ローカ)」について尋ねているのに、
長老さまは、「すべての生命」を意味するとして、「わたし」ということだとすること。


でた!これだな!
何が特徴かと言って、(三)ほど、大きな特徴はないのではないでしょうか。


======
Lokoは通常、世間と訳します。その世間とは何を指しているのでしょうか?
第一に、世間とは「すべての生命」のことです。
次に、世間とは「自分」である、と理解しなくてはいけないのです。
=======(p.17)

すでに、ここで、うーーーーーむぅぅ、となっています。
わからないではない、しかし、それでいいのでしょうか??

ここに解釈が入ります。

仏教においては、
「わたし(アッタン)」と「世間(ローカ)」とは、確かにセットで取りあげられることばではあります。

ですが、今、質問には「世間」とあるのであって、
決して「わたし」とは、述べていないのです。


いろいろ不安が渦巻きます。

世間を語ることは、自己を語ることだ、ということになれば、
アートマン(自己)の思想へと向かう要素もないわけではありません。

自己を語ることは、世間を語ることだ、という順序であれば、
まだ頷けますが、
逆ですからねぇ。。いいのでしょうか。


それに、長老さまは、このように語っています。
=======
スッタニパータの「彼岸道品」というのは、
ブッダが本格的に説法を始める前に、
ブッダがサンガ組織をつくる以前に、仙人たちと内緒で
おこなった対話を記録したものなのです。
それがあまりにも素晴らしい対話だったから
「残して勉強しなさい」ということになったのです。
=======(p.39)

この説明を受け入れるなら、
仙人たちは、そもそも仏教を知らないことになるでしょう?


仙人たちには、梵我一如のようなウパニシャッドで説かれるような思想があるかもしれません。
それはわかりませんので、もし、そうだとして、
そこで、「世間」と聞いたら「アッタン(自分)」を指すとしても、
何も問題はないのだ、と考えるとしましょう。

しかし、そうだとしても、アジタの問いの四つを書き換えてしまっているように見えてくるのです。

【長老さま訳】(アジタの問い)
========

「この世界は何によって覆われているのですか?」

「なぜ(世界の)本当の姿が見えてこないのですか?」

「(世界が見えないように)塗りつけられた汚れは何なのですか?」

「(この世界にとって)最大の恐怖とは何なのですか?」

========(pp.16-17)(パーリ語原文は略す)

この問いは、ブッダによって解釈し直されて、
膨大な人生哲学、命の哲学を語る偈として答えられているのだ、
と、長老さまは解釈していると、わたしは受けとめました。

アジタの問いは、長老さまによって、次のように書き換えられ
解釈しなおされています。

========

「私は誰ですか?」

「なぜ、それがわからないのですか?」

「何によって真理が隠されているのですか?」

「なぜ真理をわからなくてはいけないのですか?」

========(p.39)

ずいぶん違ってきちゃったように見えますね。
うーーむ

深い深い解釈であることは、
わたしのようなものでも、
それなりに気づいてくるのです。

その点は、敬って聞くところであるのです。


ただ一点だけ、疑問が出てきて仕方ないのです。


なぜ、「世間」を、「わたし」と読んでよいのか?


なぜ、そうすることが、(当時)ごく当たり前に行われたと思うのか??


     ◇◇◇


よお~~~~し、わたしも、仏教研究者のはしくれ、
今は、全面的に、長老さまにしたがうことにしましょう。

おっしゃる通りだと、むりやり頷くことにしましょうぉぉーーーー

で、

ここから、何が見えるか?


つまりですよ、もし、そうだとすれば、

仙人たちの大半は、アートマンとブラフマンの合一(梵我一如)を目指す
人々だった、ということになる。

たとえば、ヤージュニャヴァルキヤのような、ウッダーラカのような、
そういう哲人たちの思想を学んだ人々だということになる。

当時の人々(仙人たち)は、「世間」ということを述べても、
それは「わたし」ということを意味している、と受けとめたということになるので、
ブッダは、仙人たちに合わせて、そう語ったということになります。

だから、アジタが、1038偈(1044偈)で

「この世には真理を究め明らめた人々もあり、
学びつつある人々もあり、凡夫もおります。
お尋ねしますが、聖者は、
どうかかれらのふるまいを語ってください。わが友よ」【中村訳】

と問うた時も、

一般の人々(凡夫)のことは省略して、
修行完成者と修行中の人々がどう生活するのかを答えて、
アジタに合わせているのだ、と解釈しています。(pp.81-82)


了解しましたよ。長老さま。


では、わたしの読後感をまとめます。


長老さまの『スッタニパータ』「彼岸道品」の読みは、

仙人たち(学人たち)が、いわゆるアートマン論に
詳しい思想をもった行の進んだ行者である、

と見て

それに合わせて解釈したものだ、と理解しました。


ここが、部派の特徴ですね。
あくまでも「わたし」ということを確保して語る、というところ。

無我に行くとはいえ、
「自己をよりどころとせよ」という立場は忘れない。
そういう教えを守って、解釈していると思います。


      ◇◇◇


ここから、また、もう少し考察。

長老さまの解釈が、すぐれた専門家としての、一つの解釈を示すとすれば、

『スッタニパータ』は、他にも解釈や読みが、当然あるだろう。

なぜなら、長老さまの解釈も、一つの立場(専門の修行者)としての解釈、ということになるから。


であるから、

アジタらバラモンの行者たちが、もし、違う思想をもっていれば、

また、『スッタニパータ』は違う読みができそうだ、ということになる。。


「世間」はあくまで「世間」であると見るとどうなるか?

という観点を入れるなら、
また、テーラワーダ仏教とは異なる道も模索しうるなあ、と


遠い目で、遠い空を見上げている わたしです。


空(そら)よ、空、そらそら、そらみてみよう。
なに、なに
ふふふ、
Dsc02456s

そらじゃなくって、「くう」って読むんじゃないか、って。


よし、スマ長老さまのようなすぐれた「彼岸道品」の解釈にはならないかもしれないが、
学人たちの特徴をまた違うものとしてとらえて
もう一つの眼で語ってみよう。。。そのうちだけど。


あ、そうだ!忘れてた!

次巻の出版に関してお願いがあります。
(二)として出した特徴について。

中村先生の訳を、参考訳として出すなら、

並列させて、

長老さま独自の訳も、目立つように挙げてほしい。

参考訳が、スマ長老さまの訳のように見えてしまい、
たとえ、中村先生訳を批判しているとしても、
そこがわかりにくいです。

たとえば、中村訳を字体を小さくして、
長老さまの訳を、大きくするとか、とにかく、
長老さまの訳だけでも読めるようにしてあるとうれしいわ。

お願いね。


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2018/04/01

空性は熱いうちに語れ

みなさま、おひさです。

日記なのに、「みなさま」と始まるところが、
すでに、言い訳モードですねぇ。

言い訳の言葉も、いつものありふれたこのことばです。

「だって、忙しかったんだもん」、これに尽きます。

聞き飽きました、言い飽きました、という手垢のついたことばだけど、
やっぱり、「忙しかった、この三ヶ月」。

母が入院して退院しました。
自宅介護も新体制になりました。
妹夫妻が帰国して出国しました。
公開講座が始まって、五回完了しました。
論文を書いて、投稿して、校正も終えました。
大学全部終業して、成績つけました。
風邪ひいて、風邪抜けました。。もう、いいかな、これくらいで。


あっという間の、新学期前に、九州福岡にお邪魔して
講演をしてまいりました。

ついでに、お花見と観光と。
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福岡城跡(舞鶴公園)は、桜の名所。

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陸上競技場を臨む位置は、二の丸のあたりかも。


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こんなに、ザ・オハナミという体験は、生まれてはじめてです。

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たくさんの人で賑わっていました。


       ◇◇◇


お花見やら、観光やらで、
遊んでばかりいたのではないかと思われてしまうわ。

それでは本題の、公園、じゃなかった、講演のお話しを一つ。


失敗だらけのわたしですが、その度に反省もしているエライわたし。


次こそは、うまく話すぞ、って。


ですが、案の定、
今回もまた、「やっちまったな」と思います。
どうしても説明不足な感じが抜けません。

2018年3月29,30日それぞれ3時間ほど、計6時間の講演だったのに。
やっぱり時間が足りないぞ。

盛り込みすぎた?それとも、説明がへたくそ?
どっちも、ありだわね。

講題 「「空性」とは何か? ~『スッタニパータ』から『中論頌』へ~」

後は、ご紹介のサイトをご覧ください。


もやい(福岡県・佐賀県の真宗大谷派のサイト)


率直に言えば、講演それ自体は、とても楽しかったです。
話し手は「難有り」でも、聞き手がみなさん優れているので、
まずいところは、空じてくれました。


今回、「大乗非仏説を考える」という陰のテーマがありますので、
そこをねらいにして、お話ししました。

法(ダルマ)を見る

という、仏教的見方を打ち出しました。

仏教の開祖ゴータマ・シッダールタ氏は
変遷する歴史の中を生き抜いた一人物である、
という風に、を見ることもできますが、
それでは、なかなか仏教の思想がわかりません。

ただの偉人伝にしかならないように見えてしまいます。

しかし、

この歴史的人物の「法(ダルマ)」を探る、ということになりますと、
これは、別に「歴史的」である必要はありません。

法(ダルマ)は、本当に一切衆生を救えるのか?
法(ダルマ)は、普遍性をもつのだろうか?

を考えれば良いので、異なるものの見方(論理)を用いることになるのです。

「法を見るものは、仏を見る」のですから、そうなら、
ブッダ(仏)は 一切衆生を救える 「 一切智 」を
ほんとに持っているのかどうかを

調べればいいだけ。
簡単です。。。

簡単ですって、どこが、簡単なんだ??

一切智者が、他の者の「一切智者性」を調べるのは、
「簡単です」と言えるかもしれませんが、

一切智者でない者が、他の者の「一切智者性」を調べるのは、
難しいでしょう。

いや、そんなことはありません!

仏さまが一切智者であることは、わたしら凡夫にもわかるのです。
だって、「法」はみんなに開かれている。
「わかる人」と「わからない人」は、同じ地にいる。

つまり、地続きなんよ。
凡夫と聖者は、同じ地にいてつながっている。


聖者(の一部)が、 「一切智者」と呼ばれるのに対して、
わたしら凡夫は、 「一切智者でない者」
という呼び方で呼ばれるのです。

一切智者(ブッダ)のやり方をじっと見つめて、
そこからヒントを得るのです。

そのヒントが、法(ダルマ)なのです。
「法(ダルマ)」は、一切智者かどうかを調べる道具でもあるのです。

その上、ご褒美に
法(ダルマ)をマスターすれば、一切智者にもなれる、という特典も満載。


こうやってやって行きなさい、と、実は、お釈迦さまその人が語っているのです。

これぞ、般若波羅蜜(智慧の完成)の実践行なのです。


       ◇◇◇


で、ここからが、説明するのが難しい。

要するに、「全部自分で開発していきなさい」という道、
言いかえれば
「他人に頼るな、自分でやれ」という道。

「僕もそうしたのだから、君もそうしなさい」のルール。


わかりそうで、よく考えると混乱しそう。。でも、やっていけば何とかなる道でもある。

これを名づけて、何というか?

お釈迦さまは『スッタニパータ』の中で語っている。

======
933. (第十四経第19偈)
この法を知って、比丘は常に考察しながら
気づきをもって学習していきなさい。
(煩悩の)消尽を「寂静である」と知って、
ゴータマの教えの中で怠らないようにしなさい。
======

「自分でやるんだもん」の教えは、「ゴータマの教え」というんだ、って。
そこで、龍樹は、こう言いました。


一切の見解を捨て去るために、憐れみをもって、
 正しい法(サッダルマ)を説いたゴータマに
わたしは帰命する。
                   (『中論頌』27.30末尾「帰敬偈」)


龍樹は、直接、お釈迦さまの直説『スッタニパータ』「八偈品」の中から、
お釈迦さまの説いたことば(=法)を受けとって
その通りに実践したのです。

「他に依らず、自分でやりなさい」と述べているのだから、
言われたとおりに、お釈迦さまの説いたことば(=他)によらず、
自分で確かめ確かめして「ゴータマの法」を実践していったのです。

え?何か、引っかかる、って?
わけわからんようになってきた、ですって?

お釈迦さまの法を守ったのか、守らないのか、よくわからんなあ、
ですって。

では、もう一つ、お釈迦さまの直説を。

=====
934. (第14経第20偈)
かれは、実に打ち勝った者であって、
(他によって)打ち勝たれた者なのではありません。
(他から)伝え聞いたのではなく、
みずから直証した法を見たのです。

それ故に、かの尊師の教えにおいて、怠ることなく、
常に礼拝しつつ、したがい学んでいきなさい、
と、尊師は語りました。
=====

この「他から伝え聞いたのではなく、みずから直証して知ること」を
何と言うか?

これを、お釈迦さまは「尊師の教え」と言うのです。
自分で学習しなくちゃだめだ、の道。

だから、龍樹は、最初の帰敬偈で、その通りにやったのです。

======
滅することなく、生ずることなく、
(死後)断滅することなく、常住ではなく、
同一ではなく、異なることなく、
来るのでもなく、去るのでもなく、
戯論を断滅する、吉祥なる、
縁起を教示した等覚者(サンブッダ)、かれを、
語り手の中の最高のもの(ヴァラ)としてわたしは敬礼する。
                 (『中論頌』1.1-1.2冒頭「帰敬偈」)
======

八不中道は、龍樹が、経典の中から自分で
直証したものなんだわね。

『中論頌』では、「尊師」は「等覚者」となっているね。
「等覚者(=尊師)」から、諸仏の覚りが示されて、大乗への道が花開きます。

不生不滅などと簡潔に言われる八不中道は、
実践すると、寂滅へと通じていく。

縁起を駆使して、わたっていく、寂滅の言語世界。
戯論断滅していくさまを、龍樹は、直証したんだね。

この道を一心に往来するのが菩薩であって、
言語で語ることを恐れない者たちです。

かれらはやがて到達する寂静の世界を夢見ながら
喧噪の議論の中にどっぷりつかって、
しかも
喧噪の議論に溺れないのです。

智慧の桜を開花させ
そして
言語世界の寂滅へと桜吹雪が誘うのです。

やがて、智慧の桜が散り終えると、
智慧の活躍も静まって、
すべてを満足する涅槃の安らぎがやってくるのです。
涅槃寂静。

桜散る。。無学の者たちよ、おめでとう。


世俗の世界では、
悪い意味の、この「桜散る」は、

ブッダの教えでは良い意味、覚りへの道を示している。

無学は、もう学ぶ必要のなくなった者だからね。


    ◇◇◇


すべてが寂滅して、語ることばもなくなって、
見解がきれいにちり終えた状態

これが、「空性」ということだと、龍樹は語っているのです。

「何も無い」ってこと?
なに?空性って?

と思ったあなた。

そうではありません。

「何も無い」は、見解じゃ~あ~りませんか。
「何かある」とも、「何も無い」とも、思うことなく、いられる状態が、
「空性」なのです。

む、むずいにゃ。

そ、そうなのです。
むずいのです。

じゃ、何も考えない、ってこと?

それとも違います。

なぜなら、ことばの世界を通っていくからです。
ことばが行き交う世界を生きていきながら、
見解がないのです。

ことばがあるけど、そこに、「ある」という意識をもたず、
また、「何も考えない」という風にもならない、
そんな、ええ~い、どうすりゃいいの、という道を行くのが、

「空性」なんだってさ。


     ◇◇◇


そのため、「わたし」「わたしのもの」という思いを持たないようにすると、
うまく「空性」にいたることが出来る、といわれているのです。

「ええ~い、この桜吹雪が、眼に入らねぇ~か」

って、啖呵を切っているとき、

自分の利益を考えて、このことばを出すなら

「空ではない」 が、

自分の利益も、自分のものという意識もなく、ことばを出すなら、

「空である」可能性が出てきます。


空性は、ことばを使う道なのです。


自分のことばで自分の考えを述べながら
しかも、自己にこだわらないような人には、
この「空性」がそなわっていくのです。

それを学ぶ者には、この「空性」は、尊師の教えであり、ゴータマの教えになるのです。
最後は、見解もなく、静かに沈黙して終われるなら、満足だよね。

表題どおり
「空性」を熱いうちに語ってみたけど、
やっぱり、イマイチねぇ。

どうしても、すべてに配慮した語りにはならないわね。

桜でダメなら、つばきにするかな。
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やっぱり、最後は、空性の中に滅するのが、いいかな、ドボンとね。
ということで、海です。
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志賀島から、福岡市の方角を臨む。能古島が見えます。


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2017/12/14

あいうえ おっ、と、ボーディへ 

死ぬほど忙しい今日この頃。
クロノス(時間)に追いかけられる日々。


と思ったら、もう12月もなかば。


ああ、と思ったら、2018年は終わってるだろな。。

いい、ああ、もういいや。

うう、っといいながら、仕事しよ。


みなさん、おはようございます。
この法則性に気づきましたね。

つぎ、「ええ」ってくるだろうと思ったあなた。
あたりです。

ええ、ええ、そうなんすよ。

昔、とった写真を出すためだけに、

の字まできました。

お!

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題して、「O」 です。

まんまだな。
雪の降りたてのころ、こんなおしゃれな自然の造詣。

この写真を撮ったら、後は電池切れで、カメラはただの箱になってしまいました。

      ◇◇◇


さて、どんなに忙しくても、縁起を感じない日はない今日この頃。

今日の縁起は、

七仏通誡偈

諸悪幕作  (諸々の悪いことはせず)
衆善奉行  (たくさん善いことをして)
自浄其意  (みずから心を清らかにすること)
是諸仏教  (これが、諸仏の教えである)


これは、般若心経のマントラとおなじです

ガテー
ガテー
パーラガテー
パーラサンガテー

(ボーディ スヴァーハー)

うーん、そっくりだ。

どこが?
全然似てないだろ。


そんなことない、そっくり、そっくり。


ガテーガテーは、諸悪幕作衆善奉行

これで世俗諦だから、「ガ」と「テー」で方向づけ。
みんな悪いことはするなよ、善いことをたくさんせぃよ。

次に、飛躍する パーラガテー っと。
これが、聖者の境地に足を踏み入れる 一歩。

自浄其意

心を自分で浄める、って何?
ふつうの人にはわからないけど、聖者の道を進む人には
パーラ(ぴょん)っと、飛躍して、ガテーと進む

写真もお手伝いしてるね。
「O」の文字。清らかな、からっぽの「空」の心

そうして、

パーラ・サン・ガテー と、諸仏をつなげる。

「サン」ってのは、「集まる」という意味がある。

だから上の写真では、横にずっと引いてある黒い線(?)
つまり、雪のないところね。

諸仏はみな、横一線に並んで、仲良く
無上正等覚を示して
いうんだよ。

「ボーディへ!」


仏教は、みな同じことを言っているね。

般若心経も、七仏通誡偈も。

どんな経典の中にも、
どんなところにも、
悟りへの指標が隠れている

もち、自然の中にも、ある

それがときどき、こんな風に顕わになるんだ。
四角い世間の中で、まあるく生きる
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どぉ? 悟りに見えてきまへんか。


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2017/10/28

蛇品第7偈を心にひめて

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紅葉が、高揚してる。

今日は、わたしも、意識が高揚、いや、紅葉。

「スッタニパータ」第1章蛇品第7偈

♦ 7. Yassa vitakkā vidhūpitā
ajjhattaṃ suvikappitā asesā,
so bhikkhu jahāti orapāraṃ
urago jiṇṇam iva tacaṃ, purāṇaṃ.

心の内でよく分析された諸々の思索がことごとく破壊された比丘は、
こちらの岸とあちらの岸をともに捨てる。
あたかも、蛇が、老朽の古い皮を脱ぎ捨てるように。


此岸と彼岸をともに捨てれば、
無住処涅槃ということかな。

此岸と彼岸は、
中村先生訳のように
「この世とかの世とをともに捨てる」と
訳すのもあるかもしれないが、
たぶん、
わたしの中では、それはない。

この世とかの世を捨てたら、
どこに行ったらよいのだろうか。
涅槃に行ったらよいだろう、って言うかもしれないが、

やはり、涅槃は「ここ(生死)」にある、というのが、意味があるのじゃないだろか。


この娑婆の世界で、分析された諸々の思索を
ことごとく破壊したい。。夢だが、ほそくなが~くもちつづけよ。
ヘビなんだし。

そうじゃ、そうじゃ、
そう蛇、そう蛇のぉ~、そう、蛇の道

脱皮するのが、蛇の道

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台風の影響か、イチョウもずいぶん葉を落としてる。

脱‘葉’するのが、いちょーの道

脱‘心’するのが、何の道だろか?
とりあえず、その道を行きたい

秋だから。


だんだん、わけがわからんようになってくるな。
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わからんついでに、こんな写真もあげておこ。


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2017/10/15

『空海に学ぶ仏教入門』をご紹介

Photo

吉村 均先生の『空海に学ぶ仏教入門』(ちくま新書)

この書を、ご紹介しましょう。

力のこもった一冊です。


正直に言うと、

新書のわりには、むずかしいです。
すぐに読めるかと思って、
読み始めましたが、

導入部分は、非常に読みやすいものの、

さすが 空海! むずかしい!

途中から難儀をしはじめ、読むスピードがどんどん遅くなる
がんばって、
真ん中くらいの「 第七 覚心不生心 ― 中観の心 」の章をすぎると

また、スムーズに読み進むことができました。


これは、自分の理解能力とも関係があるのかもしれません。

それぞれの人が、それぞれ
スラスラ読める部分と
難儀しながら読み進む部分をもつだろうな
と、思わせられます。

それだけ、広い仏法の領域を押さえているからだろうと思います。


        ■■■


著者の執筆の意図としては

空海の教えを通して、密教に至るまでの仏教を
現代に蘇らせようとしている

と、わたしは読みました。

いわゆる、明治以降の現代的な批判的解釈による仏教理解ではなく、
現代人が生きていく指針となるような、伝統的な仏教理解を、

古くて新しい教えとして、蘇らせようとしているように見えます。


熱いなあ!
篤いなあ!


仏教の全体にわたる、広すぎる視野
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まんだら、まんだら、曼荼羅模様

場所は 
インド、中国、日本、チベット、東南アジア、
おまけに、ヨーロッパ、アメリカに至るまで

時代は 
釈尊、部派(テーラワーダ)、大乗、密教
おまけに現代に至るまで

心は 
地獄から凡夫、声聞、独覚、菩薩、仏
おまけに色界・無色界の心まで

教えは
阿含経典、華厳経、法華経、大日経、金剛頂経
おまけに 般若心経に至るまで

身体は
法身、報身、変化身
おまけに。。おまけに。。おまけは、もうない

そして、最後に

体験は
空一つ
Dsc02299s


空は、どうやら、(瞑想の)体験として
とらえられているように思われます。

瞑想中と瞑想後 は、仏教の二諦(勝義諦と世俗諦)に対応していて、
仏陀の境地になると、瞑想中も瞑想後も、(体験に)まったく差はなくなる

ということが、説かれます(p.200)
>Dsc02362s


ですから、仏教の説明としては、

凡夫は、「実体視にとらわれる」(p.63)とくりかえし説明され、
聖者は、「実体としては映らなくなる」(p.200)といわれます。
ここに、「空」のわかりにくさが、あるような気がします。

瞑想体験などのない人には、
わかりにくく感じるのではないか、
と、ちょっと思いました。

Dsc02364s

しかし

伝統的な理解の立場と、著者も語っているのですから、
ここはいたしかたのないところかもしれません。


         ■■■


とはいえ、密教の核心に入っていきますと、
凡夫には敷居の高い世界であることが、
やっぱり
明らかになってきます。

空海の『秘蔵宝鑰』『十住心』にもとづいて見るならば、

公開ではない、秘密の教え(九顕一密、九顕十密)
とされるのです(pp.188-190)。

したがって

灌頂の儀式によって師と縁を結んで
密教の修行を行わなければならない

ということも強調されています(pp.187-188)。

現在でも、真言宗では(三摩地の法については)
灌頂を受けずに解説を聞くことはできないようです(p.197)。


うーん、やっぱりハードル高いぞ、厳しいぞ。


この高いハードルをやや下げるために
ここからは、わたしの勝手な解釈です。


形式としての灌頂という儀式のみにとらわれず
経典を通して、シンボリックに灌頂をとらえ、
また、仏陀を師として縁を結ぶことも可能であるように思います。

こう解釈すると、密教の伝統的な世界からは
はずれてきますね。おこられそう。

それはともあれ、

密教の世界が、ここでまた、多くの人に親しまれてくるなら、
この書は、仏教界にとって大きな一歩となりそうです。


紫の菊も あじわう秘密の蜜
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はるけくも 秘密の教えに いたりけり

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2017/09/13

『十二門論』について

大きなスイカだこと。
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さぞかし食べ応えがありそう。


でも、今時、なぜスイカ?
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と、思ったら、
これでもスイカ?

我が家で取れたスイカです。
割ってみると
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でも、小さくても、ちゃんとスイカですね。


     ◇◇◇


世の中、こんなもんですね。

■「瓜の蔓になすびはならぬ」というのは、ある。

それだから、

「油を採るのに、胡麻をしぼるが、
砂をしぼることはない」

といわれる。
どんなに小さくても、スイカはスイカ。

だけど、スイカだ!と胸を張っていうには
ちょっと寂しいスイカだ。

■「鳶が鷹を生む」というケースだって、ある。

うちでも、キュウリの苗を買って植えたら
カボチャがなった。

カボチャにキュウリを接ぎ木した分らしい
って、わかったのだけど

こんなこともある。

☆☆☆
因中有果論 (原因の中に結果はすでに入っている)
因中無果論 (原因の中に結果は入っていない)
☆☆☆

これら二つの論は、『十二門論』に出てきて、
さかんに議論されています。

こういう議論を、「一切法空」で簡単にくくって済ませてしまうと、
大きく混乱してくるのじゃないかと思う。

「一切法空」なんでしょ、わかってるよ、そんなこと。
って、考えていると、

落とし穴が待ち受けている。


       ◇◇◇


今回、『十二門論』の「同疑因」について検討してみて、
そう思いました。

論文をリンクしておきましょう。
『十二門論』における論法の用語をめぐって

ただ、いろいろ議論を好みで切り接ぎしたのではなくて、
実際に起こった議論をもとに編集している。

似たような言い方だけど、違う。
どこが違う?

論理というものを、意識しているか、いないかが違う。


自分の好みや自分の主張に合わせて
編集しているのではない。

もちろん、相手の好みに合わせているわけでもない。

しかし
相手の主張に添うようにしながら、自分の説くところを
打ち出すようにはしている。
でも
自分の見解を打ち出すために、都合良く編集しているのでもない。
論理の一貫性を確保しながら

相手の論でもなく、自分の説明でもないところで、
納得できるところを出そうとしている。

中道が光る書だ。

縁起が、ただの因果ではないことが
しっかりと浮かんで来る。
これが「空」

空を語りながら、たしかな順序がある。
これが「縁起」


縁起、中道、空の、新しい展開がある。


       ◇◇◇


『十二門論』を読んでわかったことは、

もし、本当に、龍樹の『中論頌』を解明したいなら、

龍樹作品といわれてきたものを、
それをそのまま言われたとおりに
読んで解明していくことだ

と気づきました。

おそらく、それ以外に

‘龍樹’の『中論頌』を解明する道はないのだろう。


要するに


どれだけ、自分がブッダ論理についていけるか、
それが勝負になるだけだと思う。

自己の探究なんだなあ、ブッダ論理は。

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色づき始めたナナカマド。

色づき始めた 龍樹『中論頌』  。。

だったらいいなっ。


     


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