2017/03/22

春に向かうべし、べしべし。

今さらですが、日記は毎日書くものです。
わはは!

間違ってシャッターを押してしまった写真です。
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本当は、これを撮るつもりだった ⇓
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雪の中から顔を出しているのが、ふきのとう

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壁にくっついているので、太陽の光をあびて育ちがいいわ。


          ◇◇◇


PLさまの書き込みに触発されて

岩波文庫で『大乗起心論』を読んでいます。

おもしろいっす。


以前にも読んだことがあったのですが、
ほとんどピンとこなかったのです。

簡単に言えば、、一つも、わからなかった
ってことだと思います。


今は、すごく興味深いです。


概説書には、およそ五-六世紀の作品と、書いてあるけど、
作者は、馬鳴(めみょう、アシュヴァゴーシャ)と記されています。

だから、馬鳴が書いたんだ、ということで、読んでみました。

馬鳴という人は、カニシカ王に仕えたと伝承にあるので、
およそ二世紀くらいの人と見ておきます。

龍樹と同時代か、それよりちょっと前の人、というくらいです。


そういうことで読んでみると、
「ふうん、なるほど!」
って、思います。

龍樹論法は、まだ知らないようですが、
でも、独自の視点をもっていて、
禅定の効いた、論を展開しています。

部派の教えの伝統もよく知っており
『ヨーガ・スートラ』などとの親近性も、ないわけではない。。

かれは、「空」をよく知っている。

もっとよくさぐってみよう。

ふきのとうで春を見つけたように
馬鳴で、仏法も見つかるかも。

春は、仏法の季節ですね。

まだ、日陰にはこんなに雪があるけれど、
そのうち、わたしの中にも、雪解けがやって来て
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仏法の季節が、

やってくるべしべし

やってくる、きっと

僕も負けずに、べんきょ だいっ!
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パズル、ぱずる、ずるっ。。


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2017/03/21

空(くう)の風景 どこが?

三月も終わりかけている今日この頃。
15日、16日と、東京に行ってきました。

羽田からモノレールに乗って、終点に来ると浜松町。

浜松町で降りたことはなかったのですが、はじめてここで降りて、

曹洞宗の「布教講習会」に参加してきました。


「空とは何か? ~釈尊から大乗へ~」


という題で、二日にわたり、思いっきり、
「空」を語ってきました。

東京のこの
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空のように、すっきりしましたよ。

「空」というのは、ほんとにいい!

語ってよし
聞いてよし
黙ってよし

講演 のあと、公園 にいきました。


増上寺(浄土宗)というお寺を散策。
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必ず、東京タワーも入れて写すところが
おのぼりさん。

おしゃれに、可愛いお地蔵さん。
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説明は、こちら
 ↓
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大納骨堂です。東京タワーも後ろで控え目に。
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周囲の風景がどんなに変わっても、

お参りする人々、
観光する人々、
暇つぶしをする人々、
休憩する人々の心は、

そんなに変わらないのです。


なんとなく、空(くう)の風景でしょうか。。

どこが?

おや、なんだろ、火が燃えてる。
ガラスのケースの中でちょろちょろ青い火が見えます。
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写真じゃ、わからないけど、平和の灯、だって

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ふうん、やっぱり、人の心は変わらない

誰もが、幸せを求める
誰もが、苦しみを厭う


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2017/02/26

空(から)の手で故郷に還る お話

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★のある木です。

★ 昨日、「コーカーリヤ経」(『スッタニパータ』)を、
朝日カルチャーセンターで読みました。

★ それより前に、カンニング騒ぎのあった試験の採点を、
やり終えました。

★ 看護学校で、善悪と因果について勉強しました。


最近の出来事三つ、それぞれ別々ですが、
みな、一つのことにつながっていくように、わたしには見えます。

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この空模様のように、全部入っているのに、
一つの空(そら)であるようなものかな。


★の三つに共通なのは、なんだろな?

      煩悩 かな

★1)コーカーリヤは、お釈迦さまに、
サーリプッタ尊者とモッガラーナ尊者の悪口を訴えて、
戒められても、意見を変えませんでした。

悪い心のまま、吹き出物ができて、亡くなり、
その後、紅蓮地獄に行きました。。うっ!


★2)試験の採点に不服な人が、
照会制度を通じて、不満を述べてきました。
丁寧に、ダメなところを教えてあげました。

。。で、丁寧に書いてあげたら、
答案全部の内容におよんでしまいました。。あちゃ~


★3) 「水滴がしたたるように、
善の結果も悪の結果も、積もっていきますか?」
と聞くと、
ほとんどの人は「そう思う」といいます。

頭ではそうだと思うけど、だけど、
ついつい。。わすれて。。しまう。。ふう!


 ★の三つに、等しいのは、

わかっちゃいるけど、止められない

 ということでしょうか。

なるほどぉ!!これかぁ、煩悩って。

        ◇◇◇ 


「止めなくちゃ」とわかっているのに、
止められない、止まらない


こういうのを、仏教では 「顛倒(てんどう)」
というんだね。

「矛盾」ということだよね。

自分の中で、矛盾してしまうので、
辛くなる、苦しくなる、いたたまれなくなる

ああ、、
語ることばは、逆になる

「止めたいと思います」と語っているのに、
心の中では、止められないと知っている。

たとえば、

サーリプッタとモッガラーナは、悪い欲にとらわれています
と、コーカーリヤは中傷して述べていたけど、
かれは、二人がそうでないことを
本当は、知っていた、ということだよね。

また、

「自業自得」って、ことばも知っているけど、
どうせ自分にはこないと、どこかで思ってる。
他人の行動を非難するとき、使うことばだもん、
って、軽く、思ってる。


なんで、こうなる、こうなるの?
すぐに、自分を棚にあげちゃう 悪い癖。


       ◇◇◇


なんて、意志が弱いの、ダメな子なの。

豆腐の角に頭ぶつけて死んじゃいたい。。

あ、この言い方、そもそも顛倒。
豆腐の角じゃ、死なないもんね。
わかってるから、言えるのよ。

死なないように、死に方考える。。うぅ、自己嫌悪


おしゃかさまあ、こんなおシャカなわたしを、

なんとかして~~~~

       ◇◇◇


よろしい、よろしい、

豆腐は、味噌汁に入れなさい
そして
死は、乗り越えて行きなさい

え、じゃ、角は?

角は、曲がりなさい

曲がれば、顛倒が、ひっくり返って
元に戻るから。

「死」には、ひっくり返して、「不死」がくる

死と不死は、同時に起こらない
同時に起これば、「矛盾」です

不死を求めるといいんだよ。。

え?不死? 不死って?

死なないの? それもイヤ、
死にたくないけど、死なないのも、やだ、やだ。
みんな死んでるのに、自分だけ死なないなんて、やだぁ


これこれ、なんて、わがまま なんだ!

しょうがないヤツだ、
それじゃ、これしか残ってない。。ごそごそ


これをあげるから、これを持って帰りなさい

空(から)の手だ。

空の手?? なにそれ? 孫の手じゃないの?


ちゃう!!(びしっ!)
死も持って帰らず、不死も持って帰らないんじゃ
空の手になっちゃうだろ。

空の手  って?

手の中には、何もない、空っぽ
ってことでもあるし、
空(そら)のような手で、無限に広がる
ってことでもあるし、
無所有(なにももたない)
ってことでもあるし、
自分をよりどころにしなさい
ってことでもあるし
法をよりどころにしなさい
ってことでもある

いつまでも凡夫凡夫してないで、
秘伝の法、空手を
大事にしていきなさい


ええ~っ?!


おしゃかさま、って、ずる~い、
ほんとに悟ってんの?!

秘伝の法、「空手」なんて、
えらそうにいってるけど、

結局、何もないじゃん、
もってけ、って言ったって、
空っぽなんでしょ、どうやって、もってくのよぉ~

アホじゃないの
矛盾してるぅぅ~


ほら、出たね。
おまえは、わたしをアホだという。
「矛盾」だという。

わたしは、空手をちゃんと得ているよ。
おまえとは全然違って、
だ~れにも文句言ってないよ、わたしは。
そうだろ?

人に文句ばかり言う
おまえこそ、「矛盾」を止めなさい。

全部、理屈はわかっただろう、
あとは、わたしのまねっこをして、

死と不死のどちらでもないところを、
めざすとよい


え?まねっこすると、そうなるんですか?


そうだ!
まねっこすると、そうなる
まねっこしないと、そうならない

まねっこしないと、今のままで、

ま のぬけた ねっこ にすぎない
まねっこしていると、やがて、ブッダになる


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遙かな道だが、ねっこはあるから、
いつか、きっと、なんとかなるんじゃない。。


終わり方が、いまいち、ブッダっぽくないけど
まあ、空だから、いいってことにしておいて。

空手還郷(くうしゅげんきょう) の お話でした。


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2017/01/27

それでも春へと

今年は、おかしな天候で、
ほんとに予測がつかないですね。

日本全国で、大雪のニュースも聞かれますが、
北海道でも異変が起きています。

札幌は今年は雪が多いのですが、
その代わり(?)
豪雪で有名な岩見沢では、今年はほんとに雪が少ないです。
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ガラスに映っている雪景色が、情けないです。

このまま済むとも思えないので、いつドカッとくるのか
岩見沢の人は、戦々恐々としています。


       ◇◇◇


あいかわらず、忙しすぎて、
日常と非日常が、共存しています。

物忘れするのは、年のせい
って、
みんな、不安になるかもしれないけど、

わたしの場合、あまりにいろいろあるので、
ほんとにきれいに跡形もなく忘れてます。

先日も、「シラバスいただいてないのですが。。」と言われて、
「あ、はじめて聞いた」と内心思いながら、

「あ、すみません、忘れてました、ほんっとすみません」
と、口先だけすまなそうに言いました。

これは、ひょっとして、

忘れていることも忘れている、って状態なの??

うーーーん!

さらに なおかつ、

「ああ、ありがたい、忘れてることも忘れててよかった、
言われるまで、心に憂うことが何もなかったもん。。」

って。


こりゃ、人生の末期症状かもしれないですね。


      ◇◇◇


ところで

忘れないのは、最近は、道元!

昨年の今頃は、『スッタニパータ』と格闘してたっけ。
昨年1月2月は、『スッタニパータ』にかじりついてました。


今年は、道元にかじりついてます。

経典の読み方を教わっています。

「信受して奉行する」

ということを、教わりますね。


こんなに「信」の人だったんだ。。

アーラーラ・カーラーマやウッダカ・ラーマプッタに就いて
禅定をならっていた頃の、若いゴータマに似てる気がする。

すごく重なってきますね。

道元って、何か、かわいいなあ。

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道元、台山より天童にかへる路程に、
大梅山護聖寺の旦過に宿するに、
大梅祖師きたり、
開花せる一枝の梅華をさづくる霊夢を感ず。
(『正法眼蔵』「嗣書」)


道元、ちゃんと、梅の一枝をもらって、法を受け継いでいます。
仏仏から仏仏へ、祖祖から祖祖へ。


梅の一枝で表される 法は、
若いゴータマのみずみずしい法だな。。


法は法なんだけどね、
でも、そんな気がしてならない今日この頃。


それでも、春へと向かってる。

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2016/12/31

一年の終わり

一年の最後なので、日記を更新しておかなくちゃ。

札幌は、雪国のはずだったけど、
12月の大雪には、みんなが泣かされました。
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渋滞につぐ渋滞
車で移動するのは、一か八かの賭のよう。
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除雪・排雪してください。
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そう言えば

台湾からの留学生の人が、

降り積もる大雪の中で
ポケットに入れてた メガネを
落として

必死で探したけれど
見つからなかった

と、泣いていました。


メガネも、雪のため
くもったので、
たまたまポケットにいれたのだとか。


雪にものを落とすと
ふんわり積もった雪の中に
沈んでいって
あとかたもなくなってしまうので

まず見つかりません。

春になって、雪が融けたら
出てきます。

なんてこった!

    ◇◇◇


雪の中に忘れ物をしたかのように、
一年がすぎますね。

わたしも、忘れ物は得意です。


何か、忘れてる。。。ぜったい、大事なこと。


公共料金は、督促状が来るので、安心だ(?)
督促状が来たら、払うと、忘れない。

っていうか、
これ
すでに忘れてるんだっけ。


講義や学校行事も、何とか大丈夫。

介護と猫の世話も、何とか大丈夫じゃなくできている。


今年も、おせちを作成中。
年賀状は。。。。

ああ、そうだった、年賀状は、

今年は、さりげなく、忘れているかのように
出さないことに心で決定して、

心の平安を得ました。


ああ、よい年の暮だわ。
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珍しく、苫小牧駅から見える煙突の煙が
まっすぐに伸びてました。

一本筋が通って、
ブラフマーの一日※が終わります。

来年も、どうぞよろしくお願いします。


※ ヒンドゥー教では、人間の一年が
ブラフマー神の一日にあたる、とされます。
昼の一日のことなので、正確には半日かな。

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2016/12/11

降った雪一日分

週末金曜日(9日)は、一つも雪がなかったのに

土曜一日で、これだけ降りました。
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車が、マシュマロみたいになってます。
札幌65センチの積雪だって。
横から車を見たところ、です。
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でも、よく考えたら、
風景が、例年と変わらんなぁ。

毎年、今頃はこんなだ、という、いつもの風景になりました。
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結局、今の時期としては例年どおり、ってことか。


       ◇◇◇


しかし、今年は本当に忙しい。

毎年、同じことを書いてるかもしれないけど、
一日が、気分としては、1時間で終わってる気がする。

疲れだけが、24時間分あって、
この湿った雪のように重い。

それでも、何とか勉強しようと無駄にもがくので、
机が、本で積み上がっています。

虚しく、あれこれ本を拾い読みしてますが、
たまたま『大智度論』と『十住毘婆沙論』を開いて読んだら、

なぜかすごくすらすらよくわかったので
「良しっ!」って、思いました。

「不滅」「不生」という『中論』の冒頭の二語を、
一週間ずっと考察してたからだろうか。


『大智度論』

これは、
世界がひっくり返っても、
地球が滅亡しても、
明日も大雪で家が埋もれても

龍樹しか書けない書だと
実感しています。

『十住毘婆沙論』もそう。

四悉檀説 (『大智度論』の最初にある)

これを、
どうして見出したのかも、
どうして分類づけたかも
どうして開設したかも、

みなわかってきました。


       ◇◇◇


『中論』は、名前の通り、「中道」をメインとする書ですが、

他は違います。

『十住毘婆沙論』は、その段階を超えています。

はっきり無生法忍を得た菩薩の道が示されるので、
『中論』より、内容が進んでいます。 

『大智度論』は、『中論』から『十住毘婆沙論』まで、
すべてを扱っています。

インド洋より深く、エベレストより高い、
そして、
虚空のように果てしない 般若波羅蜜 の極致が
示されています。

『大智度論』の中に、

一切の龍樹の書は、おさまるだろう。
やってないけど、そのはずです。

『方便心論』もある、『中論』もある、
『ヴァイダルヤ論』『因縁心論』『廻諍論』
『菩提資糧論』『十住毘婆沙論』もある

お正月のおせち料理の入った重箱みたいな本だ。
あらゆる料理が
吹き寄せになってます。


なんて、器なんだ!
幾重にもなった重箱の器

それが、龍樹の器です。。。。喩えが冴えないな。


ほんと


ほんとだにゃ~、冴えないぃぃ~、だるぅ
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ダンです。


ほんと


冴えない、だれてるにゃん、ダンきち 
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by きりりサムちん


だれてる管理人の日記アップです。


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2016/10/30

『龍樹『根本中頌』を読む』

Photo

新著です。さっそくご紹介します。『中論』の和訳解説が出ましたね。

  桂紹隆・五島清隆著 『龍樹『根本中頌』を読む』 (春秋社)

帯には、

『中論』の画期的な現代語訳!

とあります。

ざっと内容のご紹介といきましょう。

前半は、桂先生の 『根本中頌』の翻訳
後半は、五島先生の『根本中頌』並びに龍樹の著作・生涯の解説

共著ではありますが、それぞれ役割分担している点を考えると、
独立したものと考えてもよいかもしれません。

ただ、徹底的に議論して翻訳したともあり、
意見の合わないところは、別訳として示した、ともあります。


       ◇◇◇ 


率直な第一印象は、

『中論』の読みと解釈に関しては、
これまでの研究成果を十分取り入れて、吟味検討し、
よくまとまった内容が非常に丁寧に説かれている、

という感触をもちました。

集められた諸説の中で、多くの研究者の賛同を得るような、
もっとも合理性のある解釈が選び取られた、という感があります。

たとえば、龍樹の説く「縁起」について
「相互依存の縁起」と解釈する従来の解釈を紹介し検討して、
これを龍樹の説くものではないとして否定しています。

龍樹は、相互依存関係を説いているのではなく、
「依存関係そのものを否定しているのです」(p.253)
という理解を示しています。

その理由は、縁起と空性を一つととらえることによります。

第二十六章に関してですが、その解説の中で
縁起の還滅門にある十二支を、空性の理解によって一気に滅へと
導き出していきます。(pp.201-.205)

これによって、「依存関係」という見方を採らないことも
同時に示されていくことになります。


ここは、龍樹解釈として、
たいへんうまく説明してあると思います。

『根本中頌』において、
第二十六章に十二支縁起が説かれる理由を、
はっきりさせることにもなり、
これまでの龍樹研究より、明らかに前進しています。

『根本中頌』を一貫した龍樹作品ととらえ、
最終章第二十七章の最後におかれる、
ガウタマ(=仏陀)への帰敬偈を根拠にして

===
龍樹にとっては、自らの思想の基盤とする空性が
釈尊の説かれた縁起に他ならないこと、
この「縁起=空性」によって世に蔓延している
アビダルマ論師や文法かたちの実在論を
戯論による邪見・謬論として撃破すること、
さらにこの「縁起=空性」がもたらす吉祥の境地を
言葉で明示することが重要だったのです。
====(p.208)

と、結論づけています。


ただ、問題も、ありますね。。。


ここははっきりさせておきたいのですが、

五島先生の考えでは、
『根本中頌』において「縁起」は十二支縁起のことであるから、
これをあらためて空性の光で照らす必要はない、
とのことです。(p.201)

さらに、続けて、
====
龍樹にとって、「説法者中の最高の説法者である仏陀」が
説かれた縁起こそが、空性であり、この空性によって、
第十八章で示したように「空性→戯論の滅→分別の滅→
業・煩悩の滅→解脱」という還滅門が可能になるのです。
=====(p.201)


(帰敬偈によれば)

「縁起こそが空性である」

ことを、龍樹は示そうとした
と、五島先生は考えています。

縁起は、空性の光に照らす必要はないが、
縁起こそが空性であり、
その空性によって、還滅門が可能になる。。。

どういう文脈。。なのだ?

鶏が先か、卵が先か、みたいな感じもしてきます。
空性が先か、縁起が先か。。。

この点は、うーーーん、というところです。
どっちが先なの?
この文章。

おそらくは、帰敬偈を採るとすると、
五島先生は、
縁起のもとに、空性ありとしているような感じもありますね。

そうなら、

せっかく、「空性→戯論の滅→…→解脱」の構図を見いだし、
その「業・煩悩の滅」の項目に、
十二支縁起の鎖を対応させながら(p.204)、

なぜ、縁起 「こそが」 空性であることを、示そうとした、と見るのでしょう?

素直に見れば、図の通り、

空性の図式の中に、縁起(還滅門)が位置づけられているのではありませんか?

図式では、「空性」という項目が頭にあって、その中の、「業・煩悩の滅」に
十二支縁起があたるのだから、
龍樹は、

「空性は縁起でもある」

と見ているとした方が、
自然の流れのように思います。
縁起それ自体は、最後の方の第二十六章に説かれ、
メインに説かれているのは空性なのでありますから。

中頌の解釈そのものは、一貫した論理で
非常にうまくいっているのに、
出てきた結論が、
その論理に逆らうような解釈であるのが残念です。

何か作為的な印象を受けてしまいます。

『根本中頌』は、釈尊の「縁起(=十二支縁起)」を空性と見ることを
目的とした書である

と、意図的に印象づけようとしているかのような。

五島先生のこういう解釈から、また、,

空性と縁起についても

「依存関係そのものを否定しているのです」(p.253)

とする見方は、採用できないのでしょうか。

そうなると、ブッダは何も説かないことになって、
それなりにつじつまが合うような気もします。  


          ◇◇◇


本書の、もう一つの注目点は、「仏陀観」を検討していることです。

単数形で示されるブッダ(釈尊)
複数形で示されるブッダ(諸仏)

これらの違いに目を向けているのは、非常によい観点だと思います。
が、ここも残念なことに、作意が見られます。


単数形のブッダは、
十二支縁起を説いた歴史上のガウタマ・ブッダ(釈尊)

複数形のブッダは、
龍樹の主張する教説の称讃者・支持者、つまり、「大乗の諸仏」

(p.209)としています。

複数形のブッダが、「大乗の諸仏」であるとする根拠が、はっきりしません。
過去仏たちもいますから、それらのブッダも、複数形のブッダの中に
含まれると見るのが、ふつうの考え方ではないでしょうか。

取りあげられた用例の一部(MやQ)は、「過去の聖者」「過去の諸仏」と
解しているので、五島先生は過去仏も考慮されていることがわかります。
(pp.212-216)

そうであれば、

龍樹が、複数形のブッダとしているとき、
それは、複数のブッダをいうのであって、
大乗の諸仏であれ、過去仏であれ、未来仏であれ、
どんなブッダも対象になっている、と、
読めばよいのではないでしょうか?

また、「大乗の諸仏」とカギカッコ付きで述べるなら、
それらが、何を指しているのか、どのような根拠なのかも、
一般読者に向けて語る必要があるのではないでしょうか?

と、疑問を呈したところで、

このような仏陀観が、
その後の龍樹文献群の解説に反映されていますので、
ここは、問題があるように思います。

このような仏陀観をもって、『根本中頌』と他の龍樹文献群とを
比較し検討しているからです。


      ◇◇◇


龍樹文献群には、八つの著作をあげています。
1 『六十頌如理論』
2 『空七十論』
3 『廻諍論』
4 『ヴァイダリヤ論』
5 『宝行王正論』
6 『勧戒王頌』
7 『大乗二十頌論』
8 『因縁心論頌』

主要八文献のいくつかは、
『根本中頌』と同じ著者である可能性はある(p.320)
としながらも、
空観・縁起観・仏陀観などの検討にもとづいて

「縁起観や仏陀観のような
個人の宗教的信条の根幹にあるものが
そう簡単に変えられるとは思えません(p.320)」

として、これらの作品が龍樹作であることを疑問視しています。

五島先生の説としては

「龍樹著作は『根本中頌』のみであって、
それ以外の著作は彼の名のもとに作成された文献であるという
「仮説」を立てたいと思います。」(p.261)

ということです。

ここは、その理由になっている、先ほど述べた

「縁起観や仏陀観のような
個人の宗教的信条の根幹にあるものが
そう簡単に変えられるとは思えません(p.320)」

という部分が、確固としているかどうかによるでしょう。


        ◇◇◇


『根本中頌』と龍樹文献群との関係について

===
私は、『根本中頌』の作者のみを太陽に、
その他の諸文献の作者たちを惑星に見立てているのです。
===(p.262)

と五島先生は述べて、

その他の「龍樹文献群」の作者たちは空性の光のもとで、
それぞれ独自に主張を繰り広げたのだと考えています。


先入見を抜いて、素朴に考えてみます。

もし、すべて五島先生のいうところを認めてみますならば、

釈尊にしたがうという「宗教的な信条をもった」
『根本中頌』の作者龍樹が、
「空性」を唱道して、
実在論的な立場の者たちを斥けたことになりますが、
(あえて主張を立てなかったとはいえ)


そのような龍樹の釈尊への「宗教的な信条」は、

「空性」とは相容れないのではないでしょうか?


この「宗教的信条」、これが、龍樹の「 自性 」として、
『根本中頌』のみに認められることになり、
それによって、他の文献は龍樹作ではない

とされる
そのような五島先生の論理そのものを、

『根本中頌』の作者は、「空性」によって否定しようとしている
ようにも見えます。


      ◇◇◇


『根本中頌』の作者を龍樹として、
それ以外の文献群を、他の作者の作品としようというねらいは、
よく分かりましたが、

仮説を立てることにより
仮説であっても見解を持つことになって、

「見解をもたないこと(=空性)」を説く『根本中頌』の内容そのものに
反することになったのは、残念なことです。


もし、ほんとうに、「龍樹文献群」が龍樹作品でないのならば、
そのことは、自ずと知られていくことになろうかと思います。


     ◇◇◇


たいへん興味深く読みましたが、

ブッダ(釈尊)と龍樹の関係は、
いまだ完全に解明されたとは言えない

との結論をえました。

また、諸仏についても

===
勝者(=仏)たちによって、空性はすべての見解を取り除く手段であるといわれた。
しかし、空性を見解として持つ者は、救いがたいとも言われた。(『根本中頌』13.8)
===

この詩については、「勝者たち」と、複数形のブッダになっている理由が、
以下のごとく説かれていますが、
今ひとつすっきりしません。

===
「釈尊=空性を説く大乗の仏陀」の証明が為されていない、
本頌のこの章の段階では、大乗の立場に立っての説者は、
単数形のブッダではなく、複数形のブッダでなければならないのです。
===(p.214)

と、あって、やむなく「大乗の説を説く論者」としての立場を、
龍樹が採らざるをえなかったかのごとくに説明されています。

ここも、過去仏なども含めて、ただ「諸仏」では、ダメなのでしょうか。


あらかじめ仮説を立ててしまうことにより、それが、
本書の主張を形成し、解釈を限定してしまっているようです。

読者に解釈を任せる、という態度とは、うらはらに

読んだ印象は、

ずいぶん主張に満ちた龍樹理解である

という感想を抱きます。


     ◇◇◇


わたしは、
『根本中頌』は、龍樹が、ブッダから受け取ったもの
一切の表出であると、考えています。

見解をもたないこと

それを空性としたのが、
『根本中頌』の著者、龍樹であるなら、


読み終わったあとに


たしかに空性(=見解がないこと)が説かれていると、
実感できることが望ましい、のではないか

ということを思いました。


自分で自分に課した、この条件をクリアできるように、
『根本中頌』の解明を急ぎたいと思います。


 

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2016/10/20

ああ!

一ヶ月に一回しか、更新できないこの無念。
ようやく写真も撮って、更新だ。

ああ、もう秋ですね。
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三色そろって、きれいだな。

我が家では、いろいろあって、いろいろです。
母が入院してまして、今度、退院します。
わたしも、浄泉寺の法話会でお話しして、とっくに帰ってきました。
猫だけ元気で、人を見るとエサをねだる癖がついてしまいました。

あんまり、いろいろ、やるべきことがあるものだから、
いつも、
何か、忘れているんじゃないだろうか、と、
強迫観念がつきまとっています。

だから、

いつも、この世で一番何が大事か、ってことを、

考えてます。

いっちばん大事なことだけ、忘れまい!


この世で一番大事なことは、

     生死

である。


親鸞の語ったことばでいうなら

「生死出づべき道」

ブッダのことばなら

「みずから死ぬ存在であるけれども、
死ぬ存在の中に危難のあるのを知って、
死ぬことのない、
無上の安らぎである涅槃を求めてみたならばどうだろう」
(「聖求経」)

っていうことに、関わること。


しかし、他の立派な人たちは、
さっさと「生死を出る」ということを
考えているのに、

わたしの場合、
「大事なのは生死である」
と気づいただけか。。。

うーん

「生死を出る」という考えにたどり着くまで

まだまだかかりそうだな。

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道は遠いなぁ

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2016/09/08

あ!

っと、思ったら、9月も8日になっています。

8月は、何だったんだろう。。あったのか、なかったのか
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こんな日もあった。
まだ、ひまわりが咲いている。

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あんな日もあった。
なんだろ。。わからないけど、咲いている。

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そして、もっとも最近9月6日に撮った花です、
秋を感じさせますね。

ほんとに1年が早い、早すぎる。。
実は、わたしの中では、まだお正月のイメージが残ってます。

しかし、早くも、今年の年賀状も用意しなくちゃ、って感じになってきました。


          ◇◇◇


2009年に出版した『ブッダの優しい論理学』です。
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論理学の教科書として
学生さんと一緒に勉強してきたのですが、
少し新しい要素も入れて
改訂版を出すことになりました。

残念ながら、時間不足で、大きく改変できませんでしたが、
いくらか増補して、今までの内容に
ブッダの境地について、つけ加えました。


      ◇◇◇


ブッダの論理を

縁起

と見て、一貫して、それを語ったのが旧版です。

新版では、そこに 「 空 」 という特徴が
加わりました。

『ブッダと龍樹の論理学』
『ブッダの優しい論理学』
『空の発見』
『『スッタニパータ』と大乗への道』

これら四冊の書は、何のために書いたのだろう。
請われるままに

はいはい

と二つ返事で書いてきました。

何となく、時間に追われるような気持ちで
「書け」という声を聞いて
そのまま書いてきたのです。

一方

『龍樹造「方便心論」の研究』
『龍樹と語れ!』
『構築された仏教思想 龍樹』

これら三冊は、「書け」と言われもしましたが、
書かなきゃ、と思って、書いた書です。


今まで書いてきて、
特別に訂正したり、大きく路線を変更したことは
ない
みたい。。。です。

ありがたいことです。
論理的に一貫している、
と言えるかもしれません。


全部で、七冊。。
よくわからないけど、
時代の要請とわたしの衝動が
これらを生んできた
と思っています。

いずれ、書くことになるのが、
『中論』だと
思ってます。


『中論』の論理的な構造は、
ほぼ、わかったような気がします。

龍樹も、ブッダからずいぶん学んだんだな
って、思います。

真理表と、分類の数、
ここにいろんなブッダの智慧が眠ってる
って、気がしてなりません。


『中論』


全部消える という技
全部消える という業

それを 寂滅 と呼ぶ


これを示そう、
って思ってます。


    ◇◇◇


月日の経つのは早いけど
何とか、命尽きる前に
何とかしたい、何とか。。。Dsc02088s
あ!

(なに、この終わり方)

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2016/07/28

『スッタニパータ』と龍樹とわたし

しばらく写真もとっていないので、
なかなか、ブログの更新ができません。

なので、ふたたび、
『『スッタニパータ』と大乗への道』の写真をあげて、
これを、話題にしてみます。
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この本を読んでくれた人で、

確かに「大乗仏教」の思想が、ブッダの口から語られている
と、見てくれた人もいるようです。

が、

ぜんぜん、そう見えない人もいるようです。


ぶっきょうだなあ~~


って、すごく思いますよね。

このちがいだ。

見える人には見えるが
見えない人には見えない

これが、ぶっきょうのぶっきょうたるゆえんです。

経典は、人を煙に巻くような
煩悩のある人をまどわすようなところがあります。

でも!

これは、本当は言い方がおかしいのですが。。
 「煩悩のある人をまどわす」 ように見えるのは、
経典には、徹底的に無我や空の法が行き渡っているからなのです。

だから!

自分の煩悩に自分がまどわされてしまうのです。
経典は、無我で空の実践結果だから、
勝手に、みんなが思い思いに読んで
思い思いに煩悩を発露するのです。

おもしろいなあ。
不思議だわ。

note 私が両手をひろげても、
  お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
  地面を速く走れない。 note


      ◇◇◇


わたしは、
龍樹が、ブッダに出会って
何を見てきたのか
すごくよくわかる
ような気がするのです。

龍樹は、般若経典から学んで
空を説いた
という人がいるけれど、
本当は、そうではないことを
わたしは、知っています。

龍樹は、ブッダの直説から
学んだ 直弟子なのです。

般若経典は、龍樹のお兄さんみたいなもんだ。

龍樹は、
般若経典からも
浄土経典からも
法華経からも
学んでいます。

でも、龍樹は、
生まれた場所は
「如来の家」で、
住んでるところは
『スッタニパータ』 なのです。

『スッタニパータ』「八偈品」は、
四句分別が基調にあって、
そこに
「一切」が、あるのです。

ここをしっかりつかんで、
龍樹は、「如来の家」で育ったのです。


だから、龍樹は、大乗のお兄さんたち(大乗経典)と一緒に
歩んでいるのです。

note 私が体をゆすっても、
  きれいな音はでないけど、
  あの鳴る鈴は私のように、
  たくさんな唄は知らないよ。 note 
                      

夏休みは、『スッタニパータ』の第五章に挑んでみよう。
他にも、宿題いっぱいあるけど、ね。

notes  鈴と、小鳥と、それから私、
  みんなちがって、みんないい。 notes
(金子みすゞ 「わたしと小鳥と鈴と」)
                     
ブッダと、龍樹と、凡夫のわたし

みんなちがって。。。みんな。。。よかったっけ な?

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だいぶ前に撮った写真で、がまん。

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