2017/10/28

蛇品第7偈を心にひめて

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紅葉が、高揚してる。

今日は、わたしも、意識が高揚、いや、紅葉。

「スッタニパータ」第1章蛇品第7偈

♦ 7. Yassa vitakkā vidhūpitā
ajjhattaṃ suvikappitā asesā,
so bhikkhu jahāti orapāraṃ
urago jiṇṇam iva tacaṃ, purāṇaṃ.

心の内でよく分析された諸々の思索がことごとく破壊された比丘は、
こちらの岸とあちらの岸をともに捨てる。
あたかも、蛇が、老朽の古い皮を脱ぎ捨てるように。


此岸と彼岸をともに捨てれば、
無住処涅槃ということかな。

此岸と彼岸は、
中村先生訳のように
「この世とかの世とをともに捨てる」と
訳すのもあるかもしれないが、
たぶん、
わたしの中では、それはない。

この世とかの世を捨てたら、
どこに行ったらよいのだろうか。
涅槃に行ったらよいだろう、って言うかもしれないが、

やはり、涅槃は「ここ(生死)」にある、というのが、意味があるのじゃないだろか。


この娑婆の世界で、分析された諸々の思索を
ことごとく破壊したい。。夢だが、ほそくなが~くもちつづけよ。
ヘビなんだし。

そうじゃ、そうじゃ、
そう蛇、そう蛇のぉ~、そう、蛇の道

脱皮するのが、蛇の道

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台風の影響か、イチョウもずいぶん葉を落としてる。

脱‘葉’するのが、いちょーの道

脱‘心’するのが、何の道だろか?
とりあえず、その道を行きたい

秋だから。


だんだん、わけがわからんようになってくるな。
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わからんついでに、こんな写真もあげておこ。


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2017/10/15

『空海に学ぶ仏教入門』をご紹介

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吉村 均先生の『空海に学ぶ仏教入門』(ちくま新書)

この書を、ご紹介しましょう。

力のこもった一冊です。


正直に言うと、

新書のわりには、むずかしいです。
すぐに読めるかと思って、
読み始めましたが、

導入部分は、非常に読みやすいものの、

さすが 空海! むずかしい!

途中から難儀をしはじめ、読むスピードがどんどん遅くなる
がんばって、
真ん中くらいの「 第七 覚心不生心 ― 中観の心 」の章をすぎると

また、スムーズに読み進むことができました。


これは、自分の理解能力とも関係があるのかもしれません。

それぞれの人が、それぞれ
スラスラ読める部分と
難儀しながら読み進む部分をもつだろうな
と、思わせられます。

それだけ、広い仏法の領域を押さえているからだろうと思います。


        ■■■


著者の執筆の意図としては

空海の教えを通して、密教に至るまでの仏教を
現代に蘇らせようとしている

と、わたしは読みました。

いわゆる、明治以降の現代的な批判的解釈による仏教理解ではなく、
現代人が生きていく指針となるような、伝統的な仏教理解を、

古くて新しい教えとして、蘇らせようとしているように見えます。


熱いなあ!
篤いなあ!


仏教の全体にわたる、広すぎる視野
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まんだら、まんだら、曼荼羅模様

場所は 
インド、中国、日本、チベット、東南アジア、
おまけに、ヨーロッパ、アメリカに至るまで

時代は 
釈尊、部派(テーラワーダ)、大乗、密教
おまけに現代に至るまで

心は 
地獄から凡夫、声聞、独覚、菩薩、仏
おまけに色界・無色界の心まで

教えは
阿含経典、華厳経、法華経、大日経、金剛頂経
おまけに 般若心経に至るまで

身体は
法身、報身、変化身
おまけに。。おまけに。。おまけは、もうない

そして、最後に

体験は
空一つ
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空は、どうやら、(瞑想の)体験として
とらえられているように思われます。

瞑想中と瞑想後 は、仏教の二諦(勝義諦と世俗諦)に対応していて、
仏陀の境地になると、瞑想中も瞑想後も、(体験に)まったく差はなくなる

ということが、説かれます(p.200)
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ですから、仏教の説明としては、

凡夫は、「実体視にとらわれる」(p.63)とくりかえし説明され、
聖者は、「実体としては映らなくなる」(p.200)といわれます。
ここに、「空」のわかりにくさが、あるような気がします。

瞑想体験などのない人には、
わかりにくく感じるのではないか、
と、ちょっと思いました。

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しかし

伝統的な理解の立場と、著者も語っているのですから、
ここはいたしかたのないところかもしれません。


         ■■■


とはいえ、密教の核心に入っていきますと、
凡夫には敷居の高い世界であることが、
やっぱり
明らかになってきます。

空海の『秘蔵宝鑰』『十住心』にもとづいて見るならば、

公開ではない、秘密の教え(九顕一密、九顕十密)
とされるのです(pp.188-190)。

したがって

灌頂の儀式によって師と縁を結んで
密教の修行を行わなければならない

ということも強調されています(pp.187-188)。

現在でも、真言宗では(三摩地の法については)
灌頂を受けずに解説を聞くことはできないようです(p.197)。


うーん、やっぱりハードル高いぞ、厳しいぞ。


この高いハードルをやや下げるために
ここからは、わたしの勝手な解釈です。


形式としての灌頂という儀式のみにとらわれず
経典を通して、シンボリックに灌頂をとらえ、
また、仏陀を師として縁を結ぶことも可能であるように思います。

こう解釈すると、密教の伝統的な世界からは
はずれてきますね。おこられそう。

それはともあれ、

密教の世界が、ここでまた、多くの人に親しまれてくるなら、
この書は、仏教界にとって大きな一歩となりそうです。


紫の菊も あじわう秘密の蜜
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はるけくも 秘密の教えに いたりけり

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2017/09/13

『十二門論』について

大きなスイカだこと。
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さぞかし食べ応えがありそう。


でも、今時、なぜスイカ?
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と、思ったら、
これでもスイカ?

我が家で取れたスイカです。
割ってみると
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でも、小さくても、ちゃんとスイカですね。


     ◇◇◇


世の中、こんなもんですね。

■「瓜の蔓になすびはならぬ」というのは、ある。

それだから、

「油を採るのに、胡麻をしぼるが、
砂をしぼることはない」

といわれる。
どんなに小さくても、スイカはスイカ。

だけど、スイカだ!と胸を張っていうには
ちょっと寂しいスイカだ。

■「鳶が鷹を生む」というケースだって、ある。

うちでも、キュウリの苗を買って植えたら
カボチャがなった。

カボチャにキュウリを接ぎ木した分らしい
って、わかったのだけど

こんなこともある。

☆☆☆
因中有果論 (原因の中に結果はすでに入っている)
因中無果論 (原因の中に結果は入っていない)
☆☆☆

これら二つの論は、『十二門論』に出てきて、
さかんに議論されています。

こういう議論を、「一切法空」で簡単にくくって済ませてしまうと、
大きく混乱してくるのじゃないかと思う。

「一切法空」なんでしょ、わかってるよ、そんなこと。
って、考えていると、

落とし穴が待ち受けている。


       ◇◇◇


今回、『十二門論』の「同疑因」について検討してみて、
そう思いました。

論文をリンクしておきましょう。
『十二門論』における論法の用語をめぐって

ただ、いろいろ議論を好みで切り接ぎしたのではなくて、
実際に起こった議論をもとに編集している。

似たような言い方だけど、違う。
どこが違う?

論理というものを、意識しているか、いないかが違う。


自分の好みや自分の主張に合わせて
編集しているのではない。

もちろん、相手の好みに合わせているわけでもない。

しかし
相手の主張に添うようにしながら、自分の説くところを
打ち出すようにはしている。
でも
自分の見解を打ち出すために、都合良く編集しているのでもない。
論理の一貫性を確保しながら

相手の論でもなく、自分の説明でもないところで、
納得できるところを出そうとしている。

中道が光る書だ。

縁起が、ただの因果ではないことが
しっかりと浮かんで来る。
これが「空」

空を語りながら、たしかな順序がある。
これが「縁起」


縁起、中道、空の、新しい展開がある。


       ◇◇◇


『十二門論』を読んでわかったことは、

もし、本当に、龍樹の『中論頌』を解明したいなら、

龍樹作品といわれてきたものを、
それをそのまま言われたとおりに
読んで解明していくことだ

と気づきました。

おそらく、それ以外に

‘龍樹’の『中論頌』を解明する道はないのだろう。


要するに


どれだけ、自分がブッダ論理についていけるか、
それが勝負になるだけだと思う。

自己の探究なんだなあ、ブッダ論理は。

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色づき始めたナナカマド。

色づき始めた 龍樹『中論頌』  。。

だったらいいなっ。


     


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2017/08/14

『十二門論』と『中論』と『廻諍論』

あっという間に、お盆です。
今日も一日、のんきなダンくん、
大好きな新聞のベッドでのんびりお昼寝。
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ん、なにか?

いや、なんでもないす。

新聞束ねて、廃品回収に出したい。。。

ああ、あきらめます。お休みください。
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そのとおりダン!よろしい!

などと、戯れる余裕も出てきた今日この頃。
ここ数日、5月頃に予定していた

『十二門論』と『中論』の間柄を調べるために
文献調査を開始しています。

時間が、飛ぶように過ぎて、
日記を書く度に、グチっていましたが、
今回はグチりません。

ごきげんです。

なぜなら、すでに五月頃の予定なのに、
時の移るのが早すぎて、
昨日のことのよう。

『十二門論』を読んでも、昨日読んでた気分で読めます。
悪いことだけじゃないっすね  wink

      ◇◇◇

『十二門論』が龍樹作ではないだろうという疑義を提出しているのは、

安井広済氏の
 「十二門論は果たして龍樹の著作か
   ―十二門論「観性門」の偈頌を中心として― 」

という論文です。

前々から、若干疑問を感じつつも、
自分ではなかなか研究できずに
そのままでした。

今回、腰を据えて、言われたことを検討してみようと
思い立ち、それを実行しています。

『十二門論』には、空に至るために十二の門が開かれています。

その第八番目に、「観性門」という章があります。


そこには、ただ一つ、
おそらく『中論』13-3ではなかろうかという偈頌が
引用されているのです。

その偈頌をめぐっての問題提起です。

安井氏の語るところは、こうです。
簡潔に要点をまとめますと


『十二門論』「観性門」の偈頌は、

青目、安慧の読みでは
<龍樹の主張する偈頌>と読めるが

月称、「無畏註」、仏護、清弁は
<反対論者の主張する偈頌>と読んでいる


「観性門」の偈頌が、『中論』13-3であるとすれば、
青目・安慧と
月称・仏護・清弁と
まったく解釈を違えているのも、混乱が甚だしい。

十二門論が確実に龍樹の著作として存在し、
観性門の偈頌が龍樹の説として権威があったのであれば
このような甚だしい混乱は起こらないはずである。


このように考える時
『十二門論』の伝承の不確かさを思わざるをえない。

     ◇◇◇

わたしには、安井氏の主張は、モヤモヤとして
あまり説得力があるようにみえません。

要点だけを抜き出すと、
憶測の上に憶測が重ねられている様が
よりはっきりするように思います。

混乱の原因をただ十二門論に負わせているだけのように見えるのです。

つまり

どうして、注釈家の意見が異なっていてはいけないのでしょうか?
二つの解釈が成り立っていて、両方ともにおかしくなければ、
それでよいのだ、
と、なぜならないのでしょう?

それより、何より、もっと大きな疑問があります。


わたしの疑問は以下のとおりです。

「観性門」の偈頌と同じとされる『中論』13-3それ自体は、
どのように解釈されるべきなのでしょうか?

もし、【青目・安慧】と【月称・仏護ら】との二つの解釈を許すのであれば、
『中論』13-3には何が説かれているのでしょうか?

それから、
『十二門論』「観性門」には、何がどのように説かれているのでしょうか?


こうなってくると、もっとはっきりさせたいものが出てきますよね。


そもそも、『中論』には何が説かれているのでしょう。
そもそも、『十二門論』には何が説かれているのでしょう。

この問題に答えずに、なぜ、著者問題だけが浮上するのでしょう???

       ◇◇◇

何だか、「龍樹」 という名前に、踊らされているのでは、
という気がしてきます。

説かれたものが、一貫した内容であれば、

『中論』から『十二門論』にも行くでしょう。

『十二門論』から『中論』への理解もあるでしょう。


「空性」というのが、自性を欠いているのだ、ということであれば、
ブッダや龍樹は、その自性を欠いたものを、

いったいぜんたい

どうやって、この世に示そうとしたのでしょうか?


キーワードは、二つ

★★ 自性を欠いている( ニフスヴァバーヴァ )  ★★

☆☆ 無自性( アスヴァバーヴァ ) ☆☆


これらのことばは、どう違う? どう同じ?


さあさあ、謎は深まるばかりですね。
おもしろくなってきました。。


      ◇◇◇


あと、
『十二門論』での問題点は、

1) 鳩摩羅什の訳であること
2) 論法の用語がたまにちらっと出てくること 

です。

いろんなことが見え始めてきました。

あと、
日記のタイトルにあるように

3)『廻諍論』が、この「観性門」にも関わってくる

ような気がします。


それと、ちらっと見たところ
安慧の注釈は、もっとよく精査する必要があるような気がするな。

青目と同じ視点なのか、ちゃんと調べなくちゃ
何とも言えないような気がしてきます。

安井氏は、月称、「無畏註」、清弁、仏護の解釈は、
あげているのに、
安慧はあげていません。


        ◇◇◇


龍樹だからこそ、
権威によらず
内容によって
理解すべきだ、という気がしてなりません。


何とか、夏休み中に、論文にまとめて、
サイトにアップしたいです。

都会で見つけたバッタ
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ビルの階段のふち
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夏の思い出 

『十二門論』を、精査して、夏休みの宿題を仕上げよう、っと。
がんばるぞ!  


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2017/07/30

心安らぐ忙しさ、忙中閑に、空の考察

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庭のラベンダーが、花盛り。

ようやく休みになったような。
本当は、まだ二つ講義と試験監督、それに膨大な採点がありますが、
気分は、休暇モードに入って、
現実には、母の介護と家事労働へとシフトしました。

忙しくても、許せる忙しさで、
心がまるきり涅槃寂滅モード。。

ひさしぶりに新聞も読めます。
インターネットのニュースも目次だけでなく
中身をクリックできるようになりました。


新聞読んでいたら、
稲田防衛大臣の辞任のニュースが報じられて、
最後に一言心境を聞かれて

「空ですね」
という意味深な言葉を残して去っていった

と書いてありました。


ああ、びっくりした!
こんなところに、「空」が!


記事を書いた新聞記者の人には、
意味深な言葉に見えたんですね。

仏教用語としての「空(くう)」も有名になったのかな。

     ◇◇◇

「空」という用語は、どんなに意味深に見えても

「からっぽ」

という意味以外のものは見あたりません。


それなのに、なぜ 意味深に見えるのでしょうか。


それは、「空」は、仏教的には実践の言葉でもあるからです。

そもそも、論理というのは、言葉と行いとの関係において
見いだされるものです。

言葉と言葉の関係に還元することも不可能ではないかもしれませんが、
わかりやすく、意味あるものとなるのは、実践とのかかわりです。

稲田元大臣の行いをもとに、その言葉の意味を考えてみると、

本当に、わたしは何をやっていたのだろう。
他人の言いなりになってやって来たけれど
すべてが虚しくすぎて、自分には何も残っていない

からっぽだなあ

っていう意味に取ると、
よくその心境を表しているのかもしれません。
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       ◇◇◇


でも、仏教的には、
「空」は、心境を表すために最後に語ることばではなく、
実践の方法論を支える原理として用いると「意味深い」言葉なのです。


あらゆることは空である、と見るからこそ、
自分は、どういう行動をとらねばならないかが出てきます。

実践しおわって出てくる言葉ではなく
実践するための基本方針を支える言葉なのです。


空であるからこそ
他に依らず自己によって行動することができ、
世間や他者にまどわされず
自己の信念をも貫ける、ということにもなるのです。

なぜ、そうできるのか?

「自己」ということばに、さらに空を適用し、

自己に関して空(からっぽ)である

と、見るからです。

すなわち、 「自己に関して空」 であれば、
 「自己ならざるもの(無我)」 であると、
あらゆることを見ていくことになり、
そのため、自己を捨てて行動できるようになるので、
衆生の苦しみを抜く利他の行為へと
つなげていくことができるのです。

「自己」という言葉を用いていても、
行いにおいては、その人の「自己」はからっぽで、
どこにも見あたらず、ただ他を利する叡智が光るだけなのです。

そのための実践の理念が、「空」なのです。


     ◇◇◇


「空」という言葉は、そんなに難しい言葉ではありません。

でも、

その「からっぽ」という意味を、どのように現実に応用していくのか


そこに、智慧が必要になって来るので、

難しく感じるのです。


まあ、やっぱり、仏教は難しいかなぁ。

  実践の原理は、「空」か。。 自分で言って自分で噛みしめる

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2017/07/15

仏教の行いは中道なり、ってか

すっかり記憶が飛んでいますが、いつのまにか7月。
写真もないのですが、一番最近のものを。
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5月の頃には、龍樹のことを考えるゆとりがあったけど、
その後は、もう、何も考えずに、
ここまで来てしまいました。

どうして年々忙しくなるのだろう。

同じ一科目でも、確実に手間が増えている。
教えることは、
少なくなってくるのに、
手間だけは、何倍にもなって
すごく時間を食うようになってきました。

たぶん、学校のスタイルが変わって、
知識を授ける、というのではなしに
教育を施す、という方に変わったからだろう。

半年の講義も終わりに近づいているけど、
気分としては、
いつも、一歩進んで、二歩さがる、みたいな講義です。

やればやるほど
はっきり言って、さがっていく。

後退していく講義
やっぱり
前進したいわたし

葛藤がある

で、いいや、まあ、仕方ないかな
って思ってます。
その理由は以下の通りです。


      ◇◇◇


最近気づいたことがあります。


“八正道” です。


生きる上の基本の考え方になる
と気づいたのです。


ブッダが弟子たちに示した修行の方法は、

八正道でした。

そして、かれは、

八正道というのは、


中道だ、


と述べたのです。

その通りなのだ。
「中道」 
二者のうち、いずれの極端にも寄らない道

これが中道です。

どんなことでも、そうなのだ。

見いだした両極端の中で
中道を取っていくと、
確実に、一本、道ができるのです。

ゆらぐことはない不動の道で
易行道
なのです。

そこを行けばいいのだ!

ま、だから、講義も同じで、
教師の力と学生の力の中道なのでしょう。
きれいな中道が得られないので
葛藤が起こるのかもね。。

修行がたらんな

     ◇◇◇


さて、さて、中道で、もう少し。

親鸞聖人は、非僧非俗という中道を見つけました。
また、自力と他力の中道も見いだしました。

定散自力の称名は
果遂ちかひに帰してこそ
おしえざれども自然に
真如の門に転入する
(『浄土和讃』)

定心や散心で、自力によって称名を唱えていても
第二十願によって、阿弥陀仏の「果遂の誓い」に至るので、
おのずと阿弥陀仏の他力へと転入していく

「果遂の誓い」とは、

第二十願にあるように、
衆生が、自力の努力をもって、
徳の本を植えて一心に廻向しながら、浄土に生まれようと願う、
その願いが達成されなければ、正覚を取らない、
という弥陀の誓いのことです。

自力でいろいろ称名を唱えてがんばる衆生であっても、
救います、という弥陀の誓いが、効いて、
自然と、衆生は真如の門に入っていって、救われるのです。


自分と阿弥陀仏とのコラボレーション

もはや自分の力でもなく、
阿弥陀仏の直接の力でもない(=他力の廻向)、
そんなところに到達しますね。


「中道」


これがなければ、仏教ではない!

といっても、いいのでしょうね。

「他力本願」というだけでも、
きっと「中道」の要素が入っています。
なぜなら、誓願は、控え目な「否定形」の因果だからです。

~しないならば、決して、わたしは正覚を取らない

という形で説かれる、奥ゆかしい「縁起」が
阿弥陀仏の本願他力と呼ばれているのです。

阿弥陀仏が、積極的に衆生に関わろうとするのではない

衆生のはたらきかけもあってはじめて阿弥陀仏は姿を見せてくれるのです。


だけど、また、衆生の側からしても、


絶対的な神の世界を持つ人とは、
どこか違うのです。
「神に祈る」という行いとは、やっぱり、違うのです。
ストレートに祈りが神に通じることを願う、
それが「祈り」ということでもありましょう。

念仏は、「祈り」ではない、「信の自己表明」でもない、

やっぱり「中道」

だから

なんでもない、念仏は念仏、
だから、念仏するのです。


こうなると、仏教だなあ、って気がしてきますね。

まあ、こんなことを考えているんだけど、
うまくまとまらないですね。
そのうち、もう少し、すっきりしてくるだろうと、思っているところ。

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春に咲いたうちのチューリップ。

咲き始めは、ただの黄色で、だんだん上から赤い色が降りてきて
すっかり赤くなっていく不思議なチューリップ

自力の黄色が
だんだん
他力の赤に染められて、極楽浄土に向かいます。

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2017/05/25

五月雨と五月晴れと羅什と龍樹そしてわたしと

タイトルが長すぎるなぁ  

タイトルも、五月雨式かな。
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曇った空に、桜のなごり

悲しい日々は、羅什の毎日。
五月雨の毎日。

     ◇◇◇

漢訳は「旧訳」と「新訳」の区別がある。

「旧訳(くやく)」の中の代表者、

漢訳上の名訳者として名高いのが、鳩摩羅什である。


羅什。。。なんて、かわいそうな人なんだろう。

誤解されまくっているように思えてならない気がする。


鳩摩羅什の漢訳事情について、語っているのは、

★ 印順氏・述意、昭慧氏・整理、岩城英則氏・翻訳
 『『大智度論』の作者とその翻訳』(正観出版社、1993年)
(pp.3-7,pp.31-33)

★ 船山徹氏 『仏典はどう漢訳されたのか』(岩波書店、2013年)
(pp.96-102)

などである。

これらの中で、羅什について説かれているのは、

かれは、「達意の意訳」を行って、
中国人にわかりやすい表現を心掛けた、ということだ。

その理由は、中国の人々は簡略を好むこと、である。

また、

羅什が、弟子の僧叡にいつも語っていることとして

「梵文を中国語に置き換えると、その美しい文藻が失われ、
大意はつかめてもまったく文体に齟齬が生じる。
まるでご飯をかんで人に与えると、
味が失われるだけではなしに嘔吐を催させるようなものだ。」
(船山、p.97)

という内容であった、と解説されている。

船山氏も、韻文の訳を念頭においた発言だとしているが、そうであろう。


つまり、羅什が言いたいのは
「こういうわけで、わたしは、中国人の好む通りに訳しているのだ」
ということであったのだろう。


しかし、羅什よ、憂愁の人よ、
どうして、そんなことを言ったのだろう。

        ◇◇◇

印順氏は、また、微妙に異なる解釈をしているように見える。

「たとえば、早い時期に訳された『百論』は、
翻訳が悪かったために、弘始六年に改めて翻訳された。
『大品般若経』は、すでに訳されていたが,
『智論』の翻訳時には、経文に対して、
その時々に応じて修正が加えられた。
これらのことは、僧叡等、多くの義学沙門の目には、
羅什の「秦語」は
あまり期待に沿うものではなかったことを証明している。」
(印順、p.6)

中国人である僧叡らにとっては、
外国人の鳩摩羅什の「秦語」には問題を多く感じていたが、
しかし、勝手に書き換えたりすることもできぬまま、
訳者の話した通りに訳文を書くしかなかった、
という説明を、
印順氏はしている。

一度訳したものを、もう一度訳したりしたのは、意味が通らなかったためであろう。
「秦語」の問題なのか???

って、気もしてくるはずなのだけど、

鳩摩羅什の大乗学の知識や仏法の知識は、
大きく疑われることはなかった。

疑問に思ったところで、どうしようもなかったことであろう。


      ◇◇◇


本当のところ、何がどうなっていたのであろう。

羅什には、おそらくは、うすうすわかっていたことだろう。


梵文の美しさを保たせるために、
あえて、達意の意訳をしなければならなかったのだ、
といわんばかりの説明は、
それは、いくら何でも納得できない。

また、「秦語」に問題があったから、羅什が訳せなかったのでもない。
僧叡等のいらだちも、羅什だけの欠点とは言えない。


羅什は、国家プロジェクトとして行われていた翻訳場で、
板挟みのようになっていたのではなかろうか。

鳩摩羅什には、決定的に、不足しているものがあったのだ。

それは、龍樹論法 だと思う。


だから、訳せなかったのである!

で、結果的に


どうして、そういうことになったかわからないが、
『中論』では、偈頌に手を入れ、書き換えた。。。


『中論』で、それをやるのは、いくら何でも乱暴だと思う。


言い換えると、場合によっては、「改ざん」ということになる。

羅什が、泣く泣く行ったのか
僧叡らが、意味を取ろうと必死になって羅什にせまったのか、
よくわからない。


青目釈の『中論』第四章の第八偈と第九偈は、
羅什自身が、その偈の内容を大きく変えている、と思う。

青目の注釈にも手を入れているかどうか、そこはよくわからないが、
手を入れている可能性はある、と思う。

青目が、羅什の訳の通りに注釈していたとは、
ちょっと考えられない。
それには、知識がありすぎる。

だから、問題なのは、

翻訳の難しさを、
梵文と中国語の言語の違いのせいにしてしまった、ことである。
あるいは、
簡潔を好む中国の人たちのせいにしてしまった、ことである。

そうではない!
羅什が、龍樹の論法をまったく知らなかったことが、
翻訳を不可能にしていた理由なのである。


         ◇◇◇


『方便心論』は、羅什がなくなった後何十年も経ってから、
吉迦夜・曇曜によって訳された。

その時、おそらく吉迦夜は、羅什の不備に気づいたのではないかと思う。
『方便心論』の訳も、羅什訳の作品を補うためかもしれない。
さらにまだ他にも、
羅什の欠陥を埋めるような、
その不備を補えるような、作品もいくつか訳している。

『雑宝蔵経』
『付法蔵因縁伝』

毛色の異なるこれらの作品は、『方便心論』と合わせて読むと、
鳩摩羅什が知らない多くの情報を与えてくれるのである。

吉迦夜は、おそらく、
羅什が論法にまったく疎いため、
内容を理解できず、何とか自分なりにつじつまを合わせようとして、
多くの改ざんを行って、内容を変えてしまったことを
知っていたのではないか、
と、想像する。

『十二門論』
『中論』
『大智度論』

これらは、論法に関してどのようなことが読みとれるか

検討しなくてはならない。

そこから、おそらく、羅什の理解を引き出して、

さらに、

そこから論理的に読みとれる青目の本来の注釈
そこから論理的に読みとれる龍樹の本来の議論

こういったものを、見つけていこうと思っている。


あと、羅什は『百論』も訳しているので、
こちらの検討も必要になってくるだろう。

『大智度論』については、
羅什が著したのではないか、などという説まで表れているのである。

さすがにそれはないと思って、
論文を出しておいたが

「『大智度論』と『百論』の関係」

この論文とも連携を取って、
羅什が行ったことを
明らかにして

そして

龍樹の著作本来のものを
明らかにしていきたい

って、思っている。

五月晴れをめざそう。
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翻訳の牢獄にとらわれた、悲しみの人鳩摩羅什、
かれを解放しよう。

いつもびくびく、自分の無知がバレないかとおびえていたのではないか
という気がしてくる。

大丈夫、晴れは晴れでも、五月晴れといきましょう。
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バレても平気な、五月晴れ だもん、ね。


論法は、他学派との対話を記したものだから、
仏法の広がりを知りたいなら

どうしても、論法をおろそかにはできない。

近々、論文に書きます。
そして、このサイトにアップします。


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2017/05/03

さくら と 電子本

4月は、あっという間だった。

4月の上旬は、白樺が寒そうにしていた。
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残雪に、犬を連れて散歩する人のピンクがあざやか。
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4月下旬、まだ寒い。
サムは、こんな小さいスチームの上で暖をとる。。きついよ!
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落ちたっ!
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で、5月、かくじつに春はやってくる。
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こぶし!


ついに出ました!!
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やっぱり、さくら、さくら
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        ◇◇◇


キンドルというのを買ってみました。

Kindle Paperwhite Wi-Fi  16280円

高かった。。っす
WI-Fi ルーターも、買う羽目になり。。いたい!
9790円

しかも、読みたい本が、自分の本。
これも、買いました。
『『スッタニパータ』と大乗への道』 1017円
『空の発見』 1139円

紙の本より安いけど、買うとなるとね。
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でも、たしかに読みやすいです。

ちがった味わいですね。
まるで、始めて読む本のような感じです。

『『スッタニパータ』と大乗への道』の「八偈品」は、
相当何度も読むだろうと思っていたので、

本とちがって、
ぼろぼろにならなくていいかもしれないけど、
画面がえぐれて、すり切れるんじゃないかと、
ちょっと心配。

パーリの原文が入っててよかった。

こんなことが書いてあるのか、と、すごく新鮮です。

サンガさん、ありがとう、電子化してくれて。

ついでに、中村先生の岩波文庫『ブッダのことば』も、
入れておこう。

なかなか便利だ。
今までのように、
本棚や机の山積みの中から
本をいちいち探さなくてもいいし、

本文中で、註のところを押すと、
該当の註が出てくるのも、ありがたい。
字の大きさも、変えられるしね。

PDFの論文も入れてみたけど、
こちらは、字が大きくならず、読みにくいです。
やっぱり、紙の方がいいですね。

困った点は、
慣れないせいか、
ちょっと触ると、勝手に画面が変わるので、
紛らわしいです。

でもでも、

高かったので、ぜったい使いこなすわ。
勉強するわよ、フガッ!

けちけち根性が、研究を推進させるとは!
こういう欲のあり方も、あるのねぇ~、まれに。


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2017/03/22

春に向かうべし、べしべし。

今さらですが、日記は毎日書くものです。
わはは!

間違ってシャッターを押してしまった写真です。
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本当は、これを撮るつもりだった ⇓
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雪の中から顔を出しているのが、ふきのとう

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壁にくっついているので、太陽の光をあびて育ちがいいわ。


          ◇◇◇


PLさまの書き込みに触発されて

岩波文庫で『大乗起心論』を読んでいます。

おもしろいっす。


以前にも読んだことがあったのですが、
ほとんどピンとこなかったのです。

簡単に言えば、、一つも、わからなかった
ってことだと思います。


今は、すごく興味深いです。


概説書には、およそ五-六世紀の作品と、書いてあるけど、
作者は、馬鳴(めみょう、アシュヴァゴーシャ)と記されています。

だから、馬鳴が書いたんだ、ということで、読んでみました。

馬鳴という人は、カニシカ王に仕えたと伝承にあるので、
およそ二世紀くらいの人と見ておきます。

龍樹と同時代か、それよりちょっと前の人、というくらいです。


そういうことで読んでみると、
「ふうん、なるほど!」
って、思います。

龍樹論法は、まだ知らないようですが、
でも、独自の視点をもっていて、
禅定の効いた、論を展開しています。

部派の教えの伝統もよく知っており
『ヨーガ・スートラ』などとの親近性も、ないわけではない。。

かれは、「空」をよく知っている。

もっとよくさぐってみよう。

ふきのとうで春を見つけたように
馬鳴で、仏法も見つかるかも。

春は、仏法の季節ですね。

まだ、日陰にはこんなに雪があるけれど、
そのうち、わたしの中にも、雪解けがやって来て
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仏法の季節が、

やってくるべしべし

やってくる、きっと

僕も負けずに、べんきょ だいっ!
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パズル、ぱずる、ずるっ。。


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2017/03/21

空(くう)の風景 どこが?

三月も終わりかけている今日この頃。
15日、16日と、東京に行ってきました。

羽田からモノレールに乗って、終点に来ると浜松町。

浜松町で降りたことはなかったのですが、はじめてここで降りて、

曹洞宗の「布教講習会」に参加してきました。


「空とは何か? ~釈尊から大乗へ~」


という題で、二日にわたり、思いっきり、
「空」を語ってきました。

東京のこの
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空のように、すっきりしましたよ。

「空」というのは、ほんとにいい!

語ってよし
聞いてよし
黙ってよし

講演 のあと、公園 にいきました。


増上寺(浄土宗)というお寺を散策。
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必ず、東京タワーも入れて写すところが
おのぼりさん。

おしゃれに、可愛いお地蔵さん。
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説明は、こちら
 ↓
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大納骨堂です。東京タワーも後ろで控え目に。
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周囲の風景がどんなに変わっても、

お参りする人々、
観光する人々、
暇つぶしをする人々、
休憩する人々の心は、

そんなに変わらないのです。


なんとなく、空(くう)の風景でしょうか。。

どこが?

おや、なんだろ、火が燃えてる。
ガラスのケースの中でちょろちょろ青い火が見えます。
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写真じゃ、わからないけど、平和の灯、だって

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ふうん、やっぱり、人の心は変わらない

誰もが、幸せを求める
誰もが、苦しみを厭う


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